100. 縮まっていく距離
イチカは少し早足になり、ハルのいる場所まで急いで歩いていく。ハルもゆっくりではあるがイチカの方に近づいて来てくれた。
「ハルさん!お久しぶりです!」
「イチカさん!またお会いできるとは思っていませんでしたよ。もしかしてまたこちらで仕事をしてくださるのかな?」
ハルが優しく微笑みかけながらイチカの目の前に立つ。以前に会った時よりも明らかに上質な服装を身にまとい、優雅に佇むその姿を見て、イチカは青ざめた。
「ハルさん、もしかして・・・今回こちらに滞在されるお客様、なんですか?」
ハルはキョトンとした表情になり、イチカのその顔を見ながら躊躇いがちに返事をする。
「ああ、そうでしたね。以前私はあなたに自分の素性を何もお話していなかったんでしたね。」
「・・・グレイ様、私、あなたが貴族の方とは思っていたのですが、まさかそんなに偉い方とは・・・知らなかったとは言え、失礼な態度ばかり取ってしまって申し訳ございませんでした!」
イチカはそう言うと思いっきり深く頭を下げて謝罪した。
「・・・イチカさん、顔を上げてください。」
ハルはそっとイチカの肩に触れる。イチカはおずおずと顔を上げるが、ハルの目はどうしても見られなかった。
「私は確かにそれなりの立場の人間です。ですがあなたのことはもうお友達のように思っているのです。今からそんな風に距離を置かれたらとても寂しい。ですから以前のように『ハル』と呼んでください。」
「それは・・・無理です!!」
イチカがそう叫ぶとハルは苦笑して肩から手を離した。
「わかりました。ではハルバートと呼んでください。それが私の本名です。私もあなたに本名で呼んでもらえるならその方が嬉しい。」
「ハルバート、様・・・」
「様、は寂しいですが、仕方ありませんね。さあ、中にご案内しますよ。一緒に行きましょう。」
イチカは黙ったままハルバートの後ろについて家の中に入っていく。その家は全体を様々な庭木と木の柵で囲ってあり、建物は町長の自宅と同じく石造りのシンプルな二階建ての建物だった。
玄関の大きなドアを開けると、広い玄関ホールと大きな花が生けてある花瓶が高さのある台に置いてあり、その奥に階段が続いている。
「右側に食堂、その奥が厨房と使用人用の部屋が二つあります。左側には応接室と書斎、お手洗いや風呂場などがその先に。私達の部屋は二階です。今回は私を入れて五名おりますので、よろしくお願いします。ああ、食事ですが、どうも予定していた人が来られなくなったそうで、町長が自宅の料理人を寄越してくれるとのことでしたよ。」
「シリルさんが?そうですか。」
ハルバートはイチカに微笑みかけながら、さらに彼の今の状況を伝える。
「今回私達はこの近辺で起きている異変を調査するためにここに滞在しています。日中は外に出ていますが、夕方以降は帰ってきます。以前と同じく掃除や洗濯、それともしよければ調査した内容を書類にまとめるのですが、それを手伝っていただくことはできますか?」
イチカは業務に無い依頼に驚いて、今度はしっかりとハルバートの顔を見る。
「私のような者がそんな大切なお仕事のお手伝いなどできるのでしょうか?」
「大丈夫ですよ。ナタリアさんからも、今度来る家事代行の方は書類整理が得意ですよとお墨付きをいただいています。私も、あなたに手伝ってもらえたら嬉しい。」
そう言うとハルバートはにっこりと笑う。イチカはその翔太そっくりの笑顔に負け、断りきれずについ頷いてしまった。
「はい、私でできることでしたら。」
「ありがとう。では今日から、よろしくお願いしますね。」
そう言って肩にポンと手を置いた後、ハルバートは部屋に戻っていった。
(しょうちゃん・・・じゃないのに。私、触れられたことを嬉しく思ってる・・・最低だ)
密かに抱いてしまった自分の気持ちに動揺しながら、イチカは早速自分の部屋になる予定の使用人用の部屋へと向かっていった。
その日は午後からシリルがやってきて、共にまた働けることを喜び合った。以前と違い一人では無いのと、配膳はしても調理の必要が無いことでかなり時間にも心にも余裕ができた。
掃除や片付け、庭木の水やりなどを済ませ、帰ってきた五人の夕食の準備を手伝う。彼らのうち二人は以前見かけたことのある男性達で、朝食が美味しかったことなどを再び褒めてもらい、イチカは少し照れながらその賛辞をありがたく受け取った。
そして、食後の片付けを終えると、ハルバートが食堂でテーブルを拭いていたイチカに声をかけてきた。
「イチカさん、今から手伝いをお願いできるかな?」
「あ、はい、すぐに参ります。書斎の方でよろしいでしょうか?」
「ええ。それとお茶を淹れてきていただけますか、二人分でいいので。」
「え?二人分ですか?承知いたしました。」
ハルバートが食堂を出ていくと、イチカはすぐにお茶の支度を整えて書斎に向かった。
