44. 心の距離
散々シオンの腕の中で泣いてしまったイチカだったが、時間が経つにつれ少しずつ落ち着きを取り戻していった。そして涙で濡れたシオンの胸元の冷たさでようやく冷静になり、顔をあげた。
「シオン、ごめん。服が濡れちゃった。」
「バカ、そんなこと気にしなくていいんだよ。それより、落ち着いたか?」
「うん、本当にごめんね。もう平気。」
「そっか。なあイチカ、今でも旦那のこと・・・愛してるのか?」
イチカはなかなか離してくれないシオンの腕の中で、少し照れながら「ま、まあね」と小さく返事をする。シオンは「そうか」と呟くと、そっとイチカから離れた。
「シオン?」
イチカは不思議に思いシオンの顔を見上げる。そこにはなぜか少し切なそうな笑顔を浮かべた彼が、イチカをじっと見つめていた。その表情の意味を知りたくなくて、イチカは目を伏せる。
「イチカ、話してくれてありがとう。俺もいつか必ず、家族のことも、まだお前に話していないこともきちんと説明する。でも今はもう少しだけ、お前の側にいさせてくれ。」
「え?」
(それってつまり、聞いたらもう一緒にはいられないような話ってこと?)
再び彼を見上げると、シオンはもうイチカに背を向けて、部屋を出ていくところだった。
「シオン?」
「悪い、今は部屋に戻るよ。あ、それと俺の仕事の方はここではもう終わってるから。猫探しと並行して進めてたんだ。だから明日の朝出発して、隣の町へ移動しよう。」
「・・・うん。」
振り向きもしないままそう言って、彼は静かに部屋を出ていった。
その日は何となく互いに距離を感じながら、二人は部屋でゆっくりとそれぞれの時間を過ごした。夕食では口数の少ないシオンと何気ない話をして過ごし、食事を終えるとマルコから報告があると声をかけられ、二人でロビーに移動した。
「シオンさん、イチカさん、今回は本当にありがとうございました。」
マルコが神妙な顔つきで頭を下げた。
「いえ、仕事ですから。それよりエマさんとはきちんと話をができましたか?」
シオンが穏やかに受け答えをする。
「はい。お二人のお陰で、すれ違っていた気持ちをお互いに確認することができました。それで僕たちは・・・結婚を前提に付き合うことになりました!」
イチカとシオンは急な展開に驚き、顔を見合わせた。
「まだまだ問題は山積みです。彼女のご両親にもきちんとご挨拶をして認めてもらわなくちゃいけませんし。でも僕は彼女の家に婿に入ってでも、彼女と生きると決めたんです。あ、愛してるので!」
真っ赤になりながら報告をしてくれる彼の様子を見て、イチカはただ嬉しくなって微笑んだ。そしてマルコに声をかける。
「幸せになってくださいね。」
「はい!一生大切にします!!」
「そういうのは彼女じゃなく向こうのご両親に言ってくださいよ・・・」
シオンが少し嫌そうな顔でそう言うと、マルコは焦ったように手を振って言い直した。
「二人で、その、一生幸せに暮らせるように頑張ってみます!」
マルコの一生懸命さに心がふわっと温かくなり、シオンも少し表情を和らげて、三人に穏やかな空気が流れ始めた。そしてその後報酬の件についてもきちんと話し終えてから、彼に別れを告げて部屋に戻った。
「結局宿泊費、全部無料にしてもらっちゃったけどよかったのかしら?」
イチカが廊下を歩きながらシオンに話しかけた。
「本人がいいって言うんだから甘えておけよ。・・・彼女と気持ちが通じ合ったんだから、それでも安いくらいなんじゃないか?」
何か含みのありそうなその言葉を、イチカはあえて聞き流しておいた。そしてシオンの部屋の前に到着する。
「じゃあ、また明日。」
「・・・イチカ。」
「なに?」
シオンがそっとイチカの手を握る。その手の熱さに、イチカの胸が一瞬トクンと音を立てた気がした。彼は今、寂しいと感じているのだろうか。
