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52. 森の中の家

 大きな湖の全景が見え始めると、イチカは少し興奮しながら窓を開けた。生ぬるい風が馬車の中に入る。だが暑くなり始めた車内ではむしろそれすら心地よく感じる。


「綺麗ね・・・大きい!あ、あの湖沿いのところが町になってるのかな?」

「イチカ、楽しそうだな!」

「まあね。山ばっかりあるところで長く暮らしていると、湖なんてちょっとした奇跡だからね。ああ、いつか海も見たいなあ。」


 シオンが頭にポンと手を載せる。


「いつか行ってみよう、二人で。」

「・・・そうね。」


(しょうちゃんと行ったあの海にはもう行けないけど)


 キラキラと日の光を反射する湖面を見つめながら、イチカは翔太と二人で行ったあの海を思い出す。靴に入った砂も、潮風で少しパサついてしまった髪も、温かい手の温もりも、二度と戻ってはこない。


「イチカ。」

「あ、ごめん。ちょっと、昔のことを思い出してた。」

「・・・うん。そんな気がした。」

「シオン!?」


 気がつくとまた彼の腕の中に包まれていた。


「バカだなイチカは。いくらでも思い出していいんだ。悲しい時は俺がいるから。大事な人だったんだろ?いっぱい思い出して、いっぱい悲しくなっていい。その代わりもっと俺を頼ってくれ。何もできないけど、側にはいるから。」


 イチカはずっと気付かないふりをしていたあることが、心の中で言葉になっていくのをもう止められなかった。


(シオンは私のことを・・・)


 だがそれを口に出すことはしない。気付かないままでいることが今の自分にとって絶対に必要なことだと、イチカは信じて疑わなかった。


「シオン、ありがとう。でも大丈夫。私はこのまま彼だけを思い続けて、いつか彼のところに行くの。でも一生懸命生きないと堂々と彼に会えないから、今は元気に明るく生き抜くよ!ほら、だからもう離して、ね?」


 シオンがその言葉から何かを感じ取ったかのようにパッとイチカから離れた。


「俺は・・・」

「シオン、私達は相棒で、友達だよね?」

「・・・ああ。」

「うん。そうだよね。ずっと、友達でいてね。」

「・・・」


 そこから二人はただぼんやりと景色を眺めながら、到着するまでの間、それぞれの思いの中に沈んでいった。




 湖沿いの町に到着すると、二人は馬車を降り荷物を背負った。久しぶりの荷物は、肩にずっしりと重く感じる。


「それじゃあまず宿を探すか。湖沿いは観光客が多いから、少し奥まったところで探そう。」

「うん。」


 シオンの先導で歩きだし、十分程度歩いたところで無事今日の宿を確保した。荷物を部屋に置いて外に出ると、今度は家探しが始まる。


「まあほぼ確定はしてるんだけど・・・知り合いが今使っていない家を借りられないかなと思ってるんだ。まずは彼の今住んでいる家に行ってみよう。」

「わかった。ねえ、帰りに少し湖の周りを歩いてもいい?」

「ああ。一緒に歩こう。」

「・・・うん。」


 先ほどの馬車の中での会話以降、シオンの視線が以前よりも強くなっているような気がして、イチカは落ち着かなかった。



 到着した場所は一風変わった家だった。丸みのある屋根と落ち着いた何色ものパステルカラーで塗られた壁が目に入り、イチカは何度も瞬きをしてしまう。


「何ここ?誰かのお家なの?」

「ああ。自称、天才画家なんだってさ。ま、とにかく行こう。」

「自称・・・」


 シオンに促されて玄関まで歩き、彼がノックをして家主の返事を待った。


「・・・いないのかしら。」

「いや、いるさ。まあちょっと待ってな。」


 すると中からガタンゴトンという大きな音が聞こえた後一瞬静けさが訪れ、そして唐突に玄関のドアが開いた。そこには髪を後ろで一本にまとめた線の細い感じの男性が現れた。白くゆるっとした襟のないシャツと、作業用らしきズボンを履いている。どちらもあちこちに絵の具が付いていて、今も絵を描いていたのかしらとイチカは首を傾げて彼を見ていた。


