101. ままならない気持ち
イチカは翌日、必要最低限の荷物を持ってシオンの家に帰った。一週間前は結局彼は帰ってこなかったので、のんびりと二人で過ごした夜以来会っていないことになる。
家に帰った時間はまだ午前中ということもあり、当然シオンはそこにいなかった。本部にいるのだろうとは思ったが昨日の夜のことを思い出し、イチカはどうしても自分から会いにいくことができずにいた。
(シオンを裏切るようなことをしたいわけじゃ無い。シオンのことがいつだって心を占領している。なのにしょうちゃんの顔をしてしょうちゃんの声をしたあの人を、そう簡単に拒絶することはどうしてもできない・・・)
ソファーの上でうずくまるようにして考え続けているうちに、イチカは気がつくとそこでぐっすりと眠ってしまっていた。
「イチカ?」
イチカは体を揺さぶられて目を覚ます。
「シオン!?」
思っていた以上に彼の顔が近くにあって慌てて飛び起きる。シオンは苦笑しながらイチカの手を取ってソファーから立たせた。両手を持って「おかえり」と優しく微笑んでくれる彼の顔を見て、イチカはつい目を逸らしてしまった。
「イチカ?」
不審に思ったシオンはイチカの顔をじっと見つめる。だがその視線すら怖くて顔があげられないイチカは、異常事態に我慢できなくなったシオンに無理やり顔を手で包まれて、目線を合わせられた。
「イチカ、何があった。なんで目を合わせない?」
「シオン・・・私、どうしよう・・・」
イチカは思わず涙を流す。シオンは驚いて顔から手を離し、イチカを抱きしめる。
「何だよ、何があったんだ!?イチカ、ちゃんと話してくれ!」
「私、最低なの。話したらきっとシオンに嫌われる。だから・・・」
「俺がイチカを嫌いになることは無い。俺の嫌な部分まで全部見てきたイチカが、俺の全部を受け入れてくれた。そんなイチカの負の部分を、むしろ俺は見てみたい。頼む。話してくれ。絶対に嫌いにならないから!」
イチカはそっとシオンの体を押して彼から離れると、下を向いたまま話し始めた。
「ジェンクの町で家事代行の仕事をしたこと、覚えてる?」
「え、ああ、あったな、そんなことも。」
「その時滞在していた方が、今回の仕事先の滞在客だったの。」
シオンが一気に青ざめる。
「イチカ、それ、本当か!?」
「うん。その方、以前は知らなかったんだけど、どうもかなり有名な貴族の方だったみたいで。でも、別にそれはいいの。それよりも・・・」
イチカの様子がおかしいことに気づきながら、シオンはじっとその言葉の続きを待つ。
「シオン、その人、しょうちゃんにそっくりなの。その人に、告白、されて・・・私・・・心が揺れた。」
消え入りそうな声で告げたその事実は、シオンの胸の中にあった様々な思いを一瞬で打ち砕いた。
「そんな・・・」
シオンのその表情を見て、イチカは彼が自分から離れていくつもりなのだと思い込み、狼狽える。
「嫌だ、シオン!お願い、離れないで!!こんな気持ち全部捨てるから、だから・・・」
その言葉に、シオンはハッとして我に返り、イチカを抱き寄せた。
「イチカ、大丈夫!不安にさせてごめん。大丈夫だから。ちゃんとここにいる。嫌いになんてなるわけがない。大切な旦那にそっくりな人間が現れたんだ。動揺するのなんて当たり前だ。それでも、こうして俺のところに戻ってきてくれたんだろ?」
「うん・・・」
「じゃあそれでいいよ。だから泣くな。絶対に側にいるって約束は、そんないい加減なものじゃない。それに・・・もしかしてそれって、お前の秘密の一つ、だったんじゃないか!?」
イチカはピタッと動きを止めた。
「やっぱり!」
「言うつもりは、無かったんだけど。」
シオンは項垂れているイチカをソファーに座らせて自分も隣に座った。
「イチカ。最後の秘密は?」
イチカはその声に含まれている彼のもう隠すつもりのない気持ちに、全身が硬直していく。声すら出ない。
「もう、全部、教えてくれないか?」
シオンの切実な声が耳の中に、胸の中に、次々と大きな波紋を広げていく。
「シオン・・・ごめん、まだ言えない。」
「どうして!?」
「わからない!どうしてなのか自分でも!!」
「もう、限界なんだ。イチカ、俺は君を」
そしてシオンの唇が、イチカに迫る。
「いや!!」
イチカは無意識にシオンを突き飛ばす。それはほとんど威力など無かったが、その一押しがシオンの唇をほんの少し遠ざけて、吐息だけがイチカの唇を震わせていく。
「イチカ。俺は・・・」
イチカはもうシオンの顔を見ることすらできなかった。
「戻る。」
シオンがイチカの両腕をぎゅっと掴む。
「駄目だ!戻らないでくれ!!」
「ごめんなさい。でも、仕事はやり遂げないと。」
「イチカ!!」
