103. 急な旅立ち
「あ」
「お、おう、おはよう。」
「うん、・・・おはよう。」
翌朝、ぎこちない雰囲気のままキッチンで出くわした二人は、目を合わせられないままそれぞれが水を飲む。
「イチカ」
イチカはグラスを洗って拭き上げ、食器棚にしまった。部屋に戻ろうとその場を離れようとしたが、シオンに呼び止められ振り返らずに立ち止まる。
「なに?」
シオンは後ろからそっとイチカの肩に触れる。イチカは一瞬だけ肩を震わせて息を止めた。
「昨夜のこと、だけど。」
「う、うん。」
「その・・・勝手に俺お前に」
「言わないで!思い出しちゃうでしょ!!」
イチカは耳まで真っ赤になっているだろうなと思うほどに、首から上が熱くなっているのを感じていた。
シオンがその耳に、そっと指で触れる。
「や、やだ!どこ触って・・・」
そして後ろからイチカをゆっくりと抱きしめた。
「シオン!?」
「昨日のキスは無しになんかしない。約束はまだ・・・半分だけ守ってる。半分はごめん。でもイチカが逃げようとするから。だからお互い様だ。」
「何よその理論!?シオンがあんな風に女の人とイチャイチャしてたのが悪いんでしょ!」
「あれは事故みたいなもんだ!」
「じゃあ私があの状態だったらシオンはどうするのよ?」
「・・・相手の男を半殺しに」
「こらこらこら!?シオンが言うと本当っぽくなるからやめて!!」
「え?本気だけど。」
「・・・」
イチカははああ、と大きなため息をついて力を抜く。
「シオン・・・こんなのもう、関係が始まってるのと一緒じゃない。」
「そうだな。」
「・・・確信犯なの?」
「俺がそういう男だって、イチカはもう知ってるだろ。」
「悔しいけど知ってる。」
「何だそれ。」
「どうするのよこれから。」
「どうもこうもない。イチカが最後の秘密を教えてくれるのを待つだけだよ。この先はその後。」
イチカは再び真っ赤になって体がこわばる。
「この先って・・・」
「わかってるだろ、大人のイチカさん?まあでもそれはさすがに我慢できるから安心しろよ。」
「バカ!!」
シオンはイチカの髪をそっとかき分け、首筋に優しくキスを落とす。
「ひゃっ!?」
「・・・我慢できるかな、俺。」
「ちょっと!!」
ふざけたやりとりすらもう甘く感じられるようになってきて、ただひたすら恥ずかしさで満たされる。
精神的にも物理的にも離れられなくなってしまったこの人とこれからどう向き合っていったらいいのか全くわからないまま、その腕の中の温もりに心を奪われて、イチカはもう一歩も動けなくなってしまった。
結局その後シオンに十分以上離してもらえず、イチカが解放されたのは玄関ドアのノックの音が聞こえた時だった。
「もう!ほら、誰か来たよ!」
「チッ。」
「シオン!?」
渋々というようにイチカから離れ、シオンは玄関に向かった。イチカはその隙に部屋に戻ろうとしたが、リビングに入ってきた人を見てその足を止める。
「レオンさん?」
「あ、師匠!!」
「はあ!?」
そこにいたのはニコニコと微笑むレオンだった。
イチカは簡単に着替えを済ませてからリビングで話し込んでいるシオン達にお茶を淹れる。シオンが好きだと言っていたあの紅茶は、すでにこの家では定番のお茶になっている。
「レオンさん、シオンも。お茶をどうぞ。」
「師匠!ありがとうございます!」
テーブルの上にお茶を静かに置いてから、イチカは目を細くしてレオンをじっと見つめる。シオンは素知らぬふりでお茶を飲む。
「あの、その師匠っていったい何なんですか?」
「え?だって僕の恋の師匠ですから。」
「ぶほっ」
「ちょっとシオン!?ほらタオル!」
お茶を噴き出したシオンに慌ててポケットに入れていたタオルを渡す。
「レオン・・・何だよそれ!」
「僕の恋が動き出したのはイチカさんのお陰ですから!まだまだ意識してもらってる段階ですけど、それでも前の辛そうな顔を見るのに比べたら・・・あ。」
それぞれに思い当たる節のある三人に微妙な空気が流れたが、イチカが無理やりそれを壊していく。
「あ!そうだ!ミシェル、最近この辺りに来ている劇団の劇を見に行きたいって言ってましたよ!誘ってあげたらどうですか?」
その言葉にレオンも気を取り直して笑顔になる。
「それいいですね、ぜひ誘ってみます!さすが師匠!!」
「それ、やめてくれません?」
「・・・俺もイチカと行きたい。」
「あー!もう!好き放題言ってこの男どもは!!私はもう部屋に戻ります!!」
イチカは本当に部屋に戻ろうとしていたが、シオンに手首を掴まれて止まる。
「何よ。」
「大事な話があるんだ。お前も座って。」
「・・・ふざけてないでそれを早く言ってよ。」
イチカがシオンの隣に座ると、レオンが真面目な表情になって話し始めた。
「いくつか報告から。まず例の組織の件ですが、ビビカナの話はどうも最近の異常事態が関わっているようですね。」
「と言うと?」
「おかしな植物、暴れる野生生物、それ以外にも国内外問わず各地で異常なことが起きているらしいんです。その一つなのかわかりませんが、ここより南にある国ではここ十数年の間に、子ども自体生まれる数が減っていて、さらに女の子がほとんど生まれないという事態が続いているそうです。」
イチカは病気か何かかしらと顔を顰める。
