三つのお願い 4
外へ出たころには、日はすっかり暮れてしまっていた。宵闇の中、グレーテは早足で晩餐会へ向かっていた。シルヴィアからなかなかテーブルマナーの合格が貰えず、時間ぎりぎりになってしまったのだ。
夜会の舞台となるのは、男女寮の中間に位置する共通棟だった。開け放たれた玄関から漏れ出した光が、周りの庭木に濃い陰影をつけている。玄関を入ると、正面には大階段があった。赤絨毯が敷き詰められた玄関ホールには従僕の少年が立っていて、グレーテをうやうやしく出迎えた。
「招待状はお持ちですか? ⋯⋯はい、確かに。ではどうぞ、こちらです」
ドレスの裾を踏まないように気をつけながら、大階段を上がっていく。二階の控え室にはすでに大勢の男女が集まっていた。
「ふん、遅かったですわね」
グレーテに気づいて、立ち上がったのはカテリーナだった。彼女は目の覚めるような薔薇色のドレスを着ていた。裾の前側が短く、後側が長い、ちょっと変わったデザインだ。カテリーナは、扇でちょいちょいと手招きをする。一瞬迷ったグレーテだったが、他に頼れる人もこの場には見当たらない。素直に近づくと、カテリーナはグレーテの全身を見て眉を顰めた。
「あなた、少しセンスが古いのではなくて? もっと流行を取り入れたドレスを選ぶべきですわ」
グレーテが着ていたのは、夜空の色をした詰襟のドレスだった。裾や袖には星座を模した銀糸の刺繍が入っている。シルヴィアが晩餐会のために取り出してきたもので、金貨十枚はくだらないという超高級品だ。しかし、残念ながらカテリーナのお眼鏡には適わなかったらしい。
「そうかしら? お恥ずかしながら、私、どうもこういうことには疎くて。カテリーナ様のドレスは独創的で素敵ですわね」
「ふふん、そうでしょう? 入学祝いに、マダム・リシュリーの工房で作らせたものですの」
カテリーナはくるりと一回転して見せた。ふわりと花が咲くように裾が広がる。
「あなたがどうしてもと言うのなら、紹介してあげてもよろしくてよ?」
「まあ、嬉しい! ぜひお願いいたしますわ」
手を合わせて喜んでみせると、カテリーナはふん、と視線をそらした。だが、その頬はこころなしか赤く、口元は緩んでいるように見える。
もしかして、カテリーナって意外と分かりやすい人なのかも。少し肩の力が抜けたグレーテがカテリーナのドレス談義に合槌を打っていると、視界の端に影が差した。
「やあ君たち、何の話をしてるんだい?」
そう言ってグレーテたちに近づいてきたのは、二人組の男だった。声をかけてきたのは巻き髪の、いかにも遊び慣れていそうな雰囲気の優男だったが、グレーテの視線はその背後の人物に吸い寄せられた。
雨空のような色彩の男だった。濃灰色の髪はざっくりと固められ、ほつれた前髪の間から藍色の瞳が覗いている。まじまじと見ていると、ばちっと目が合った。
何かを見透かされそうな強い視線に、思わず目を逸らす。対照的に、カテリーナは男たちをじろりと睨め上げた。
「あら、どちら様かしら。あいにく、わたくしの存じ上げている方ではないようですけれど」
「おっと、これは失敬! 僕としたことが、うっかりしていたようだ。自己紹介がまだだったね」
巻き髪の男は、大袈裟な身振りで胸に手を当てた。
「はじめまして、麗しのご令嬢方。僕は三年のフォルカー・メイウェスペル。そしてこちらが、僕の級友にして親友の、ルーカス・ベルメール君だ。よければ僕たちに、君たちのことを知る機会を与えてはくれないかな」
紹介されたルーカスという男は、黙って頭を下げた。グレーテはどこかで彼を見たことがあるような気がした。いったいどこで? 貴族の知り合いなんているはずもないのに。
「お二人ともはじめまして。ユリアナ・メノックスと申します」
グレーテが頭を下げると、フォルカーがうん?と首を傾げた。
「おや? ルーカス、君とユリアナ嬢は知り合いではなかったのかい?」
グレーテは血の気が引いた。しまった、ユリアナと面識があったのか。言い淀んでいると、すかさずルーカスが口を開いた。
