42. 猫と彼女
シオンはまだ暗闇に包まれた午前三時半頃、なんとなく明るさを感じて目を覚ました。気のせいかとも思ったが、目を開けると実際に部屋は完全な暗闇では無く、ソファーの辺りがぼんやりと光っており、慌てて飛び起きた。
「お、おはよう、イチカ!今日はまた・・・ご機嫌が垂直落下中ですね・・・」
「触らないでって言ったわよね?」
「えーっと、ほら、でもあれはおまじない」
「信頼しろって言ってたわよね?」
「いやそれはさ、だから」
「シオン」
「ごめん」
結局ほとんど眠れなかったイチカは、シオンの昨夜の行動についてしっかり問い詰めておかないと!と先に支度を終え、目を爛々(らんらん)と光らせたままその起床を待っていた。
起き抜けのシオンはイチカのお怒りモードに恐れをなし、ベッドの上で平伏すかのように謝罪する。
「はあ。まったく!からかうにしたってやり過ぎでしょ!そういうのは仲の良いお姉様達と楽しんでちょうだい。私みたいな小娘をからかっても何にも面白くないでしょ?」
「イチカは小娘じゃない。」
「何?また年上っぽいとか言うの?」
「そうじゃない。」
まだ暗い部屋の中で、シオンがベッドを降りて立ち上がり、イチカの側に近づく。イチカは警戒してソファーから立ち上がり、ベッドの方へ逃げた。
「ちょっと!?」
「イチカの近くにいたいだけ。俺の味方だって言ってくれたイチカの側にいたいだけだよ。イチカはすぐ離れようとするから不安なんだ。どこかへ消えちゃうんじゃないかって。」
気がつくとシオンは、ベッドの上まで逃げたイチカの前に片膝だけ乗せて座り、すでに手を握っていた。ベッドカバーに深い皺が寄る。
「シオン・・・手を離して」
真面目な顔で手を取り戻そうとするが、びくとも動かず、より焦る。
「でもこの手を離したらいなくなるだろ?」
ランタンの灯りだけではよく見えないが、彼の視線をじわじわと感じながらイチカの心はさらに追い詰められていく。
「・・・わかった。状況が許さなくなる時までは、私があなたから離れることはしない。約束する。だからこんな風に、恋人でもないのにベタベタ触れるのはもうやめて。私も困るし、シオンにとってもよくないよ。ね?」
シオンは握った手をただじっと見つめたまま、身じろぎもせずそこに座っていた。
「でも、お前に触れたいんだ。安心するから。」
ベッドが軋む音にもビクッとする自分に、イチカはなぜか急激に腹が立った。
「・・・もう!わかったわかった!じゃあ寂しい時は手を握るのだけは許可します!それで我慢して!!」
叫ぶように伝えたその言葉に、ふんわりとシオンの顔が綻んでいく。その目は喜びを隠しきれず、薄明かりの中でもわかるほどキラキラと輝いていた。
(何なのもう!そんな捨てられた仔犬が助けてもらった瞬間みたいな目で見られたら、つい絆されちゃうじゃない!)
