三つのお願い 2
特訓の日々はあっという間に過ぎ去り、ついに入学式の日がやってきた。
朝のほのかな光の中、黙々と準備が進められていく。グレーテは眠い目を瞬かせながら、侍女のシルヴィアの動きを眺めていた。
シルヴィアがワードローブから取り出してきたのは、独特な色合いのドレスだった。艶めいた暗い赤色の生地は、角度によって微妙に青みがかって見える。
「不思議な色。ワインみたい」
思わずグレーテがそう呟くと、跪いて丈を合わせていたシルヴィアは、顔も上げずに答えた。
「サルーナ、あるいはサルーナレッドといいます。帝国貴族は、礼装に必ずこの色を使うんです。どれだけ使うかは地位や場面によるのですが、今日のドレスはほとんどサルーナ一色。最礼装だと思ってください」
コルセットの紐をきつく締められると、自然と背筋が伸びる。シルヴィアの細い指は軽やかに往復して、ユリアナの長い髪をすっきりと編み上げた。
「できました」
前を向くと、気品を感じさせる少女が鏡に映っていた。グレーテは改めてユリアナの美貌にため息をついた。サルーナレッドのドレスに、金髪と、同系色のイヤリングがよく映えている。グレーテが同じものを着ても、こうはならないだろう。見惚れていると、シルヴィアに肩を叩かれた。
「それでは入学式に向けて、最後に復習しておきましょう」
人間やれば出来るものだ。この五日間で、グレーテはなんとか基本の身のこなしを修得した。とはいっても付け焼き刃にすぎないので、まだまだ不安定だ。一発勝負の入学式で、上手く出来るかは運次第。グレーテは不安を隠すため、頬に力を入れて微笑んだ。
✯✯✯
「そろそろ時間ですね。行きましょう」
最後のレッスンが終わったころには、窓の影がくっきりと床に落ちるようになっていた。シルヴィアはざっとグレーテの全身を点検すると、頷いて部屋の扉を開けた。グレーテは高鳴る心臓を抑えて一歩外に踏み出す。
エントランスに降りていくと、そこはすでに人でいっぱいだった。窓辺には色とりどりの花が活けられている。
「少し待っていて下さい。事務室に行ってまいります」
そう言ってシルヴィアが傍を離れたので、グレーテはしばらく一人になった。
「あら、ユリアナさん。お久しぶりですわ」
そこに声をかけてきたのは、勝ち気そうな令嬢だった。グレーテと同じ、サルーナレッドのドレスに身を包んでいる。肩まわりを露出したデザインだが、体つきに少女らしさが残っているせいで、それほどセクシーさは感じない。豊かな栗毛を耳の上で二つに結い上げ、胸の当たりまで垂らしている。右手には蔓植物が描かれた扇を持っていた。
グレーテが反応できずにいると、令嬢は無視されたと思ったのか、ぱっちりした目をきりりと釣り上げた。
「ちょっと! 聞いていますの?」
知り合いだろうか? グレーテは頭を高速で回転させた。シルヴィアに叩き込まれた定型文を必死に思いだす。
「ええ、お久しぶりね! いつ以来かしら? お会いできて嬉しいわ」
よし、これだ。思い出したセリフを、グレーテは感情を込めて発声した。が、令嬢は訝しげに眉を寄せた。
「──どうしましたの? 妙ですわね。いったい何を企んでいらっしゃるの?」
まずい、失敗したか? グレーテのこめかみに汗が伝う。
「そうかしら? そんなことございませんわ」
「どうだか。あなたはいつもそうですわ」
令嬢は鼻を鳴らした。グレーテは困惑した。友人かと思ったのだが、どうもあからさまな敵意を感じる。いったいどんな関係なんだろう? 黙り込んだグレーテをどう解釈したのか、令嬢はぐっと顔を寄せてきた。
「もしかしてあなた──」
「お待たせしました、ユリアナ様」
二人してはっと振り返る。グレーテは、このときほどシルヴィアが頼もしく見えたことはない。シルヴィアはさりげなく間に割り込み、グレーテを背に庇った。一方令嬢は、パチンと音を立てて持っていた扇を閉じた。
「あらあなた、侍女を連れてきましたの? 」
令嬢は上から下までシルヴィアを見て、ふんと鼻を鳴らした。
