79. テオニタスの執着
「イチカ、これ朝食?」
「あ、はい。あの・・・昨夜は助けていただいてありがとうございました。それなのに変なこと言ってその、ごめんなさい!!」
イチカは大きく頭を下げてテオニタスに謝る。彼は無言のままイチカの肩に触れ、顔を上げさせた。
「イチカ。俺は今まで誰かに本気で怒られたことも、誰かを本気で好きになったことも無い。だから昨日君にあんな風に言われて、正直戸惑ってる。」
「本当にごめんなさい!生意気なこと言って、お恥ずかしい!あの時はただ焦っててその」
テオニタスがイチカの唇にふわっと手を当てた。
「それ以上謝らないで。怒ってるわけじゃない。君のことを本気で好きになったから戸惑ってるって言いたかったんだ。」
イチカに向けられたその目は、彼の言葉が嘘では無いことを証明していた。イチカはその視線に困惑し、目が泳ぐ。
「あの、私は前も言いましたけどその気はなくて、だからその、ごめんなさ」
「イチカ、愛してる。」
その瞬間イチカはテオニタスの腕の中に包まれて、その衝撃の言葉に呆然として体が硬直した。
「ねえ、君をこのままさらっていってもいい?」
「い、いやいやダメです!!ダメですよ!?」
イチカは腕から逃れようとジタバタしてみたが、細身の体のどこにそんな力があるのか、全くそこから身動きが取れなかった。
「じゃあ、君と一緒に旅がしたい。」
「はい!?」
テオニタスがイチカから離れて少し屈み、イチカにパンの袋を手渡すとその肩に両手を載せて誘惑的な笑みを浮かべる。
「二択。さらっていくか一緒に旅をするか。ほら選んで。俺は諦めが悪いから。」
「いや、でも、それは、えーっと・・・」
「じゃあこのまま・・・」
「か、考えさせてください!!」
イチカが思わずそう言うと、ニヤッと笑ったテオニタスがようやく肩から手を離した。
「そう?よかった。じゃあお礼のキスを」
「調子に乗らないで!!」
「あはは!困った顔も可愛いな!」
「・・・はあ。」
イチカはとんでもない人を引き連れて帰ることになった自分の不甲斐なさに大きくため息をつき、思い足取りで支店に戻っていった。
そして今目の前にはシオンがいる。
「イチカ。俺、朝食を買ってきてとは言ったけど、こんな大きい荷物持ってこいとは言ってないよね。」
「はあ、ごもっともで。」
「・・・」
支店に戻ると、テオニタスを後ろに従えるようにして帰ってきたイチカをシオンは唖然として見ていたが、そのうちに全力で不機嫌な表情に変わった彼はすぐさまイチカに近寄り、苦言を呈した。
「やあどうも。イチカとは昨夜会ったけど、君とは二日ぶり?」
「昨夜、会った?」
シオンの冷たい視線がイチカに降り注ぐ。
「えーと、茂みに隠れてたらあの怖い男性がそこに突っ込んできて、逃げられなくなってたところを助け出してもらったと言うか・・・」
「ふーん。俺何も聞かされてないけど。」
「あはは、お腹空き過ぎて言い忘れてた。」
「・・・」
テオニタスはニヤニヤしながらイチカの後ろから声をかける。
「ねえイチカ、俺にお姫様抱っこされてさらわれかけたことは言わなくていいの?」
「え!?ちょっと!?」
「・・・イチカ、どういうこと?」
シオンの目がさらに冷たさを増す。イチカは混乱して二人の顔を交互に見る。
「いやあの何これどういう状況!?」
「あははは!君本当に面白いね。でさ、ものは相談なんだけど、俺も君達の旅に混ぜてよ。」
イチカはこの時ほど冷え切った空気を感じたことはなかった。冷徹なシオンが顔を出し、イチカはその顔を見て少し震える。
(どうするのどうしたらいいのこれ!?)
