35. 近道は苦しみの始まり
翌日は薄曇りの空が広がってはいたが、雨の予感は感じられず、イチカは朝からご機嫌だった。外を長時間歩く予定の日に雨だったり陽射しが強かったりすると参ってしまう。その点今日は徒歩の旅には最適な天候となりそうだ。
しかし紫外線が気になるお年頃(中身)のイチカは、薄曇りの時こそしっかり帽子を被ってお肌をガードしようと荷物を探る。シオンに貰った帽子が案外被り心地が良かったので、今日は例の少年スタイルで髪は一本にまとめ、リュックを背負った。
準備を済ませて階段をおりる。お世話になった二人に挨拶をするためリビングに入ると、ハリスとカーラが笑顔で出迎えてくれた。
「ハリスさん、カーラさん、何日も滞在させていただいて、本当にありがとうございました。それにあの日助けていただいたことも・・・ご恩は一生忘れません。」
イチカが深く頭を下げて感謝の気持ちを伝えると、カーラが感極まった様子でイチカに抱きついてきた。
「イチカったらそんな他人行儀な!あなたはもううちの娘みたいなものなの。そんな仰々しい挨拶なんて結婚式の時だけでいいわ!いい、必ずここに戻ってきなさいよ。いつでも部屋は掃除しておくから。クッキーだってまだ作り方教えてないんだからね!」
そう言って、潤んだ瞳で両手を強く握りしめた。はい、と答えて手を離し、今度はポケットの中からとあるものを取り出してハリスに向き合った。
「ハリスさん、これ、ありがとうございました!これがあったから、あの日とても心強かったんです。本当に助かりました!」
それは囮捜査の前日にハリスから借りたあの小さなナイフだった。ハリスは一旦受け取ったが、それをそのままイチカに手渡す。
「これは君が持っていてくれ。いつか役立つ日が来るかもしれん。それに俺もイチカさん、いや、イチカのことは娘の一人みたいに思ってるんだ。餞別だと思って受け取ってくれると嬉しい。」
ハリスの笑顔とその優しい気持ちに、イチカはほわっと心が温かくなる。そして「大切にします」と言って、再びそれをポケットの中にしまい込んだ。
(娘のように思ってくれる二人のためにも、絶対に、穏やかで安心して暮らせる人生を手に入れる!)
そして二人から何度も「また来るのよ」と約束をさせられたイチカは、嬉し涙を浮かべながら二人と固い握手を交わした。
シオンはただその光景を静かに見届けていたが、ふっとその場を離れると、リュックを背負って戻ってきた。三人はその間に玄関に移動する。
「イチカ、そろそろ行くぞ!」
シオンはイチカに出発を告げ、先に外に出ていった。イチカは二人に笑顔を向け、
「必ずまた来ます!」
と告げてハリス達の家を出発し、先を歩くシオンの後を急いで追いかけていった。
「さてイチカ、じゃあ出発だ。ああ、そういえば隣の町にはこの間会ったケーシーが住んでるんだ。次の仕事は彼には関係していないが、近くには行くからまた会えるかもしれないな。」
「そうなんだ!ケーシーさん、いい人だったよね。」
「・・・ああいうのが好みか?」
横を歩くシオンがチラッとイチカの顔を見る。イチカは不思議そうな顔でしばし考え込む。
「え?男性の好みって話?好みかー、うーん特に無いな。・・・もうそういうのは卒業したし。」
「卒業・・・早すぎないか!?」
「人には歴史があるものよ。」
「十六歳のお前にいったいどんな歴史があるんだよ?」
シオンが変な虫でも見たかのように距離を取る。イチカは面白がって彼に近付き、その顔を下から見つめた。
「お姉さんですからねー。弟にはまだ教えられないかな!」
「・・・失敗した。あの時妹って言っとけばよかった!」
「ふふふ。女性を年上扱いするなんて、お主もまだまだよのう!」
