104. 埋まらない溝
イチカは翌日商会本部へと赴き、休憩中のミシェルと会議室で話し込んだ。またここを離れてしまうこと、ミシェルと会えなくなるのを寂しく思っていることを話す。
「イチカ!私も寂しい!せっかくこんなに仲良くなったのに・・・」
「本当にそう。ミシェル、手紙を書くから、絶対に返事をちょうだい?」
「当たり前よ!ああ、またスイーツを一人で食べに行くのね。つまらないわ!」
イチカはニヤッと悪戯っぽく笑う。
「あら、今度は一緒に行ってくれる人がいるんじゃないの?」
ミシェルは目を丸くした後、怒ったような顔になって頬を赤くする。
「ちょっとからかわないでよ!そりゃあ彼なら私が行きたいって言えば付き合ってくれるとは思うけど、でも甘いものが好きかどうかわからないし。」
「ふうん。私、特に誰とは言ってないけど?」
「イーチーカー!?」
「あはははは!ごめんごめん冗談!でも、本当に寂しいな。早く戻って来られるように頑張らないとね。」
ミシェルは突然イチカに抱きつく。甘く優しい女の子らしい香りがふわっとイチカの鼻をくすぐる。
「そうよ!絶対にここに戻ってきて!もう私達親友なんだから。ずっとずっとそれは変わらないからね!!」
「うん。ミシェルと会うために必ず戻ってくるよ。」
「そうして!シオンさんを置きざりにしてでもイチカは絶対に帰ってくるのよ!!」
「あはは・・・わかった!」
(よくわからないうちに離れられなくなっちゃったからそうもいかないんだけどね・・・)
苦笑いをしながらミシェルとハグをして、休憩時間が終わりそうな彼女を送り出した。
その後受付で仕事の報酬を受け取り、帰ろうとしたところでなぜか受付の人に呼び止められる。
「あの、アオキさん!」
「あ、はい?」
「すみません、お預かりしているものがあったんです。お手紙ですね、はい、どうぞ。」
「ありがとうございます。」
それは一通の飾り気のない真っ白い封筒で、裏を返すと独特の赤い封蝋が押してある。差出人の名は無く、イチカは待合室のベンチに腰掛け、それをゆっくりと開いた。
「これ・・・ハルバート様?」
それはまさかのハルバートからの手紙だった。
イチカは緊張しながら先へと読み進めていく。そこには急なお別れとなったことへの寂しい気持ちと、イチカへの想いがどうしても消えないという内容が書かれていた。そして次に会った時には、大事な話があると。
(ハルバート様、どうしてそんなに私のことを・・・)
思わず握りしめて少し皺の寄ってしまったその便箋を、ふいに誰かに奪われて驚いて顔を上げた。
「シオン!?」
その顔は無表情ではあったが、明らかに機嫌が悪くなり始めているのがわかる。
その便箋を取り返すことはできず、イチカはただ封筒だけを手に持って、手紙をじっと読み進めている彼の顔を見つめていた。
「ずいぶんと熱心に読んでいると思ったら、そういうことか。」
シオンの声は低い。
「別に熱心に読んでいたわけじゃない。ただ、どう返事をしたらいいかわからなくて。」
「返事なんか必要ない。無視しておけばいい。」
「そんなわけにはいかないでしょ?貴族の方にそんな失礼はできない!」
「・・・俺にはいつも失礼ばっかりじゃないか。」
小さく呟いたその声はイチカの耳にはよく聞こえず、「何か言った?」と聞き返したがうやむやにされてしまう。シオンは便箋をグチャッと潰すように自分のポケットに突っ込むと、イチカに手を伸ばして言った。
「とにかく、返事はいい。返さないことが返事になるだろ。あなたには興味がありませんってことで。それより報酬受け取ったなら一緒に帰ろう。」
「もう!わかりました!」
イチカは当たり前のように差し出されたその手を握り、少しだけ機嫌が良くなりつつあるシオンに苦笑しながら立ち上がった。
「出発は明日。早い方がいいからな。ちなみにあの人達はちょうどコクレと逆方向に向かうみたいだから安心しろよ。」
「そうなんだ・・・」
シオンがイチカの顔を覗き込む。声が再び低くなる。
「イチカ、もしかして会いたいの?あの人に。」
イチカは驚いて頭を左右に勢いよく振る。
「そんなわけないでしょ!?ただ私には優しいいい人だったから、それを思い出していただけ。」
「思い出さなくていいよ、そんなの。どうしてイチカは俺のことだけ考えてくれないんだ!」
「何よ!自分だってあの綺麗な女の人とキスしてたくせに!唇、真っ赤だったわよ!」
「あれは事故だって言っただろ!?俺から望んでしたわけじゃない!」
「隙があったって言ってたじゃない。二人で飲んでた時点でそういうことだってあり得るでしょ!」
シオンがふと顔を上げ、ハッとしたようにイチカの顔の前に手のひらを見せて言葉を止める。
「・・・イチカ。まずい、俺達目立ってる。」
「あ・・・」
二人は比較的混み合っている待合室の中で、今まさに注目の的になってしまっていた。人々は、特にシオンのことを知っている人達はニヤニヤしながら二人を見つめている。
