67. 二人の幸せな一日
イチカはお休みをもらった翌日、エレノアから借りたコートを羽織ってゾーヤへの手紙を持ち、隣の町の場所を聞いて歩いてそこに向かうことにした。
この一ヶ月間シオンはエレノアの家を一度も訪れることはなく、イチカは少しだけ寂しく感じていた。今日は町に出れば彼に会えるかもしれないと心のどこかで淡い期待を持ちながら、エレノアの家を出発する。
ここに来た時に通った森と違い、修行にも使った小さなこの森は比較的安全だと聞いていたため、イチカは警戒しながらも比較的穏やかな気持ちでのんびりと歩いて町に向かった。
その森を抜けしばらく歩くと、草原が広がる場所に差し掛かる。もうすでに緑から薄い黄色や茶色に変わりつつあるそこは、強い風が吹き抜け風を遮る場所もない。冷たい風が容赦なく体温を奪い、寒さが身に染みてイチカは心が折れそうになっていた。
「寒い・・・コートがあっても中が薄着だから・・・向こうで冬向けの服を買って帰らないと。」
予想以上の冷え込みに、体を縮こめるようにしてジリジリと進んでいく。だがその冷たい風が吹き荒ぶ道を三十分も歩いていくと、次第に指はかじかみ、顔も冷たくなっていった。建物も人の姿も無いその道で、イチカはこの世界に来て初めて、心細い、と感じていた。
「シオン・・・」
そしてその心細さの中でイチカの口をついて出たのは、なぜかシオンの名前だった。
「イチカ!?」
幻聴すら聞こえるなんて重症ねと、少し朦朧とした意識の中で自虐的に笑ってしまう。
だが次の瞬間、イチカは現実にその声が存在していたことをその体で実感することになった。
「イチカ?どうしたんだこんな所で!?こんなに冷えて!!」
「え、シオン?本物?」
イチカはシオンの腕の中に包まれ、その温もりに体も心も溶かされていくように感じながら、現実かどうかを手で確かめていく。
「当たり前だ!イチカ、どうして一人でこんな所にいたんだ?しかもこのコートじゃ寒いだろ?ああ、もう!!」
「え?ちょっとシオン!?」
シオンは自分の着ているコートを広げてその中にイチカを包み込む。イチカはその状況のあまりの恥ずかしさに身悶えた。そしてその熱く感じるほどの彼の胸に包まれながら、これは現実なんだとようやく実感していた。
「ちょっとこれはさすがに恥ずかしすぎるよ!!出して!!」
「こんなに冷えて・・・前から見たらすごくふらふらして歩いてたんだぞ!体が温まるまで我慢しろ!!俺だって恥ずかしいんだ!!」
シオンのその言葉に何も言えなくなり、誰もいない草原の真ん中で彼の心臓の鼓動だけがイチカの耳を占領していく。
「シオン、心臓の音が速い・・・」
「こら!何も言うな!」
「うん。」
しばらくそうしていると次第に体が温まり、イチカはそっとシオンの胸を押した。
「もう平気。ありがとう。」
「そうか?もう少しいてもいいけど。」
「バカ言わないで。」
「ちっ」
「ほらそこ!舌打ちしない!」
シオンはゆっくりとコートから解放し、イチカに微笑みかけた。
「イチカ、久しぶり。」
「うん。元気にしてた?」
「あー、元気ではあったけど色々あり過ぎて疲れたよ。」
「そうなの?」
イチカが不思議そうに顔を見上げると、シオンはなぜか苦しそうな顔になり、もう一度イチカを抱きしめた。
「会いたかった。」
「え・・・」
その言葉に、イチカの心は大きく波立つ。
「やだ!たった一ヶ月じゃない!大袈裟だなシオンは!」
努めて明るく振る舞ってその雰囲気を紛らわそうとするイチカをほぼ無視して、シオンはさらに甘い言葉を囁く。
「イチカも、寂しかったんだろ。」
「まさか!私は別に・・・」
「さっき俺の名前を呼んでたくせに。」
「聞こえてたの!?」
「ふーん。」
シオンがスッとイチカから離れ、少し屈んでイチカに悪戯っぽい眼差しを向けた。
「やっぱりイチカも俺に会いたかったんだ?」
「・・・回答を拒否します。」
「あっそ。」
イチカが拗ねたような顔で目を背けると、シオンは苦笑しながらイチカの手を握った。
「それで、町に行くつもりだったのか?」
「うん。冬向けの服を何も持っていなくて。村にはあまり服は売ってないから、手紙を出すついでに町に行こうと思って来てみたの。でも思ってた以上に寒くて、参っちゃった。」
「そっか。じゃあ、一緒に行こう。」
「うん。」
二人はゆっくりと町に向かって歩き始めた。シオンの手がイチカをじんわりと温めていく。その温もりをありがたいと感じながら、横にいる彼の顔を見上げた。そこにはまっすぐ前を向き優しい目をして嬉しそうな表情を浮かべている、一人の大人の男性がいた。
(ああ、だめだ。彼のことを意識し過ぎてる。どうしたらいい?私はどうやって自分の心を偽ったらいい?)