不敵な笑いを残して、イチカはシオンの少し先を歩きだす。
「・・・変なやつ。」
シオンも苦笑を浮かべながら、今度はイチカの少し後ろを歩き始めた。
町を出て三十分ほどは、最初にこの町にやってきた時に使ったあの街道沿いを歩く。それまで見えていた山の景色が隠れ、次第に高い藪に囲まれた、少々鬱蒼とした地域に入っていった。
そのまま真っ直ぐ突き進むのかと思いきやどうやらそうではないらしく、シオンはイチカを誘導して途中から脇道に逸れていく。
そして二人が今歩いている道は、これまでの広く整備された道ではなく、シオンお勧めの『歩行者専用近道ルート』なのだそうだ。
そう聞くと特に問題なさそうな道に思えるが、実際に歩いてみるとほぼ藪の中の獣道のような有様で、イチカは辟易してしまった。
少し山の中を掠るように通るその道は登ったり下ったりと起伏が多く、それだけでも疲労感が増していく。さらに地面には石や木の根などが張り出していて足に引っかかり、大変歩きにくかった。
何度もそれらにつまづきそうになり、途中で足が滑ったりもしているうちに体力がどんどん削られていったが、地図に載っていない道ではぐれるわけにもいかず、イチカは必死にシオンの後をついて歩き続けた。
「お、がんばるねえ。すぐにへばって弱音を吐くかと思ってたけど。」
「ふん。森育ちを舐めないで。足は速くないけど体力には自信があるのよ。」
「それはそれは、さすがお姉様だ。」
「くうう、シオンの体力お化け!!」
ふくらはぎも足の裏もきつくなり始めていたが、楽々と歩いていくシオンに負けるわけにはいかないと、負けず嫌いの自分を引っ張り出して気力で食らいついていく。
だがそんな道も、いつかは終わる時が来る。
二時間近くその辛い道を歩いたところで、二人は一気に開けた道に飛び出した。
「おお!素晴らしきかな、整備された道・・・!」
イチカは感動のあまり両手を上げて普通の道を称賛し始めた。それを見てシオンは呆れた様子でイチカに声をかける。
「何それ・・・相変わらず変なことばっかり言ってるな。まあ、今回はよくがんばったとこの俺が褒めてやろう。」
「・・・感じ悪いわね。」
「ああ、そんなに褒められると照れるな。街道沿いをあのまま進んでたら、あの道は大きな湖を迂回しているから、もっと時間がかかってたと思うよ。この道を選んだ俺、さすがだろ?」
「・・・」
そんなくだらないやりとりすら疲れると思い、イチカはそこからしばらく黙ったまま歩き続けた。
さらに三十分近く歩いたところでようやく家らしきものが見えてきた。広々とした平らな土地に、麦を中心とした様々な作物が植えられた農村地帯が広がっている。その中にポツンポツンと大きな家が点在しており、裕福な農家が多いのかもしれないとイチカは予想していた。
「まだ町って感じじゃないけど、ここはもう目指していた町『ニコリ』の端に入ってる。もう少し先に進むと民家や店も増えて、今日泊まる宿もあるから。まだがんばれるか?」
全く疲れを見せる様子もないシオンに悔しい思いを抱くイチカは、こうして優しい声をかけてくれる彼につい甘えたくなってしまってさらに悔しさが増す。その気持ちをぐっとこらえて、なけなしの力でにっこりと笑った。
「大丈夫!美味しいご飯が食べられる宿に連れてってくれるなら!」
「出た、食いしん坊め!行こうと思ってる宿は安い割には食事が美味い。特にあそこの・・・」
「わー!言わないで!!お腹空いちゃうじゃない!大丈夫、美味しいことがわかったからがんばれる。ほら、行きましょ?」
イチカは足は限界が近づいていたが精神的には少し復活して、本当は心配してくれているだろうシオンの背中を押しながら、一歩一歩前に進んでいった。