部屋をノックして入室すると、そこにはなぜかハルバートしかいなかった。イチカは不思議に思いながらもお茶を注ぎ、二つのカップを肘掛けのついた低めの椅子の前にあるローテーブルに置く。
「イチカさん、ありがとう。さあ、そこに座って?」
「はい・・・」
よく事情が飲み込めないまま椅子の一つに腰をおろすと、ハルバートも目の前の椅子に座る。
「さあ、イチカさん、一緒にお茶を飲みましょう。」
「・・・えっと、お仕事は・・・」
ハルバートは珍しくニヤリ、と悪戯っぽい笑みを見せる。
「あれは口実です。イチカさんを誘うための。」
「ハルバート様!?」
「あはは!いやだってずいぶん他人行儀になってしまったから寂しくて。だからこれからの二週間、私の食後のお茶に付き合うのが、一日の中で最後の業務ですよ。いいですか?」
「わ、わかりました!」
イチカは緊張しながらも大きく頷き、ハルバートは嬉しそうに微笑んだ。
そうしてその日から毎日、食後にちょっとしたデザートも付いたお茶の時間をハルバートと二人で過ごすことになった。シリルからもかなり有名な貴族の家の方だと聞かされ、毎日緊張しながら夜のお茶に付き合う。だがハルバートは話し上手で、気がつけばその巧みな話術に引き込まれ、イチカはその時間を少しずつだが楽しいと感じ始めていた。
そんな日々が数日続き、イチカは少しだけハルバートと打ち解けて話せるようになった。だが翔太そっくりのその笑顔を見るたびに心が微かに軋むような気がして、どこか壁を感じてもいた。
それでも彼の優しい笑顔や思いやりに触れているうちに、ハルバートに向けて築いていたその壁は少しずつ取り除かれていく。
そして六日目にしてようやく、イチカは彼の前で屈託のない笑顔を見せながらその時間を過ごせるようになっていた。
「イチカさん、ようやく私の前で自然に笑ってくれるようになりましたね。」
「え?」
ハルバートがカップをテーブルに置き、背もたれに寄りかかって手を組んだ。その姿勢の良さや貴族らしい居住いは、イチカを再び緊張させていく。
「あの、私つい調子に乗って、失礼な態度を!」
「逆ですよ。私はあなたに寛いでもらった方が嬉しい。」
「ですが・・・」
「あなたとこうして話しているととても楽しいんです。昔母ともこうしてよく寝る前に話をしていました。もう、かなり前に亡くなってしまったのですが。」
イチカは何も言えず、ただじっとハルバートの悲しそうな横顔を見つめていた。そしてハルバートがイチカの方に目を向ける。
「どうか気を遣わないでください。今はもう母の死を受け入れていますから。」
「・・・私も、生まれた時に母を亡くしているんです。」
ハルバートがイチカの方に顔を向けた。
「何も母の思い出は無くて、だから悲しいという気持ちも無いんです。でも、ハルバート様がジェンクの町で淹れてくれたお茶が、私にとっては母の優しさのように思えて、今も心に残っているんです。ハルバート様のお母様の思い出なのにまるで私の思い出みたいに、すごく心を温めてくれたから。」
「イチカさん・・・」
ハルバートは真剣な表情になり、すっと立ち上がった。するとそのままイチカの前に膝をつき、イチカの右手を両手で優しく包み込んだ。
「えっ!?」
「あなたが私の母のことを優しいと言ってくれたこと、とても嬉しかった。そして一緒に過ごした時間をそんな風に大切な思い出として感じてくれていたなんて・・・思ってもいませんでした。」
「あの、むしろそんなことを勝手に思っていてすみません!ハルバート様の大切な思い出なのに・・・」
ハルバートはゆっくりとその手を握ったまま再び立ち上がり、イチカをそっと立たせた。
「ハルバート、様?」
よくわからないまま立ち上がり、そして、ハルバートはイチカをそっと、本当に柔らかく、優しく抱きしめた。
「え?あの・・・ハルバート様!?」
「静かに。皆が起きてしまう。」
「あ、あの、これは、いったい・・・」
ハルバートはイチカを包み込んだままゆっくりと言葉を続けた。
「わからないんです。ですがどうしても、あなたとこうしたかった。私は・・・あなたに惹かれているのかもしれません。最初に会った時から。」
「・・・は、離して、ください。」
「もう少しだけ。」
「・・・」
そしてイチカは拒絶することも受け入れることもできず、腕を下におろしたまま、混乱の中でただその温もりを感じて立っていることしかできなかった。
数分そのままの状態で過ごし、ようやくハルバートがイチカを解放する。
「イチカさん、明日はお休みですね。もしよければ・・・私とのこと、少し考えてはいただけませんか?」
「ハルバート様!?」
「私は真剣です。」
「私は・・・」
イチカはどうしてかシオンのことを告げることができず、苦悶の表情を浮かべたまま、逃げるように書斎を出ていった。




