三つのお願い 1
グレーテはいつの間にか、五番街にある十字路の上空にいた。行き交う人々は、まるでたらいで洗われる豆粒のように、右に左に、渦を巻いたり波を起こしたりと不均衡に蠢いている。
誰も上を見ないので、そこにグレーテがいることに気づいていないようだった。グレーテはしばらく、人々が織り成す、不思議な紋様の変化をぼうっと眺めていた。
とんとん、と肩をたたかれ、グレーテは振り向いた。そこにはあの日出会った金髪の少女──ユリアナがいた。
ユリアナがにこりと微笑む。グレーテも微笑み返し、ふと視線を下に向けて凍りついた。
少女は右手に、銀色の手鏡を持っていた。
そしてその鏡面には──
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「おはようございます」
「いやあっ!」
目を覚ますと、無愛想な銀髪の女がこちらを覗き込んでいた。知らない女だ。グレーテは大きなベッドから飛び出すと、半分開いたドアから逃げ出そうとした。
そんなグレーテの肩を、女──思い出した、シルヴィアだ──ががっちりと掴む。
「落ち着いてください、『ユリアナ』様」
そう、グレーテは現在、ユリアナという魔女と身体を入れ替えられていた。聖ロズロー学院に送り込まれた貴族令嬢「ユリアナ」の正体は、12歳の町娘、パン屋の使い走りのグレーテだった。
「シルヴィアか……。ごめん、寝惚けてた」
「寝惚けて『いた』です。言葉遣いには気をつけてください」
そしてユリアナの侍女であるシルヴィアは、グレーテの監視役だった。今は入学式のために、毎日飽きることなくグレーテにマナーレッスンをつけている。
シルヴィアのマナーレッスンは、日夜問わず続けられた。シルヴィアは鞭こそ持たなかったが、代わりに失敗するたびに皮肉が飛んでくる。グレーテはその度に半ばやけになって特訓し、ようやく昨日、はじめての「可」をもらったところだった。
「さあ、今日もレッスンを始めますよ」
一分の隙もない笑顔のシルヴィアに、グレーテは引きつった笑みを返すことしか出来なかった。
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午後になって、やっと休憩を与えられたグレーテは、ぐったりとソファに沈みこんだ。覚えることが多すぎて頭が破裂しそうだ。
シルヴィアのレッスンは、一が出来ると十、十が出来ると百と言った具合で、どんどん注文が細かくなっていく。一度出来たと思ったものは、シルヴィアからすれば穴だらけだったようだ。今日も早朝からみっちりしごかれた。
グレーテは恨めし気な表情でシルヴィアを見る。そんな視線には気づきもせず、ちらりと懐中時計を確認したシルヴィアは、一度自室に戻ると、帽子とマントを着けて現れた。
「わたくしは少し出てまいります。夕方には戻りますから、それまで大人しくしていてくださいね」
「ええ、分かったわ」
グレーテはシルヴィアの足音が聞こえなくなると、途端に飛び起きて忙しなく動き始めた。
「大人しくなんてしてるわけないでしょ。これでやっと外に出られるわ」
グレーテはもう限界だった。元々外に出ることが好きな娘なのだ。部屋に籠もりっきりの毎日に耐えられるはずがなかった。
ドレスの飾りものを全て取っぱらうと、ワードローブからマントを取り出す。ユリアナが初めて出会ったときに着ていたものだ。慣れない手つきで前紐を結び、適当な帽子を引っ掴むと、脱兎のごとく廊下側のドアから飛び出した。
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気持ちのいい昼下りだった。青く澄んだ空に、ニシンの群れのような雲が泳いでいる。
グレーテはゆっくりと庭の小道を歩いていた。
庭園は見事なものだった。ちょうどヒマワリが咲き終わる季節で、ヒメリンゴの実が風に揺れている。グレーテは嫌な気持ちをすっかり忘れて、庭めぐりを楽しんでいた。
