⒌ 新しい自分
「お父さん、それってお母さんのことが何か関係あるの?」
フィオレイナの言葉に項垂れていたマシュートは少しだけ顔を上げた。
「ああ。母さんはお前を身籠もってすぐの頃、体を壊して一度死にかけたことがあったんだ。元々体も弱かったから覚悟はしていたんだが、奇跡的に無事生還した。でもそのせいで、彼女には神の力が宿ったと見なされたんだ。だからそんな彼女を王国の奴らは無理やり召し上げようとした。まだ子どもがお腹にいるというのにだ。」
「ひどい・・・」
「だから父さんは母さんを連れて逃げた。遠くまで逃げるつもりだったんだが、母さんをそんなに大変な旅に連れて行くわけにはいかない。だからあの森に逃げ込んだんだ。」
マシュートの話で、どうして自分達があんな森の中で暮らしてきたのか、ようやく理解できた。
「あの森はお前も知っているように、様々な事情を抱えた人が暮らしている。でも悪い人はほとんどいない。あんな深い森では、自分と真摯に向き合える人間でなければ生きてはいけないからね。そして当時そこにたまたま住んでいた助産師さんがお前をとりあげてくれた。・・・でも、母さんは助からなかった。」
マシュートは泣きそうな顔で、切なそうに微笑んだ。
「お父さん。私ね、前の世界での名前は『イチカ』って言うの。今の名前も好きなんだけど、この名前も気に入ってるんだ。」
フィオレイナの言葉に何かを感じたのか、彼の目が少し輝いた。
「『イチカ』・・・それは奇跡の、そして幻でもあるあの花の名前だね。」
「うん。昔お父さんが読んでくれた本にあったよね?」
「そうそう、よく覚えていたなあ。その花に出会えた者は、どんな願いも叶うと言われている。誰も実際にはどんな花なのか見たことがないが、なぜかその花に出会って救われた、という人の物語はたくさんあるね。」
マシュートに笑顔が戻った。
「そう。だから私はお父さんの奇跡の花になるよ!お母さんにはもう会えないけど、私はずっとお父さんと一緒にいるから。」
「ありがとう。でも将来いい人がいたら、お前も幸せになっていいんだよ?」
「うふふ、私一度してるから、結婚はもういいかな。」
「そんな・・・寂しいことを言わないでくれ。前の記憶があるのは辛いことかもしれないが、今は今のお前の人生を歩めばいいんだ。・・・それと、もしその名の方がしっくりくるなら、変えてもいい。」
一瞬、悩んだ。
そしてその父の言葉が心の中で、蕾が開くようにふわっと広がっていった。
(しょうちゃんが呼んでくれた名前、私の、大切な名前・・・)
「じゃあ、イチカ・フィオレイナ・アースル、になってもいい?」
「・・・仕方ない。うちの娘は一瞬でずいぶん大人びてしまったが、お前はお前だ。どんなお前でも、私は愛しているよ。」
「お父さん・・・ありがとう!」
そしてフィオレイナはこの日から、『イチカ』として、大きな運命の渦の中に身を置くことになった。
翌日、荷物をまとめて宿を出ると、町は何やら騒がしかった。
「何かあったんですか?」
マシュートが近くにいた人に聞いてみると、昨夜男性があそこの路地で変死体で見つかったらしい、と教えてくれた。
細い路地の奥を見ると、その近くに人だかりができていた。死体らしき膨らみがある場所には、布が掛けられているようで、そこには町の警護にあたる兵士のような姿も見えた。
「どんな人だったんですか?」
「いやあ、なんでもこの辺りを根城にしている違法薬物の密売人だったみたいでね。昨日誰かを必死に追いかけてたみたいだから、仕事に失敗して睨まれちゃったんじゃないかねえ。」
「はあ、そうですか。・・・怖いですね。」
そしてフィオレイナ改めイチカは、もしかして昨日少年が紙袋を奪ったあの男性では?と考えたが、それ以上首を突っ込むのはまずいと大人の判断を下し、黙ってその様子を見守っていた。
(あの少年は、男性が持っていた薬物か何かを奪ったってことかしら。だとしたら犯罪を防いだってこと?でも結局あの人は殺されてるし・・・)
昨日の少年の目的も素性もわからないままだったが、とにかく彼のお陰で前世を思い出したことは間違いない。イチカはその現場から目を背け、父を引っ張ってその場を離れた。
(しょうちゃん。私ここでもう一回人生をやり直してる。でも本当は今すぐしょうちゃんに会いたいよ。どうして生まれ変わったりしちゃったんだろう・・・)
自分の数奇な運命を呪いながら、イチカは父と町を離れ、荷物を抱えて森の中の村に帰っていった。