「行こうか。」
「行きましょ。」
イチカは荷物を手に、シオンと繋いだ手は一旦外してそそくさと外に出た。
「はあ。恥ずかしかった。」
建物の外に出てしばらくしてから再び二人は手を繋いで歩き始めた。
「イチカ、まだ怒ってるのか?」
「・・・怒ってはいない。でも、わだかまりはあるよ。」
「そう、だよな。俺だってあんな光景見たらやっぱり男を半殺しに・・・」
「ちょっとやめて!?」
シオンがはあ、と小さくため息をつく。
「イチカのことになると冷静じゃいられないんだって。どうしてこんなに俺は・・・」
その先の言葉を言えないまま、彼は急に立ち止まる。
「シオン?」
「イチカ。」
「!?」
どうしたんだろうと上を向いた瞬間、触れるだけの軽いキスを落とされた。イチカは真っ赤になりながら口を手で塞ぐ。
「なあ、俺のキスは防がないんだな。」
誘惑的な表情でそう微笑む彼の言葉の意味がわからず、ただぼんやりとその微かな唇の余韻に浸っていたが、ふとその言葉の意味が気になって問いただす。
「それ・・・どういう意味?」
「あ」
イチカは思い当たることが一つしか無かった。
「ねえ、もしかしてそれって、テオにキスされそうになった時のことを言ってるの?」
「・・・」
あからさまに目を逸らされる。イチカはシオンの手の甲をつねった。
「いって!?」
「こら、シオン!?白状しなさい!!」
「・・・ここにいる間、尾行させてました。」
「ウソでしょ!?全然気づかなかったけど!?」
シオンは少しだけ痛そうな顔でつねられたところをさすりながら、
「そりゃ悪意無く紛れていれば気づかれにくいだろ。お前の知らないやつらだったし、数人入れ替わりでいたから。」
と言った。
「・・・シオン。」
「な、なんだよ?」
イチカはじっとその顔を眺めてからこう宣告する。
「当分の間、キスは禁止だから。」
「・・・はああああああ!?」
道行く人達がその声に振り返る。イチカは慌ててシオンを引っ張って歩き出した。
「ちょっと、こんな道端で大きな声を出さないでよ!!」
「イチカ、俺にどうしてそんな拷問みたいなことを強いるんだ!!」
「何言ってるの?元々そんなことずっとしてなかったじゃない!」
「したくてたまらなくてもできる状況じゃ無かっただけだろ!?」
「は、恥ずかしいことそんな大声で堂々と言わないでよ!!」
「恥ずかしくなんてない!俺は・・・イチカともっと触れ合いたいのに。」
イチカは急にトーンが下がった彼の様子に少し不安になり、そこで立ち止まった。人の流れは少なかったが、念のためイチカはさらに道の端へとシオンを引っ張っていく。
「シオン、やっぱりこのままじゃ良くないよ。私達。」
「じゃあ早くイチカの秘密を教えてくれよ。本当は教えてくれるはずだったんだろ。」
「・・・誰かさんのせいでやめることになったけどね。」
「だからそれは謝っただろ!」
「わだかまりは残ってるって言ってるじゃない!」
「お前の中にあの人への気持ちが残ってる、の間違いじゃないのか!?」
イチカはその言葉にピタッと動きを止めた。
「何それ。」
シオンは冷静に、少し冷たく感じるほどの口調で返す。
「あの手紙読んでいる時のお前の顔、見ていられなかった。」
イチカの世界から周りのざわめきが消えていく。人々が話しながら歩く音、少しだけ吹いている風の音、時々通る馬車のガタゴトという車輪の音、何一つ聞こえなくなって、イチカは気づく。
「私、あの人に惹かれてた。」
シオンの顔が一瞬で青ざめる。
「イチカ・・・」
「感傷的になっているだけかもしれない、ただしょうちゃんに似てるだけで気になっているんだって、そう思おうとしたけど、たぶんそれだけじゃ無かった。」
シオンがイチカの手をぎゅっと、少し痛いほどに握りしめる。
「シオン、私達、親友に戻ることはもうできない。だからちゃんと気持ちを整理していきたいの。あなたの過去の女性達のことも、私のこの話も、それから・・・しょうちゃんへの想いも。」
「イチカ・・・」
「だから、期限は決めるから、キスはそれまで待って。シオンとはもう離れられないんだから、何もしこりを残しておきたくない。」
「いつまで待てばいい?」
イチカはシオンの手を両手で握る。
「もうすぐ、誕生日なの。その日まで。」
「十七歳になるのか。」
「そうだね。気持ちはもっと先にいるけど。」
「まあ、そうだろうな。」
シオンがフウ、と小さく息をはく。
「わかった。お預け食らわされた分はお前の誕生日に全部取り返すから、覚悟しておけよ。」
「お、お手柔らかにお願いします!」
「あはは!そんなの無理に決まってるだろ?」
「もう、バカ!!」
いつもの二人に戻って微笑み合い、そして再び歩き出した。二人の間にある小さな溝はこれから少しずつ埋めていけばいいと二人は全く同じことを考え歩いていたが、それをその日二人が互いに知ることは無かった。