イチカはシオンの静止を振り切り、荷物を掴んで外へと走り出した。シオンが本気を出したらあっという間に追いつかれることはわかっていたが、それでもその時のイチカには、逃げることしかもう頭に無かった。
そしてその日は、仕事場にある自分の部屋に戻ることになった。シオンは結局追ってくることはなく、イチカは何もやる気が起きなくて、ただひたすらそこで眠り続けた。
目覚めた時はもう夕方になっていて、イチカは頭の痛さを感じながらベッドから起き上がる。
(シオンを拒絶してしまった。最低なことを言って・・・また逃げた)
自己嫌悪の嵐の中に陥って、またベッドにうつ伏せになる。そのまま着替えもせず食事もとらず、イチカは翌朝まで部屋の中で、鬱々とした時間を過ごすことになった。
次の日からはまた日常が戻る。
食後のお茶の時間だけはハルバートに丁寧に断りを入れたが、それ以外の業務はきちんとやり遂げた。彼は隙を見てイチカに話しかけようとしてきていたが、気付かないふりをしてなんとかそれをやり過ごしていく。
そして何事もないまま、全ての業務を終えた最終日。
イチカはその日、自分の部屋や荷物を片付け、翌朝ではなく夜のうちに帰ろうと準備をしていた。バッグに全て荷物を詰め終わり、忘れ物は無いかと部屋の中を確認していく。
するとその時、小さなノック音が聞こえた。シリルかなと思い何気なくドアを開け、イチカは一瞬で後悔する。
目の前には、思い詰めた表情のハルバートが立っていた。
「イチカさん。」
「ハルバート様・・・」
「あなたに・・・いや、君に話があるんです。」
「・・・はい。」
イチカは諦めてその場で話を聞くことにする。だがハルバートはイチカを奥に追いやり、自らも部屋の中へと入ってきた。
ドアが、静かに閉まる。
「ハルバート様?いったい何を・・・」
「イチカさん。いえ、イチカ。」
その声が、イチカの心を大きく揺るがす。
(呼び捨てはやめて!しょうちゃんの声でその名を呼ばないで!!)
イチカの動揺が、その表情からハルバートにも伝わっていく。彼はゆっくりとイチカを追い詰めていき、奥にあるベッドに膝の裏がぶつかって思わず座ってしまった。
「やめてください!お願い、その声で、顔で、近づかないで!!」
イチカの必死の叫びは、ハルバートに小さな疑問を与えてしまう。
「それは、どういう意味ですか?」
「あ・・・」
イチカはそれ以上何も言えず、ただ頭を左右に振って下を向いた。だがハルバートはイチカを逃してはくれなかった。
「イチカ。教えてください。私は、誰にそんなに似ているのですか?」
イチカは諦めて、囁くような声で答える。
「・・・私が、昔、一生添い遂げたいと、心から願った人、です。」
ハルバートは黙り込む。下を向いているイチカにはその表情は見えない。
「その方とはどうなったんですか?」
「彼は・・・亡くなりました。事故で。」
「なるほど。」
イチカは目をぎゅっと瞑ったまま、ただこの嵐が早く過ぎ去ってほしいと切に願っていた。だが、その願いは叶わない。
「それなら、私はそれを利用してでも、君が欲しい。」
「ハルバート様!?」
イチカは焦って顔を上げ、そしてそれが失敗であったことにすぐに気づく。なぜならハルバートのその表情は翔太の困った時の顔そっくりで、イチカはもうその顔から目を離せなくなってしまった。
「イチカ。そんなに見つめないで。もう、君を手離せなくなる。」
イチカはその言葉で我に返り、やっとのことで視線を外す。
「ご、ごめんなさい!でも、私やっぱり無理です!!あなたは貴族ではないですか!私のような庶民など相手にしている場合ではありませんよね?」
ハルバートはベッドの前に膝をつき、イチカの手を握る。
「私の母も庶民の出ですよ。私には特殊な血が流れている。そんなことで揺らぐような地位ではない。君が私を受け入れてくれるのなら私は・・・」
『・・・一花!!』
その瞬間、頭の中に翔太の声が大きく響き渡る。その声はただイチカの名を呼んだだけだったけれど、なぜか心の中にあった正体不明の迷いを全て吹き飛ばした。
そして、イチカはハルバートの手を全力で振り解く。
「ごめんなさい!!あなたではない、あの人は、あなたではないんです!!そんな当たり前のことに今さら気づくなんて・・・私本当に馬鹿でした。ハルバート様、あなたのお気持ち、本当に嬉しかったです。でも、ごめんなさい。私には今、大切な人がいるんです。その人じゃないと、もう、駄目なんです!!」
ハルバートは呆然とした表情でイチカを見上げていたが、ベッドから立ち上がったイチカが荷物を持って走り去ると、それを追うことはしなかった。
「大切な人・・・」
そう呟いたまま、彼は立ち上がってその場でしばらく深く考え込んだ後、静かに自室へと戻っていった。