「ありがとう、イチカ。じゃあ、俺も急いで支度をするよ。イチカは準備万端だな。ちょっと待ってて!」
そう言ってやっと手を離してベッドからおり、シオンは身支度を始めた。イチカは彼が着替えるだろうと気を遣って、一旦部屋を出て廊下で待つ。
「はあああ・・・。」
そして廊下に出た瞬間、心の中に生まれつつある認めたくない何かを全て吐き出すかのように、イチカは大きくため息をついた。
二人は支度が終わるとすぐに、昨日猫を見つけた物置の裏に隠れた。シオンの支度が早かったのでなんとか日の出前に隠れることができ、今は静かにエマを待っている。
「・・・足音がする!」
「相変わらず気配を察知するのがうまいな。」
「女性だと思う。中に入ったらドアの前に行くのよね?」
「ああ。」
そしてその後すぐ、焦茶色の髪の女性がそこに現れた。何やら水や餌の入れ物のようなものを持っているようだ。ギイ、というドアが軋む小さな音が聞こえた。
「入ったな。行こう!」
「うん!」
物音を立てないように物置の入り口に移動する。少しずつ朝日が昇り始め、物置の中の様子が見えるようになってきていた。そしてそこには、真っ青な顔で座り込む女性の姿があった。
「いない・・・なんで!?」
「俺達が救出したからですよ。」
シオンはなんの躊躇いもなくその女性に声をかける。彼女が怯えた表情で振り向いた。
「誰!?テスをどこに連れてったのよ!!」
「飼い主に返しただけですよ。あなたこそどうしてこんなことをしたんですか?」
シオンは一歩も引かず、厳しい口調で彼女を追求する。女性はさらに顔が強張り、目を逸らした。
「あなたには関係ないわ。」
「そういうわけにはいかない。これは立派な窃盗事件ですよ。マルコさんに被害を主張してもらって・・・」
「やめて!待って!わかった話すわ。」
シオンは振り向いてイチカを呼ぶ。
「イチカ、まずは部屋に案内しようか。」
「ええ。あなたは、エマさん、ですよね?」
「・・・はい。」
「私達はマルコさんの依頼でテスを探していた者です。じゃあ今から私達の部屋でお話を聞かせてください。」
「わかりました。」
エマは項垂れたままイチカの後ろを歩き、さらにその後ろにシオンが並んで、部屋に向かって移動していった。
部屋では生気を失ったような顔のエマとイチカがソファーで向かい合い、シオンは彼女の後ろに立って話を聞くことになった。
「エマさん、単刀直入にお聞きします。どうしてマルコさんの猫を盗んだんですか?」
エマは唇を噛んでしばらく黙っていたが、少ししてからおもむろに話し始めた。
「私はマルコと小さい頃から仲が良くて、いつもいつも優しい彼と一緒に遊んでいました。でも大きくなるにつれて互いの家で揉め始めることが増えて、遊んじゃいけない、と言われるようになってしまったんです。」
彼女は手が白くなるほどぎゅっと握りしめている。イチカはそれを痛々しいなと思いながら、つい見つめてしまう。
「でも大人になってからはそれほどうるさく言われることもなくなって、しかも彼のご両親も、残念ですけどお亡くなりになってしまったのもあって、頻繁に彼に会いにいくようになったんです。」
少し黙ってしまった彼女に、イチカはグラスの水を差し出す。シオンは後ろから質問を投げかけた。
「それがなぜ、猫を盗むことに繋がったんですか?」
「・・・私、両親に勧められた人との結婚が決まりそうになってるんです。でも彼にそれを言っても何も言ってくれなくて・・・。彼、少しは動揺してくれたんです!それなのにむしろもう彼のところに来るなとまで言い出して!段々とそれが喧嘩になって、不満になって、つい腹が立ってあんなことを・・・」
そう言ってエマは声を上げて泣き始めた。混乱し、追い詰められた精神状態の中で、突発的に彼が大事にしているものを盗み出してしまったのだろうか。
イチカはため息をついてシオンの顔を見上げ、困った顔のシオンと目が合う。彼はそれ以上何も言うつもりは無いようで黙ってしまったので、イチカは仕方なく彼女に再び向き合った。
「あの、お願いがあるんですが・・・今日の午後、マルコさんのところに行ってもらえませんか?」
エマは顔を上げず、啜り泣きながら首を横に振る。だがイチカはここで諦めるわけにはいかなかった。
「マルコさんがどうしても話をしたいって言ってるんです。彼は今回のことを怒っていません。彼の気持ちの整理のためにも、会ってあげてもらえませんか?」
「・・・」
数分の沈黙の後、エマは真っ赤に泣き腫らした顔を上げた。
「・・・わかりました。」
イチカは部屋の使っていないタオルを持ってきてエマに手渡し、「お昼過ぎにマルコさんの宿のロビーでお待ちしています」と伝えて、彼女を帰すことにした。
「イチカ、お疲れさま。」
「シオンもね。はあ、寝不足の頭でこういうのは辛かったなあ・・・」
責めるつもりで言った言葉ではなかったが、シオンは少し落ち込みながら「悪かったな」と言ってソファーに座った。
「本当に!もうああいうのはやめてよね!・・・さて、荷物を片付けて帰る準備をしないと。向こうの宿に戻ったら少しお昼寝しよう・・・」
「・・・添い寝しようか?」
「シオン!さては反省してないわね!?」
「冗談だって!反省してる!!」
「もう!!」
いつもの二人に戻りつつあるのを感謝して、イチカはテキパキと荷物を片付け始めた。