「おやすみ。」
「うん。おやすみ。」
それだけ言うと名残惜しそうに手を離し、彼は部屋に戻っていった。後に残されたイチカは、廊下で小さく息を吸って吐いてを繰り返し、最後に大きなため息をついてから自分の部屋のドアを開けた。
翌朝、宿を出た二人は洗濯物を受け取り、その足でケーシーの家に向かった。朝からすっかり晴れ渡った空には雲がほとんど無く、暑くなりそうな予感を抱えながら、イチカはその眩しい空を見上げていた。
「今日は暑くなりそうだな。」
シオンが先を歩きながら話しかけてくる。
「そうね。日焼けが心配だわ。隠れシミができちゃうかも!シオンからもらった帽子、被らないとね。」
「そうか、十六歳らしからぬ発言は中身から来てたのか・・・」
しんみりとそんな気づきを語る彼にイチカはじっとりとした視線を向ける。
「ええ、そうですよ。どうせ中身はおばさんですよ!」
少し怒っているかのような口調で冗談めかしてそう言うと、シオンは振り返って優しく微笑んで言った。
「イチカの中にある前世の記憶は、お前の人生そのものだろ。おばさんだとかそんなことは思ったことないよ。長い人生の経験全て、楽しかったことも辛かったことも全部ひっくるめてイチカなんだから。俺はいろんなものを抱えているイチカが・・・」
シオンがなぜかそこで言葉を切る。そして真顔になって立ち止まった。
「そういうイチカだから俺はお前と相棒でいたいんだ。」
「シオン・・・」
イチカも足を止めてシオンの目の前に立つ。
「ありがとう。私は前も今も、自分の人生を大事に思ってる。シオンにもそれを大事に思ってもらえて嬉しいよ。これからもよろしくね。」
手を差し出し握手を求めると、シオンも今日は素直に握手を返してくれた。しかしその顔には最初の頃のあの気取ったような笑顔が浮かび、なぜか少しシオンとの心の距離が開いてしまったように感じていた。
「こちらこそよろしく。」
二人の間で一瞬だけ視線が交わり、そして離れていく。何かが変わり、何かが始まってしまったような気がしてイチカは慄いた。そしてケーシーの家に到着するまで、ただひたすら心の中で『しょうちゃんに早く会いたい』と繰り返し、恐れを振り切るかのように早足で歩き続けた。
ケーシーの家に到着すると、広い庭の一角に置いてある荷馬車の横で、彼が手を振って立っていた。二頭の馬達も大人しく馬車に繋がれて待っている。
「よう、来たなお二人さん!今日は隣町に行くんだろ?俺もちょうど用事があるから乗せてってやるよ!」
元気な声で最高の提案をしてくれたケーシーにイチカもまた最高の笑顔を向ける。
「本当ですか!?嬉しい!!ここに来るまでの道は本当に辛くて辛くて・・・ケーシーさん、いえ、ケーシー様!よろしくお願いします!!」
神様にお祈りするかのように仰々しくお礼を言うと、「そんなに喜んでもらえて何よりだ!」と大笑いされてしまった。シオンは少しバツの悪そうな顔で、「悪かったって・・・」と言ったきり黙ってしまった。
そして借りていた服を返し、いよいよ次の町に出発する。
「次の町は・・・ジェンクっていうのね。どんな町なの?」
イチカは地図を見ながらシオンに尋ねる。
「ジェンクは花の町だな。ここらは農作物を育てているが、隣では花きの栽培が盛んなんだ。どこもみんな花畑だから、それだけでも見る価値があると思うよ。中心部には大きな市場もあってそこもすごい。」
「へえ!楽しみ!」
シオンが丁寧に説明してくれたので、イチカは地図を見ながらまだ見ぬ町の光景に胸を躍らせた。
そして今日は前回とは違い、幌のついた荷馬車の上に、木箱に入った野菜がたくさん載せられている。その大きな市場に運ぶのだろうかなどと考えながら、荷物の間にぎゅっと詰め込まれ、イチカ達はゴトゴトと隣町まで運ばれていった。




