32. 大切な誰かのために
「ゲホッ!だ、誰だてめえ!?」
イネスが埃で咳き込みながらシオンを見る。シオンはゆっくりと立ち上がった。あの暗い色の服が埃まみれで真っ白になり、『ああ、あの服を洗濯したい!』と、つい場にそぐわない思いつきがイチカの頭をよぎる。
「イネスさん、誘拐お疲れさま。で、彼女を襲おうって?でもさあ、それって犯罪だよねえ。」
シオンは体に付いた埃を手で払いながら微笑んでいる。微笑んではいるが、ビリビリするほどの彼の怒りがイチカにも伝わってくるようだった。イネスも何かを感じたのか、一瞬身を引いたように見えた。
(あのシオンが、見たことがないほど怒ってる・・・!?)
「・・・何者だ、お前!?」
「さあねえ。じゃあ、見張り塔でじっくり話を聞こうか。」
シオンが男の方に近づこうとすると、先ほどからずっと手に持っていたナイフでイネスが襲いかかった。シオンはあっという間に手刀でナイフを叩き落とし、体勢を立て直そうとする間も与えず上半身に蹴りを入れて腕を捻り、彼を押さえつけた。
そこまでの時間僅か数秒・・・
イチカは札を握りしめたまま、ただ呆然とその様子を見て立っていることしかできなかった。
「イチカ、イチカ!」
気が付いた時には全て終わっていて、シオンは持ち込んでいた縄でイネスを縛り上げてイチカの前に立っていた。ドアの向こうでもバタンバタンという数名が争っている音が聞こえてくる。
「シオン・・・?」
「大丈夫か?何も・・・されてないな!?」
「うん、大丈夫・・・」
「おい、本当に大丈夫か?」
シオンは不安そうにイチカの様子を窺っていた。だがイチカは現実味のない光景に衝撃を受け、なかなか頭が働かない。
「うん。・・・それより外の女の人達、大丈夫かな?」
「お前はこんな時まで人の心配なんて・・・!大丈夫だ。カーラや商会の人間が来たんだろう。心配はいらない。」
「そう、よかった。」
「・・・イチカ!!」
張り詰めていた気持ちが溢れ出したかのように、シオンは突然イチカに抱きついた。よかった、よかったと、ほっとした声を出しながらイチカの頭を撫でている。
(ああ、心配かけちゃったな、結局・・・)
その時イチカはただそれだけを考えていて、シオンに抱きつかれているという状況の異常さに意識が向かず、されるがままに頭を撫でられていた。
数分後、静かになった向こうの部屋から、カーラが勢いよくドアを開けて入ってきた。シオンは腕の中からは解放してくれたものの、ピッタリとイチカの側に寄り添ったまま、まだ頭を撫で続けていた。
「シオン・・・何やってるの?」
カーラのキョトンとした顔が現れてほっとしたイチカは、その時ようやく正常な思考を取り戻した。そして今の状況のおかしさにはたと気づき、シオンの顔を見る。彼は真顔のままその目を見返した。
「・・・え、シオン?どうして頭を撫でてるの?」
サッと体を引いて彼から距離を取る。冷静になった途端さっき抱きつかれていたことを思い出して、イチカは一瞬顔が赤くなった。
(いやいやいや!そうか、ここは日本じゃないものね!友達のハグに動揺してたらシオンに悪いわ!)