「確かに認められてはいますけど、あまり感心はしませんわね。この寮では自分の面倒は自分で見る決まりですもの。甘やかされていたらいつまでも自立できませんわよ。侍女のお前も、そこのところはよく弁えるようにね」
「親切なお言葉、痛み入ります。おや、馬車が来たようですね。さ、ユリアナ様、参りましょう」
「ええ」
グレーテはなんとか栗毛の令嬢から逃げおおせた。令嬢はまだ何か言いたげだったが、到着を告げるベルの音を聞いて、むっつりと黙り込んだ。
寮の表には、馬車が停まっていた。ここへ来るのに使ったような四人乗りの馬車ではなく、長い客車が後に付いた形だ。よく見れば、車輪はレールの上を走っている。つまりこれは馬車軌道なのだった。
客車には既に、赤色の服を着た少年たちが座っている。令嬢たちの後から乗り込もうとしていたグレーテの背に、もうすっかり聞き馴染んだ侍女の声がかかった。
「ユリアナ様」
振り向いたグレーテの耳元で、そっとシルヴィアは囁いた。
「わたくしは学院の中へは入れません。あとはお一人で。必要なことは全て教えました。焦らず、落ち着いて対応してください」
思わず顔を見ると、まっすぐ視線がぶつかった。シルヴィアは真剣な顔をしていた。何故だろう。その空色の瞳を見ると、不思議と勇気が湧いてきた。
「ええ。行ってきます」
✯✯✯
左右に細かく揺れながら、馬車軌道は坂を登っていく。庭木の一本に至るまで整えられた邸宅がずらりと並び、次々とその画を見せてくれる坂道は、さながらギャラリーのようだ。もっともグレーテには景色を楽しむ余裕などなかった。入学式の手順を確認することで、彼女の小さな頭はいっぱいだった。
到着を告げるベルが鳴る。グレーテはしずしずと馬車から降りて、聖ロズロー学院の前に立った。
見上げた正門は、圧倒される大きさだった。聖人の像や植物のレリーフが彫り込まれた豪華なものだ。門の正面は、ずっと向こうまで道になっていて、その奥に本館らしき影が見えた。本を積み上げたように四角い建物で、ペンのように尖った高い塔が三本、にょっきりと突き出ていた。
客車は軌道の先に消えていった。グレーテは、学院前で降りた生徒たちと共に、門をくぐってしばらく壁沿いに歩き、白い円形の建物にたどりついた。
そこは小さな聖堂だった。長椅子が置かれていて、突き当たりの一、二段高くなったところに祭壇がある。祭壇の後ろの壁には、長い髪をした女性の石像がある。グレーテは長椅子の一つに座った。周りを見渡すと、新入生と思しき生徒たちがちらほらと目に入った。赤い礼服を着ているのは、ユリアナと同じ帝国貴族だ。一方、明るい青のローブのような服を着ている集団もいる。その数は合わせて30人ほど。若干青服の方が多いようだ。
グレーテは学校の式典など出たことはなかった。田舎生まれ下町育ちのグレーテは、正式な教育機関に籍を置いたことはなかったのだ。こんなにドキドキするものなんだ、とグレーテは紅潮した頬をおさえた。聖堂はしんとした空気で満たされていたが、グレーテの胸はさわがしくなる一方だった。
式は粛々と始まり、帝国貴族が皇帝の名代として祝辞を述べた。グレーテは静かに聞いていたが、次に祭壇に登った人物を見て、あやうく声を出すところだった。
壇上に立ったのは、数日前に、茂みをくぐった先の屋敷で見た老人だった。服装こそ違うが、間違いない。ごちゃごちゃと徽章やリボンをつけた白服に包まれた老人は、よく響く厳かな声で言った。
「諸君。儂は、ブレシュタット大聖堂会の司教を拝命しておる、グスタフである。儂は、諸君がこの聖ロズロー学院の一員となったことを心より嬉しく思う」
グレーテはあの日見た光景を思い出した。老人がグスタフ司教だということは、対面で話していたのは彼の知り合いだろうか。グレーテは未だに、姿が見えなかったもう一人のことが気になっていた。
グレーテが考え込んでいる間に司教の祝辞は終わり、続いて修道の誓いが始まろうとしていた。散々シルヴィアに練習させられたものだ。ここが正念場。グレーテは誰にも分からないように、そっと息を吸い込んだ。