そんなシオンに全く動じることなくテオニタスはニコニコしながら返事を待っている。イチカはため息すら怖くてつけず、じっとそこに立ってシオンの言葉を待った。
「イチカはどうしたいの。」
「え?私?」
「そう。」
「いや、私は・・・」
「はっきりしなよ。」
「・・・怖いよシオン。」
「怖いってよ?じゃあ一ヶ月だけついて行っていいかい?その間に彼女を落とすから。」
「何だと!?」
「はあ・・・」
もうどうにもならないと判断し、イチカはその場で頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「じゃあその一ヶ月の間イチカには触れるな。彼女の心が変わるとは思えないけど、どうせ断ってもその顔はついてくるつもりなんだろ?だったら正々堂々とやれよ。その代わり俺も手は抜かないから。」
(何それどういう意味よ!?)
「いいね。そういうの面白い!でも俺だけ触れないのは不公平だから君も一ヶ月間は彼女に触れるなよ。触れてるのを見たらそのまま彼女を奪って逃げるから。」
「・・・わかった。あんたも約束は守れよ。」
「もちろん。約束を破ったらそこでお互い旅は終了だな。」
「あの、私の意見は・・・」
「お前はさっき答えるのを拒否したからナシ!」
「そうそう。どうせ意見を聞く気はなかったからナシだね。」
「・・・」
イチカは頭が痛くなり、立ち上がって二人から離れた。椅子に座って袋を開け、悔し紛れにシオンの分のパンも食べる。
「あ、俺のパンは!?」
「うるさい!あなたたちが勝手にするならこっちも勝手にする!二人とも今日はもう話しかけてこないで!!」
「イチカ・・・そんな!?」
「あははは!ああいう気が強いところが顔の可愛さとのギャップでいいよね!イチカ、愛してるよ!」
「あ、愛してる!?イチカ、こいつ何なんだいったい!!」
「もう話しかけないでって言ってるでしょ!!」
イチカは食べ終わった紙袋に一つだけシオンの好みのパンを残して彼の胸に叩きつけるかのように渡すと、不機嫌な顔のままそこを一旦離れた。
結局その日テオニタスは自分の部屋に戻ることになり、イチカはシオンの部屋に帰ることになった。彼はまだここで仕事があるからと言うので、イチカは黙ったまま頷いてその場で別れ、一人で部屋に戻る。
「はあ・・・全く何なのよもう。」
色々ありすぎて疲れ切ってしまったが、どうしてもお風呂には入りたくて、着替えを持ちシオンに教えてもらった共同浴場に向かう。まだ昼間ということもあり人は少なく、のんびりと風呂を楽しみ、少しだけ気持ちをスッキリさせることができた。
部屋に戻ると一気に眠気が襲ってきて、イチカはシオンのベッドに倒れ込んだ。今はもう何も考えないことにしようと決め、頭にタオルを巻いたままあっという間に眠りに落ちていく。
「イチカ。起きて。」
その声は優しく、温かい。ぼんやりとそれを感じてはいたが、イチカは目を開くことはできなかった。
「イチカ・・・今日だけはお前に触れてもいいか?まだ、旅は始まってないから。」
タオルを取られ、髪を撫でられる感触が伝わってくる。
「どうしてお前はこう厄介ごとを持ち込むんだ・・・せっかく距離が縮まってきた気がしてたのに・・・」
まだ、もう少しこのままで・・・
「イチカ、俺にはまだ言わせてくれないのか?」
「シオン・・・」
「起きてる?」
「無事で・・・よかっ・・・」
「・・・だからそういうのは反則なんだよ。」
首元にふわっとした温もりが感じられる。イチカはそれが心地よくて、再び深い眠りに落ちていく。
「イチカ、俺のことだけ見ろよ。苦しいんだ。もう限界なんだ。だからあいつのことを好きにならないでくれ、頼む。」
