71. ベンの店と新しい住処
全く知らない町で迷子になることほど恐ろしいことはない。
そして今のイチカは自分がいったいどこにいるのかさっぱりわからず、どこも同じように見える白い壁に囲まれて頭を抱えていた。
「ここはどこ?迷うというよりそもそもどこに行くかも決めてなかったわ・・・」
自分の思慮の足りない行動を反省しながら、とにかく誰かに宿の場所を聞いてみようと、再び足を動かし始めた。
職人の町というだけあって、あちらこちらから様々な音が聞こえてくる。金属音、何かを叩く音、削る音、職人達が話す声・・・だが宿らしき場所は一向に見つからない。
「仕方ない、どこかの店に入って宿の場所を聞いてみるしかないか。」
イチカは心を決めて、すぐ近くにあった小さな工房らしき場所に近寄っていく。他の工房はどこも大きな看板が掲げられ、どんなものを作っているのか一目でわかるようになっている。だが目の前のここは小さな看板に工房の名前しか入っておらず、逆に興味を引かれてそのドアをノックした。
「すみません、どなたかいらっしゃいますか?」
鍵はかかっていなかったのでドアを開け、中に入って奥に声をかけてみる。すると「ちょっと待っててくれ」という声が微かに聞こえてきた。
室内には、見たこともないような工具や機械があちこちに置かれていて、イチカは物珍しそうにそれを眺めていた。どんな用途に使うのか全くわからないものばかりだったが、整理整頓が行き届いていることだけは伝わってくる。また、壁にはたくさんのフックが取り付けられ、何種類もの時計と細かい工具類が大きさ順に並べられていた。
重いリュックを背負い直し、そのまましばらく声の主が現れるのを待っていると、ドタドタという音が近づいて目の前のドアが開き、細身の五十代位の男性が顔を出した。
「おや、君のような若いお嬢さんがうちなんかに何の用だい?」
不思議そうな顔をしながらも丁寧に聞いてくれたことをありがたいと思いつつ、イチカは礼儀正しく挨拶をして道を尋ねた。
「お忙しいところすみません。実はこの町で迷ってしまいまして、この辺りにどこか宿はないでしょうか?」
男性はふむ、と顎に手を置き真剣に考えてくれる。
「無いこともないが、今は職人達が各地から集まっている時期だから、もしかしたら今から見つけるのは難しいかもしれんな。」
「え、そうなんですか!?」
男性はちょっと待ってろと言って再び奥に入り、彼と同年代に見える女性と一緒にすぐに戻ってきた。
「俺の妻だ。もしよかったら妻がやってる下宿があるからそこを貸すこともできるが、どうする?」
「え?いいんですか?」
隣に立つ女性が優しくイチカに話しかける。
「ええ、困ってるんでしょ?うちは今空いてるから構わないわよ。女性が一人、男性が一人入ってるけど、二人とも短期滞在なの。下宿って言うより宿みたいにして空いている部屋を貸してるだけだから、短期間でも使って構わないわ。その辺の宿よりも安くしとくよ!」
イチカはぱあっと明るい表情になり、繰り返し「ありがとうございます!」とお礼を述べた。
この店の主人はベンと言い、その妻はセイナと名乗った。二人には息子がいるがもう自立して別の町で働いており、今は夫婦二人でこの工房と下宿屋を営んで暮らしているとのことだった。
そんな話を聞いた後、セイナがイチカを下宿先となる建物まで案内してくれて、無事その日の寝床を確保することができた。
工房から数分のところにあるその建物もまた壁が真っ白で、外出した時に迷わないよう、屋根の色や玄関の特徴を目に焼き付ける。
そして建物の中を案内してもらうと、イチカはその快適な空間にとても驚かされた。
この下宿では手洗い場もトイレもお風呂も、感動するほど綺麗で新しい設備が整っていた。特にピカピカの湯船には一瞬で目を奪われ、是非とも今夜入りたいと今からワクワクしてしまう。
キッチンも小型ながら十分な火力が得られそうな煙突付きのかまどが二つあり、これは自炊が楽にできそう!とイチカはすっかり浮かれていた。
「さあ、ここがあなたのお部屋。掃除はしてあるけど、雑巾とかはあるから気になるなら拭いて使ってちょうだい。寝具は綺麗だから心配しないで。」
「ありがとうございます!大事に使わせていただきます。」
「はーい、ランプのオイルが足りなくなったら工房に行ってね。そうそう、家賃は週一回払ってもらってるわ。週末になったら工房に来て払ってくれる?」
「わかりました。」
「じゃあ、困ったことがあったらまた呼んでちょうだいね。」
イチカを二階の部屋に案内すると、セイナは笑顔で工房に帰っていった。
イチカにあてがわれたそこは四畳半ほどの小さな部屋で、小ぶりの両開きの窓が付いていた。それはおもちゃのようなサイズだったがきちんと開閉し、冷たい風を取り入れながら簡単に掃除をする。
ベッドと小さなテーブルと椅子一脚しかない簡素な部屋だったが、泊まるところがなかったイチカにとってこれほどありがたい場所はなかった。