ふとあるものが目に留まって、グレーテは立ち止まった。グレーテの背たけほどの茂みに、ちょうど通り抜けられそうな裂け目が空いている。
迷ったのは一瞬だった。グレーテはマントを畳んで地面に置くと、茂みに右半身を突っ込んだ。
断っておくが、彼女も普段からこんな突拍子もない行動をしているわけではない。ただストレスから解放されて、少しばかり気分が高揚していたのだ。
茂みを超えた先には、広々とした庭園が続いていた。大輪のダリアが咲き誇っている。何かに導かれるようにして、グレーテは遠くに見える建物に向かって歩き出した。
心臓がばくばくと波打っている。それでもグレーテは、引き返そうとは思わなかった。だって、二度とこんなところには来れないのだ。どうせなら、隅の隅まで見て回りたい。
スパイにでもなった気分で、こそこそと歩き続けていたグレーテは、しかし、視線を感じてはっと我に返った。いつの間にか屋敷のすぐそばまでやって来ていた。慌てて木陰に身を隠す。しゃがみこんで、頭を抱えた。よくよく考えれば、もしかしてあの茂みは超えちゃいけないものだったんじゃないか。ということは、グレーテは今、侵入者だ。見つかったらひどく怒られるにちがいない。
しばらくして、様子が気になったグレーテは、木に背を預けてそっと屋敷のほうを伺った。先ほど感じた視線は消え失せていて、窓のなかでは、青い豪華な衣装を着た老人が、ソファに腰掛けて誰かと喋っていた。
老人は話に集中しているようで、全くこちらを見ようとしない。グレーテは対面の人物の顔が気になったが、ちょうど半分閉まったカーテンの影になっていて、姿が見えなかった。
見ているうちに、やはり青い服を着た黒髪の青年がやってきて、老人に声をかけた。老人と青年は連れ立って部屋を出ていく。もう一人の影は、最後まで見えなかった。
すぐに、屋敷の右手が喧しくなった。ブナの林の陰に隠れるようにして、黒塗りの馬車がやってきて、裏玄関の前に静かに止まる。マントを着た男たちがわらわらと出てきて、忙しく馬車に乗り込んだ。馬車はそのまま坂の上に向かって出発した。そのスピードは速く、見る見るうちに坂を超えて見えなくなってしまった。
そこまで見届けて、グレーテはほっと息を吐いた。見つかるのが怖くて、全く動けなかったのだ。なんだか、劇の一部でも見たような、不思議な気分だ。見つからなかったことに安堵しつつも、途端に帰りたくなったグレーテは、元来た道を引き返すことにした。
急いで帰ってくると、部屋では既にシルヴィアが待っていた。シルヴィアは明らかに不機嫌そうな顔をしていたが、無数の引っかき傷が刻まれた泥だらけのドレスを見て、目を釣り上げた。
「貴女って人は! 勝手に外出しただけでは飽き足らず、服をボロボロにして帰ってくるなんて。 いったい何があったのか、ぜひとも教えていただきたいものですわ」
「ごめん。その、猫の姿が見えて、つい庭にでちゃったの。それで追いかけているうちに転んじゃって」
グレーテはとっさに嘘をついた。何となく、今日見たことは秘密にしておきたかった。猫を追いかけてワンピースを破いたのは、何年も前の話である。
「猫? 本当に? 転んだだけでそんな傷がつきますか?」
「つまづいた拍子に、藪に引っ掛けたの。服を破いたことは謝るわ、ごめんなさい」
シルヴィアはしばらく黙っていたが、グレーテにそれ以上話す気がないと察したのか、それ以上時間を使いたくなかったのか、わざとらしくため息をついた。
「分かりました。今回はそういうことにしておきます。次はありませんよ」
しおらしく垂れていた顔を上げかけたグレーテは、シルヴィアの次の言葉で青ざめた。
「しかしうっかり転んでしまうなど、どうやらわたくしのレッスンが十分ではなかったようですね。ご安心ください。二度とそのような無様を晒さないよう、徹底的に鍛えてさしあげます」
どうやら藪をつついて蛇を出してしまったらしい。その日はそれまでのレッスンが児戯に思えるほど、厳しくしごかれたのだった。