シオンはイチカの首筋に小さな痕を残し、頬と額にくちづけてからそっとその場を離れた。そしてイチカはそのまま、暗くなるまで一度も目を覚ますことはなかった。
「ううう、寝過ぎた・・・」
しばらくしてから目を覚ましたイチカは、暗い部屋の中手探りで蝋燭ランタンを探す。椅子にかかっていたコートを探ってポケットの中から取り出し、すぐに火をつけた。
「シオンはまだ帰ってないのか・・・。」
少しだけ寂しい気持ちになって、部屋のオイルランプにも火をつけ、玄関の方を向いたまま椅子に腰掛けた。ふと小さなその部屋を見渡す。ここには生活感を感じられるようなものは何もなく、温かみもない。こんな無機質な部屋で彼が三ヶ月もの間一人で暮らしていたのかと思うと、心が痛んだ。
(それは、寂しかっただろうなあ・・・)
たった数時間彼と離れていてもちょっと寂しいと感じてしまった自分が恥ずかしくなる。忙しくしていたとしても、この部屋で一人でいる時間はどれほど孤独だっただろうと、イチカは寂しがり屋の彼の気持ちを思い切なくなった。
その時玄関のドアがガチャっと音を立てて開き、イチカは顔をあげた。目の前のシオンが不思議そうな顔でイチカを見つめる。
「何、どうしたんだ?」
「ううん。ただ何となく、この部屋に三ヶ月もシオンは一人で暮らしていたんだなあって思って。」
「え?」
「寂しかったんじゃないかなって、勝手に想像しちゃってた。」
シオンが部屋に入り、イチカに近寄る。
「寂しかった。だから会いたかったって言っただろ。」
「うん。でもあの時は大袈裟だなって思ってたから。」
「あれは本心。」
「そっか。」
イチカはぼんやりとテーブルに置いた蝋燭の火を見つめる。
「イチカ。明日から俺はお前に触れない。」
「え?ああ、そうだね。」
「だから今夜だけは、たくさん触れておいてもいいか?」
イチカは驚いて彼の目を見つめる。その目には蝋燭の光と共に、イチカのことを想う気持ちが揺れていた。完全には受け止めきれない。それでも、自分もまた彼に寄り添っていたいと心のどこかで思ってしまう。
「ダメ、って言っても聞いてくれないんでしょ?」
「ああ。しばらく触れられないから、今夜だけイチカの温もりが欲しい。」
「ちょっと変な言い方はやめてよ!」
「どうして?これが俺の本音だけど。」
「・・・」
シオンは少し怒ったように唇を噛むイチカを椅子から立たせ、優しく抱きしめる。
「三ヶ月も我慢して、また一ヶ月もお預けなんだぞ。今でもイチカが足りないのに。」
イチカが呆れたようにシオンに言う。
「シオン、これもう口に出さなくても一緒なんじゃ・・・」
「そんなのもうお互いわかってることだろ?」
「・・・」
「もっと触れていたいんだ、お前に。」
「シオン!?」
「絶対にあいつには渡さないから。お前も余所見するなよ!」
「何それ!」
「俺のパン食べたんだからそれくらい言ってもいいだろ?」
「フィッシュサンド分を食べただけでしょ。借りを返してもらっただけ。」
「まだそれを言うのか!?全く相変わらず口が減らないな。」
「そんなのもうわかってることでしょ?」
「あはは!確かに!」
そしてシオンはイチカを抱きしめたまま、唇でそっと髪に触れる。
「え、ちょっと何したの今!?」
「いいから!お前はとにかく一ヶ月間、俺だけを見てろよ。」
「・・・一応検討はします。」
「まあ、俺も頑張るよ。」
そうしてシオンはイチカを優しく腕に包み込んだまま、イチカも今だけは仕方ないかと体を預けたまま、もう寂しくなくなったその部屋でほんの数分だけ、お互いの体温を受け止め合って立っていた。