「そのせいで現在は若い貴族女性が極端に少なくなり、外国から招待したり出会いの場を作ったりしているらしいんです。そこをどうも狙われたらしく、あの組織では女性達を裏で売買するようなことを行っていたみたいです。今はもう全く無いようですが。」
「状況には同情するけど、その件自体は最低な話ね!」
「ああ、そうだな。他には?」
レオンは一口お茶を飲み、持ってきていた書類に目を通しながら話す。
「異常事態の調査には、グレイ家直属の守護騎士達が動いているようで、今はどうやらこの町に」
「え!?」
イチカが突然大きな声でレオンの言葉を遮った。
「今、グレイって・・・」
シオンが苦い顔でイチカを見つめる。その目に問いかけるように視線を合わせる。
「シオン、ハルバート様の名前、グレイって言うの。」
「ああ。知ってる。」
「どういうこと?あの人は、何者なの?」
レオンは何も言えなくなり、シオンに助けを求めるように視線を送った後、突然窓の外を眺め始めた。シオンは覚悟を決めた表情でイチカに向き合う。
「あの人は、この国で最も力を持つグレイ家の長男、次期当主であり、守護騎士としての力も持つ男だ。」
「嘘!そんな・・・」
「イチカ。だから俺はジェンクの町でも、今回も、お前をあの人から引き離したかった。」
イチカはその言葉に、何か違和感を感じて戸惑う。そしてはたと気づく。
「じゃあやっぱり私が聖人だって知ってたの!?」
「最初にお前に出会った日にはもう、知ってた。すまない。」
「・・・」
「あの時は知らないことになっていたから強く引き止められなかった。それにこのことを知ればお前は怯えてしまって相手に勘付かれてしまうと思ったんだ。悪かった。」
シオンはそう言うと、イチカに小さく頭を下げた。イチカは昨日から続く衝撃の事実の暴露に、頭がさらに混乱していく。
「じゃああの人は、聖人を捕らえる側の人なのね。」
「ああ。むしろここ数年はあの人が中心となって聖人狩りが行われている。」
イチカは真っ青になって下を向いた。シオンがそっと背中を撫でていく。
「イチカ、この町を離れるか?」
「・・・でも、シオンはここでやるべきことがあるんでしょう?」
「お前を守ること以上の仕事は俺には無いよ。」
イチカはその言葉に胸を締め付けられる。ゆっくりと顔を上げると、見慣れた優しい笑顔がそこにあった。
「本当に、いいの?」
「いいよ。そのためにこの一週間今までしたことがないくらい仕事漬けの日々だった。」
「それは本当です。」
レオンが小さく助け舟を出す。
「だからいつでも出発できる。いずれはもっと根本的に解決を目指さなきゃならないことだが、まだ何をどうしたらいいのかわからない。だから今はとにかく危険人物から離れよう。いいな?」
イチカはハルバートのあの困ったような表情を思い出しながら、小さく頷いた。ほっとしたように微笑む彼を見て、イチカは今目の前にいる大切な人のことを一番に考えようと決意する。
そして再び、イチカは旅に出ることを決めた。
レオンが帰ると、二人は次の目的地をどうするか検討する。
「そういえばイチカ、そろそろどこか行きたいところがあるんじゃないのか?」
「え?」
イチカはカップを片付けながらシオンの言葉の意味を考える。そしてその脳裏に父の笑顔が浮かんだ。
「コクレの町!」
「ん?ずいぶん遠いところだな。しかも何でその町の名前を知ってるんだ?」
「そこに父がいるの。」
「ああ、そういうことか。じゃあ、そこにしよう。」
「うん。」
「俺もきちんとご挨拶しておかないといけないしな。」
「・・・何の話よ。」
「大事な話。」
「・・・」
イチカは含みのあるその言葉を一旦無視して、カップを棚に入れると、何かよからぬ雰囲気を感じて逃げるように部屋に戻った。
「イチカ。」
数分後。シオンがノックもせず、勝手にドアを開けてイチカの部屋に入ってきた。部屋で荷物の整理などを始めていたイチカは驚いて持っていた服を落とす。
「ちょっと、勝手に何してるの!?」
「どうして逃げた?」
シオンが落ちた服を拾い上げ、近くの椅子の背に掛ける。
「逃げてない。」
「逃げただろ?」
「逃げちゃダメなの?」
「逃げると追いたくなるんだよ。」
じっと見つめてくる彼の瞳に耐えきれず、目を逸らす。
「やめて。」
「じゃあ逃げるな。」
「だって・・・」
シオンが一歩近づく。
「だって、何?」
イチカはさらに一歩後ろにさがった。
「怖いんだもの。」
シオンが意地悪そうな顔で首を傾げながら微笑む。その顔がイチカの目に入った瞬間、心臓が早鐘を打つのを感じ始める。
「怖くても、逃げたくても、もう俺達は離れられない。」
「勝手なことして!」
「イチカも望んでただろ?」
「それは・・・」
「言葉が後になるけど、それは許して。」
「全部後でいいんじゃない?」
「イチカ・・・俺のイチカ。」
壁際まで追い詰められたイチカに、逃げ場はもうどこにも無かった。
壁に片手をついたまま顔を近づけ、シオンの唇がイチカのきつく結ばれた唇にゆっくりと重なった。そして気がついた時にはもう、イチカはその深い深い彼の想いを、柔らかく、温かく、受け入れていた。
もうその甘さを、喜びを、二度と失いたくないと思っている自分に、イチカはただただ飲み込まれていくばかりだった。