「いや、数年前に一度お目にかかったきりだから、覚えていらっしゃらないのも無理はない。改めて、ルーカス・ベルメールです。どうぞお見知りおきを」
「え、ええ」
危なかった。グレーテは悟られぬように息を吐いた。顔見知り程度の関係なら、覚えていなくてもさほど不自然ではないはずだ。
そこに、従僕が晩餐会の準備が出来たことを知らせに来た。室内の男女が一斉に動き始める。次々に腕を取り合い、二人組になって廊下へ出ていく。どうやらペアはあらかじめ決まっているらしい。カテリーナもどこからともなく現れた上級生らしき男と連れ立ってさっさと行ってしまった。
「さて、それでは僕たちも参りましょうか。ユリアナ嬢、お手を」
フォルカーが白い歯を見せながら、腕を差し出した。この人がペア。どうしようもない不安がグレーテを襲う。これから、この男の隣で正体がバレないように晩餐をこなさなければいけないのだ。正直、ボロを出さない自信がない。
「フォルカー、耳を貸せ」
しかし、グレーテが覚悟を決めて手を伸ばしたそのタイミングで、ルーカスがフォルカーの肩を掴んだ。耳元で何かを囁いている。フォルカーの顔が驚きから、含みのある笑みへと変わっていった。
「なんだって? いや、そうだったのか。まさか君がね。ふふん、もちろん心配無用さ。この僕に任せてくれたまえ」
やけに嬉しそうにそう言うと、フォルカーはウインクを残して去っていった。戸惑っていると、横に立ったルーカスが腕をそっと肩にまわす。耳元で低い囁き声がした。
「事情は聞いている。何とか乗り切ろう」
グレーテははっと隣の男を見る。事情。いったいどこまで。彼の横顔からは、一切の感情が読み取れなかった。
大階段を降り、大広間へ入る。入口の向かい側の壁は一面ガラス窓になっており、宵闇に沈む庭が見渡せる。シャンデリアの上の、数えきれない蝋燭の炎が、室内を真昼のように照らし出している。天井に描かれているのは不死鳥だ。真っ赤な翼を存分に広げて飛んでいる。
広間の中央には巨大なテーブルが鎮座していた。純白のクロスの上には陶磁の食器とカトラリーが整然と並べられている。およそ30セットといったところだろうか。卓上の花台には大輪の花がどっさりと活けられている。
グレーテは思わず息を飲んだ。美とやらには関心の薄い彼女でさえ、一瞬我を忘れたほど、広間は美しいモノで溢れていた。グレーテは、こんなところで伸び伸びとしている周りの令嬢令息たちが、急に恐ろしくなってきた。これだけのものに囲まれて、よく気圧されないでいられるものだ。
ルーカスにエスコートされるまま、テーブルの前にたどり着く。すぐには椅子には腰掛けず、直立のまま待つこと五分。ようやく、入口の扉から紫髪の令嬢と立派な体躯の青年が現れた。今日の主人役を務める、レクシー寮の男女寮長だ。
これで貴族寮に所属する全ての生徒が揃った。ワインが行き渡ると、金髪の偉丈夫はおもむろに口を開いた。
「君達、いい夜だな。男子寮長のエドウィン・コープだ。今日は新入生の入学を祝して、ささやかな晩餐を用意させてもらった。各自、懇親を深めてくれ」
「女子寮長のアーデルハイト・メイマーネです。皆様方、良い夜ですこと。どうぞ今宵は堅苦しいことは抜きにして、大いに楽しんで下さいませ」
「グラスは持ったな。では、我らの偉大なる皇帝陛下に。乾杯!」
エドウィンの掛け声に合わせて、グレーテたち寮生は一斉にグラスを掲げた。寮長二人の手元から白い光線が蔓のように絡み合いながら立ち昇り、テーブルの上空で弾ける。何かキラキラしたものが、おのおののグラスの上に降り注いだ。
手元の杯を見ると、雪形の結晶が落ちてきたところだった。見ているうちにそれらはすうっと深紅の水面に溶けて消えてしまう。
「わあっ。綺麗」
「これが乾杯の魔法。魔法使いの宴会ではお決まりなんだ」
ルーカスが言い添える。グレーテは魔法の雪が溶け込んだワインに口を付けた。コクンと一口飲み込むと、芳醇な香りが鼻に抜けていく。カッと熱くなった胃のあたりを抑えながら、グレーテはルーカスが引いてくれた椅子に腰掛けた。いよいよ晩餐の始まりだ。