自分の中で何とかさっきの出来事に対する気持ちの折り合いをつけると、カーラ達と共に隣の部屋に向かった。二人の男達は捕らえられ、女性二人は若い男性と女性に連れられて上に上がっていった。ハリスがそこにやってきて、シオンの名を呼ぶ。
「おいシオン!この辺りにあった他の地下の部屋も調査したが、誘拐された人はいなかったぞ。あとそこらにいた奴らはこっちを攻撃してきたんで捕まえといた。見張り塔の牢に入れとくから、落ち着いたらイチカさんと一緒に来いよ。・・・カーラ、先に行こう。」
ハリスは気を遣ってくれたのか、イチカ達だけを置いて地下の部屋を出ていった。
「イチカ。」
シオンの声が震えている。
「シオン・・・ごめんね。」
イチカはゆっくりと振り向き、彼の目を見つめて謝った。シオンの顔は安堵と怒りと、何かよくわからない感情で溢れているように見えた。そしてその思いは瞬時に決壊する。
「バカイチカ!俺にこんなに心配かけて!本当に危なかったじゃないか!?もう二度とこんなことはさせないからな。絶対に、させない!!」
怒りに震えている彼の姿が、イチカをより冷静にさせた。そして口を開く。
「うん、ごめん。二度としない。でももう私は大丈夫だから、ね?」
優しく彼にそう語りかけると、苦しそうではあるが、少しだけ怒りを抑えてくれたように感じた。そしてイチカは友達として、今の思いを真剣に伝えなければと心に決める。
「シオンがいなかったらこんなこととてもできなかった。シオンがいることに甘えてたからこんな恐ろしいことができたんだと思う。でもそれじゃ駄目だよね。だからもう二度としない。友達を・・・相棒を困らせるようなことは絶対に。約束する。」
イチカはそう言うと、無理やり小指を絡ませて小さく指切りをして、シオンに背を向け歩き出した。今まさに泣きそうな顔になっていた彼を、これ以上見ていることができなかった。
そして階段を駆け上がりドアを開けると、外の明るさに目がくらむ。目が慣れるまでそこで立っていると、後ろから追いついてきたシオンがそっとイチカの肩に触れた。
「行こう、イチカ。」
振り返るともういつもの笑顔のシオンがそこにいた。イチカは黙って頷き、二人はハリス達が待っている見張り塔に向けて足並みを揃えて歩きだした。
二人が近くにある見張り塔に到着すると、大勢のたくましい男性達が集まっていた。武器を持っている者達も多くいる。女性の姿もちらほら見られたが、彼女達は誘拐されていた二人のケアをしている様子だった。
シオンはそこにいた何人かの人達に声をかけられ、笑顔で返事をしていた。それは彼がいかに多くの人々に慕われているのかがわかる光景だった。
「シオンさん!やっと会えましたよ!!」
その中の一人が人をかき分けてシオンに近づく。赤い髪、シオンとそう変わらない年代に見えるその男性は、「レオンです」と簡単に名乗った。イチカも自分の名前を名乗り挨拶を交わしたが、その後は彼にシオンを独占されて二人で奥に入ってしまったので、一人塔の中の壁際で気配を消し、じっと立っていた。
大勢の人がこの大きな事件に興奮しているようで、あちこちからイネスや誘拐事件についての話が漏れ聞こえてくる。
(これであのイネスって男が自白すれば、最低な領主は捕まって、もうこの誘拐事件はなくなるのかしら・・・)
イチカは漠然とそんなことを考えながら、狭い塔の中を見渡していた。
しばらくするとカーラがイチカに気づき、そっと近づいてきてその手を握った。
「イチカ、お疲れさま!大変だったわね・・・大丈夫?」
「はい、何とか!でも、シオンがいなかったらどうなっていたかはわかりません。彼に甘えていたなって、ちょっと反省してるんです、これでも。」
ふざけた感じでニコッと笑ったが、カーラは至って真面目な表情で「無理して笑わなくていいわ」と言った。
そのままそっと彼女に抱きしめられ、背中をポンポンと優しく叩かれる。それは遠い記憶の中にある母のあの温かかった手のひらと同じ、深い愛情を感じられるものだった。
気がつくとイチカはカーラの胸の中で涙を流していた。
自分が思っていた以上に怖い体験をしたこと、シオンにあんなに心配をかけてしまったこと、そしてこうして強く優しい人達が自分を大事に思ってくれること・・・
そのどれもがイチカの心をぐるぐると台風のように巡り、かき乱し、いい大人なのにという思いすら忘れて、思いっきり泣きじゃくった。
そうこうしているうちにシオンが戻ってきたようで、カーラがそっとイチカから離れる。
「イチカ。」
涙を流した後の腫れぼったい顔のイチカは、シオンにそっと手を引かれて塔の外に出る。
彼はイチカの手をしっかりと握りしめ、家まで一言も話さないまま、ゆっくりと歩き続けた。