「や、やあ、シオンじゃないか!どうしたんだい?」

「久しぶり、クライド。相変わらずゴタゴタしてそうな家だな。」

シオンが首を伸ばして玄関の向こうを覗こうとする。

「まあ。でも落ち着くんだよ、あっちの家より。」

「ああ、こちらは俺の相棒、イチカ。イチカ、彼はクライド。今日借りにきた家の家主。」

「初めまして。イチカ・アオキです。」

「・・・いい。」

「え?」


 クライドの目の色が変わった。玄関から飛び出してイチカの手を両手でがっしりと掴む。


「ひい!?」

「いい!君、僕のモデルにならない?今日この後時間あるかな!?」


 シオンがあっという間にイチカをクライドから助け出し、自分の後ろに隠した。そして凶悪な顔と言えるほど怖い顔をしてクライドを睨む。


「シオン!?そんなに怒らなくても・・・」

「イチカは駄目だ。触るのも駄目!」

「そんな・・・こんな逸材を・・・」

「あはは。」


 微妙な空気が流れた後、シオンが本題を切り出す。


「とにかく、今日はそんな話をしにきたんじゃなくて、今使っていない家の方を貸してほしいと思ってここに来たんだ。おい、いつまでもイチカを見てるんじゃない!」

「いや、だってこんな美少女・・・何も裸になってくれって言っているわけじゃないんだ。ちょっとそこに座っていてくれれば・・・」

「は、裸!?彼女の前でなんてことを言うんだ!!」

「ちょっとシオン、落ち着いてよ!」

「うう、今日のシオンは怖いよ・・・」


 その場が混沌状態となってしまい、イチカは頭を抱えた。


「仕方ない、今日は諦めるよ。で、向こうの家を借りたいの?」

「・・・はあ。そうなんだ。今は全く使ってないんだろう?最低でも一ヶ月は借りたいんだけど、どうかな?」

「構わないよ。ついでに彼女をモデルにさせてくれたら家賃もいらないんだが・・・」


 チラッと様子を見ながらクライドはそう提案したが、シオンは再び顔を顰めて「駄目だ」と拒絶する。


(シオンの過保護ぶりにも困ったものね・・・)


 イチカはこっそりため息をついて、二人のやり取りを黙って眺めていた。



 結局絵のモデルになるという案は却下され、シオンが予定していた通り、家賃を払ってクライドの今使っていない方の家を借りることになった。


 今日は鍵だけを受け取り明日朝から片付けに行くことが決まったので、二人はそのまま湖に向かった。


 もう日は落ち始めていたが、イチカはゆっくりと湖沿いの道を歩き、シオンはその後を寄り添うようについていく。


「シオン、付き合ってくれてありがとう。そろそろ暗くなりそうだから、もう宿に帰ろうか。」

「イチカ。」


 シオンの声がいつもと違う気がして、イチカは立ち止まっても振り返ることはできなかった。


「シオン、帰ろう。」

「・・・ああ。」


 彼が何を言おうとしていたのかわからないほどイチカの中にいる自分は若くない。だからこそその言葉を今聞いてしまうとそこで何かが終わっていく気がして、思わずシオンの言葉を遮った。


(シオン、ごめんね)


 お互いにたくさんの秘密と言えない思いを抱えたまま、二人は暗くなりつつある道を少し離れて歩き、宿に戻った。




 翌日、朝には宿を出て、クライドから借りた家に向かう。湖の栄えている場所の反対側、山の斜面に近い方の森の中にその家はあった。


 そこは昨日見た家とは違い、平家の小さくシンプルな木造の家だった。寝室は二部屋あり、後はキッチンとダイニングで一部屋、リビングが一部屋、そして倉庫のようになっている画材置き場のような部屋が一部屋あった。お風呂もトイレもしっかりついていたが、水はすぐ側の井戸から汲む形になっていた。


「道はきちんとあるし、森と言ってもそこまで深くはないのね。あ、湖も見える!」

「この辺りは民家もあるし、買い物は遠くなるけど行けない距離じゃない。一応小さな商店くらいなら少し先に何軒かあるから、そっちでも買い物はできるよ。」

「そうなんだ。静かで暮らしやすそうなところだね。」

「ああ。・・・俺は結構外に出てることが多くなると思うから、お前も気を遣わないで過ごせるよ。」


 シオンがいつもより弱々しい笑顔でそう言った。


「何それ!シオンなら一緒にいても気を遣ったりしないよ。たまにそうやって弱気になるのが不思議。いつもはあんなに強引なのに。」


 イチカはそう言ってにっこりと微笑みかける。だがシオンはもう笑っていなかった。


「俺は、イチカといるといつもの自分じゃなくなる。でもそれがどうしてなのか、イチカは知りたくないんだろ。」

「・・・!」


 真剣な表情のシオンと目が合い、イチカも微笑みをなくしていく。


「私は何も知らないし、これからも知るつもりはない。私達は相棒で友達だから困った時は助け合うし、仕事も一緒に頑張る。信頼もしてる。でも、それだけよね。」

「ああ。・・・今は。」

「・・・」

「とにかく俺はいない日も多いと思うから、ここは自由に使ってくれ。」


 そう言って背中を向けたシオンのシャツを、イチカは無意識に掴んでいた。なぜか彼がとても遠くに行ってしまいそうな気がして、一瞬怖くなる。


「あ・・・ごめん。」

「イチカ?」


 振り返った彼と目を合わせず、手をパッと離して急いで片付けを始めた。


 その日のうちになんとか掃除と片付けを終え、買ってきておいたパンなどを食べてその日は早めに就寝した。


 暗闇の中に包まれた部屋の中で、イチカは自分の気持ちと彼の気持ちの両方から目を背けて生きていくことを誓う。ここでの生活を通して新たな自分の力を養い、いずれは一人で、この世界での生を全うしていくためにも。


 そしていつの間にか、イチカは深く深く、夢も見ない暗闇の中に意識を溶け込ませていった。


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