リュックを置いて部屋の外に出ると、男性の入居者らしき人とすれ違った。チラッとイチカの方を見て軽く頭を動かし無言で部屋に入る。癖のある焦茶色の髪を一本で纏めている細身で長身のその若い男性は、なぜか少しこちらを警戒しているように見えて、イチカの心の中にそれが微かな違和感として記憶されていった。
午後、朝残しておいたパンを食べ終えると、地図や夕食の材料を購入しようと外に出てみた。だが現在地がわからないイチカは結局玄関で立ち止まったまま、辺りをキョロキョロ見回して途方に暮れていた。
そんなイチカの後ろから「君、ここで何してるんだ?」という声が聞こえてきてパッと振り返ると、先ほど会った男性が、未だ警戒しているような様子でイチカを見ていた。
「ああ、邪魔ですね、すみません。」
と言ってイチカがその場から動くと、男性はそうじゃないと言うように首を振り、再び口を開く。
「何か困ってるんじゃないのか?」
「え?」
「困っていることがあるなら手助けするけど。」
意外な言葉が返ってきてイチカは戸惑う。だが助けてくれるというのであれば甘えてしまおうと、思い切って困っていることを打ち明けた。
「あの、この近くに地図を売っている店ってありますか?」
「それは知らない。」
「・・・そうですか。」
「でも行きたい所があるなら案内はできるけど。」
「いえ!そんな、ご迷惑では?」
そこで初めて彼はニヤッと笑った。イチカは不思議と彼が悪い人ではないような気がして、図らずも心を許してしまう。
「全く。どこに行きたい?」
「あの、この辺りで夕飯の買い物をしたいのですが、近くでお店が集まっている場所はご存知ですか?」
「知ってる。じゃあ案内するよ。行こう。」
なぜか流されるように名も知らぬその男性と町を歩くことになり、人生って不思議ね・・・などと危機感も無くぼんやりとしながらその男性の後をついていった。
無事商店街らしき場所にたどり着いた二人は、なんとなく互いのことを話しながら買い物をしていく。
「俺はテオニタス・ベルー。二十四歳。君は?」
「私はイチカ・アオキです。十六歳です。」
「イチカさん。何でこんな職人だらけの町に来たんだ?学校出たばかり位の年だろ?君も職人を目指してるの、服飾とか?」
「いえ私は、えーっと、成り行きで・・・」
(それ以外に説明しようが無いんだよね・・・)
「成り行きで?面白いこと言うね、君!」
なぜか面白がられてしまってイチカはあははと乾いた笑いを漏らす。テオニタスは少しずつ笑顔が増え、楽しそうな表情を浮かべるようになっていた。
「それで、何を買いたいんだ?」
「食料品と、有れば地図も欲しいんですけど。」
「食料品はあの店がお勧め。安くていいものが多い。地図はうちに行けばあるから貸してあげるよ。無駄なお金使う必要ないさ。」
イチカは初対面の自分への彼の優しさに感動しながら、繰り返し頭を下げた。
「ありがとうございます!助かります!」
「いいよ。それより夕食は何作るの?」
「まだ決めてないんです。あ、もしよければテオニタスさんの分もお作りしますよ?地図のお礼に!」
テオニタスはその言葉に嬉しそうに微笑んだ。整ったその顔にはえくぼが浮かび、屈託なく笑う声や表情にイチカは自然と好感が持てた。
「おお!それ嬉しいね。じゃあ俺は美味しそうな酒でも買って帰るか。帰ったら一緒に夕飯食べよう。」
「私、まだ十六歳なのでお酒は・・・」
「まあ確かに若いけど、でも別に飲んじゃダメっていう法も無いんだからいけるだろ。さ、早く買い物して帰ろう。」
(そうか、この世界だとお酒、もう飲めるのね・・・)
そうして二人はあれこれと話しながら買い物を済ませ、イチカの新しい住処へと帰っていった。
その夜は結局一緒に料理も作り、作ってすぐに二人でできたものを食べていった。テオニタスは料理が上手で、酒のつまみになりそうなものをパパッと作ってイチカに振舞ってくれたりもした。
イチカはワインを一杯だけもらい、久しぶりに味わうその芳醇な香りや味わいに酔いしれる。わずかでもこうして大人な時間を取り戻せたことで、気分も次第に上がっていった。
「イチカさん、お酒飲み慣れてるよね。」
「え?」
「さっき年のこと気にしてたけど、本当は年齢、誤魔化してる?」
「あはは、久々に言われましたそれ。」
「へえ。やっぱり面白いね、君。」
テオニタスはワインのグラスを空けると、イチカの側に立った。
「どうしました?」
「いや、何となく。ねえ、しばらくここに暮らすの?」
「はい、まあ、たぶん。」
「決まってないってこと?」
「あー、実は私ずっと旅をしていて、この町には仕事仲間と一緒に来たんですけど、ちょっと喧嘩しちゃって。」
イチカが言いにくそうにそう話すと、彼は納得したというように頷いて言った。
「そういうことか。じゃあ、ここにいることも知らないのかな?その人。」
「はい、まあ。」
「ふうん。ま、ここにいる間は仲良くしてよ。じゃ、そろそろ片付けて寝ようか。」
「そうですね!」
そうして楽しい宴会は幕を閉じ、イチカはすっかりご機嫌になって、その日は夢も見ずに朝まで爆睡してしまった。