その視線に気づいた彼が、目を細めてイチカを見つめてくる。その視線がひたすら甘いものに感じられて、イチカはただ目を伏せて歩き続けることしかできなかった。
二十分ほど歩くと、ようやく町らしい景色が見えてくる。目指す町は少し小高い丘の上にあるようで、二人はゆっくりと、乾燥した空気で埃っぽくなった緩やかな坂道を上がっていった。
「なあ、イチカ。服以外に欲しいものはないか?」
「服以外?うーん、特に無いけど、どうして?」
「いや、最近忙しかったし臨時収入もあったからさ。何か欲しいものがないかなと思って。」
イチカは、ああ、なるほど!と言って微笑む。
「でも大切なお金でしょ?大事に取っておいてよ。私は何もいらないよ?」
「そう、か。」
(あれ、失敗したかな?まあ誰かに買ってあげるって言うのも楽しいものだしね・・・)
少し寂しそうな表情になってしまった彼を見て、イチカはちょっぴり心が痛む。坂を上がって町の中に入ると、早々に見つけたある店の前でイチカはピタッと立ち止まった。
「シオン、じゃああれ、買って!」
イチカが指で店のショーウインドウを示す。
「どれ?」
シオンが指差した方向を見る。そこには薄いブルーの暖かそうな手袋が飾られていた。
「ほら、あの手袋。暖かそう!」
「ああ。いいな、あれ。イチカにきっと似合うよ。」
「シオン・・・なんか調子狂うよ。」
「イチカに会えて嬉しいんだよ。たまにはいいだろ?」
「・・・うん。」
再会してからずっと優しく甘いままの彼につい寄りかかってしまいそうになるのをグッと堪えて、イチカは元気に話しかける。
「後は服だね!暖かいのを買っておかないと帰り道も凍える!ちゃんとした冬服を買って、シオンいらずになるほどモコモコになって帰るわよ!」
「モコモコか。それもいいな。」
「シオンもモコモコしたもの買う?」
「そういう意味じゃ無い。」
「・・・」
よくわからない沈黙が二人の間に訪れて、イチカはようやくそこで落ち着いて町の景色を見渡した。
初めて来るこの場所は、白い壁とカラフルな屋根がずらっと並ぶ不思議な町だった。高さはまちまちだが、どの家ものっぺりと白い壁に覆われていて、屋根だけが個性を出す場所だと言わんばかりに皆違う色で覆われている。窓も比較的小さいものが多いようだ。
「不思議な町だね。物語の世界に迷い込んだみたい。」
「確かに初めて見た時は俺も驚いたな。ここはゼキラムって言う町。職人が多く暮らす町なんだ。時計も武器も服飾も、様々な分野の職人が腕を競い合って暮らしている。イチカが使ってる懐中時計も多分ここの職人が作ったものなんじゃないかな。」
「へえ!色々な職人さんが住んでいるのね。じゃあ服も期待できそうね。」
「ああごめん、のんびり歩いて。まずは服を買って着替えよう。寒いだろ?」
シオンに手を引かれたまま、イチカは冬物の服を買うためいくつかの店を回った。無事暖かい服装に着替えることができ、ようやく帰りの不安から解放されたイチカは、他の店も覗きながらシオンと町を楽しんだ。
「イチカ、ちょっとこの店で待ってて!」
しばらくウロウロと町の中を歩いていくと、ふいにシオンがそう言ってイチカから離れていった。彼が離れたことを少しだけ寂しく感じながら、その小さな店の中で帰りを待つ。
そこはジャンルを問わず様々な雑貨やアクセサリーなどが置いてある、ごちゃごちゃとした店だった。暇つぶしにはちょうどいいかと、イチカはあれこれと手で触れながら商品を見ていく。
「あ、これ、シオンの剣に似てる・・・」
イチカが手に取ったのは小さな輝く石が一粒埋め込まれた、剣の形のペンダントトップだった。
細い革紐も売っていたのでセットで購入し、買ってしまってからひどく狼狽える。
(何してるんだろう、私は!)
シオンのために買ったという事実を「友達だから」と自分を誤魔化してみたが、どうしてもすぐに渡す気にはなれず無造作にそれをポケットに突っ込んで店の外に出る。そこにタイミングよくシオンが戻ってきた。
「イチカ、お待たせ。」
「お帰り。どうしたの急に?」
「これ、さっきの手袋。」
シオンが綺麗に包装された小さな袋を差し出した。イチカはそれを少し照れながら受け取る。
「ありがとう。」
「どういたしまして。」
二人はただ微笑み合い、小さな贈り物が分け合った幸せに浸った。
「もうだいぶ遅くなっちゃったから、そろそろ帰るね。今日はありがとう、シオン。」
「バカ言うな!家まで送るに決まってるだろ!」
少し不機嫌そうなその顔も久しぶりだな、と思いながらイチカはついにやけてしまう。
「フフフ!ありがとう。じゃあ行こう?」
「おう。行くか!」
イチカは再び繋がれたシオンの手を今日だけは素直に受け入れて、ぽかぽかになった心と体のまま、エレノアの待つ家へと帰っていった。




