少女と魔女 3
部屋を出ると、暗い廊下の先にぴんと伸びた女の背中が見えた。
グレーテが小走りで追いつくと、女──シルヴィアは立ち止まり、振り向いた。グレーテの方が大分小さいので、自然と見上げるような体勢になる。
シルヴィアはグレーテを見下ろして、ちょっと眉をしかめた。
「いいですか。これから家の者と合流して聖街の学生寮に向かいますが、何を聞かれても絶対に喋らないでください。全てわたくしが受け答えしますから、貴女は黙っていてくださいね」
「わ、分かったわ」
何ともまあ、有無を言わせない態度だ。グレーテが頷くと、シルヴィアはまた前を向いてすたすたと歩きだした。今度はグレーテも落ち着いて彼女の後を追う。
二人が宿屋を出ると、表には立派な箱馬車が一台と、荷馬車が二台止まっていた。その横で御者と話していたプリントドレス姿の女二人は、グレーテ、いやユリアナの姿に気がつくと、慌てて駆け寄ってきた。
「お嬢様! もう体調はよろしいのですか?」
「急にお倒れになったと聞いて、私たちがどれほど心配したことか」
この二人もユリアナの侍女なのだろう。かなり心配しているようなのに、返事もできないなんて。グレーテは胸を痛めつつも、言われた通り黙っていた。シルヴィアはさりげなくグレーテの前に立ち、なんでもないといった調子で二人に告げる。
「ユリアナ様は問題ないと仰せです。時間が押していますから、急いで参りますよ」
「ええ、しかし、お嬢様は大丈夫なのですか?」
「あまり人と話す気分ではないそうですが、ゆっくり移動する分には問題ないと。早く寮にお連れして、休んでいただきましょう」
そう言うと、シルヴィアは恭しくグレーテの腕を取って馬車に乗り込んだ。侍女二人もそれに続く。四人が座席に腰掛けると、すぐにドアが閉じられ、いななきと共にゆっくりと車輪が動き出した。
グレーテは、生まれて初めて乗った個人用馬車に感動していた。乗り合い馬車と比べれば、乗り心地の良さは桁違いだ。こんなに揺れが少ないなんて。尻で跳ねてみようとして、隣のシルヴィアにこっそり腕をつねられた。
(まずいまずい。今のわたしはお嬢様なんだった)
はやる気持ちを押し殺し、窓の外を見る。少し大きくなった大聖堂は、いつもと変わらずグレーテを見下ろしていた。
✯✯✯
ブレシュタットの街は、メスト河を挟んで東西に分かれている。東側が市民の暮らす市街、西側が教会の敷地である聖街だ。市街と聖街の間には三本の橋がかかっているが、グレーテはどれも渡ったことがなかった。聖街には、教会の許可を得た人間しか入ることができないからだ。
グレーテたちは、北側の橋を通って、聖街に向かおうとしていた。初めて見た北側の橋は昔ながらの石橋だった。橋の前には詰所があり、苔色の制服を着た教会の衛兵が立っている。グレーテの心臓は兎のように飛び跳ねた。どうやら、検問を通らなければならないらしい。
「停止せよ。代表者は許可証を」
衛兵の朗々とした声が、馬車の壁越しに聴こえてくる。焦るグレーテには見向きもせず、シルヴィアは足元の鞄から何か書類のようなものを取り出した。
「許可証です。」
車内にはグレーテと使用人二人だけになる。グレーテは言いつけ通り、しばらく無言のまま待っていた。本当に無事に通れるのだろうか。どくん、どくんと心臓が音を立てている。
突然、「失礼」と窓を叩く音がした。衛兵だ。グレーテはもう少しで声を出すところだった。
年かさの侍女が、おそるおそる聞き返す。
「はい、何でしょうか」
「馬車内をあらためます。一度降りていただけますか」
何か不審なところがあったのだろうか。グレーテは侍女たちと顔を見合わせた。
「すみません、お嬢様はただいま体調が悪く。どうしても降りなければなりませんか」
「それはお気の毒ですが、皆様にお願いしていることでしてね。手早く終わらせますので、ご協力お願いします」
シルヴィアがいない今、指示できるのはグレーテしかいない。グレーテは思い切って、侍女たちに向かって一度頷いた。
すると二人とも心得たもので、一人は衛兵に承諾の返事をし、もう一人は先に降りてグレーテに手を差し伸べた。結局グレーテは、ドレスの裾に足をとられながら、ぎくしゃくと馬車を降りることになった。
外に出ると、強い風が髪をはためかせた。衛兵は言葉通り、馬車を点検しているようだ。メイドたちは別の衛兵に呼ばれ、身体検査を受けている。自分に声がかからないことを不思議に思いながら、グレーテは対岸の聖街を眺めた。
聖街はブラエ山の斜面に沿って建てられた街だ。山の下半分は建物に覆われて、カラフルなモザイク状になっている。山裾には白く輝く大聖堂が経っていて、その周りは壁で囲われている。グレーテは、大聖堂の北側の壁に、巨大なレリーフが彫り込まれていることに気づいた。頭上に光輪を持つその男は、右手から幾筋もの光線を出し、左手で蛇を握りつぶしている。あれはいったい何なのだろう?
「ユリアナ様、お待たせいたしました」
はっと視線を戻すと、ちょうど検問が終わったところだったらしい。シルヴィアが衛兵と共に戻ってきていた。
「許可証、馬車内、持ち物、すべて問題ありません。通行を認めます。どうぞお気を付けて」
衛兵たちが帽子を脱いで一斉に敬礼する。グレーテは頭を下げようとして、思いとどまった。きっとユリアナなら頭なんか下げない。ちらりとシルヴィアを見ると、どうやら正解だったらしい。彼女も平然と敬礼を受けていた。
「ではユリアナ様、参りましょうか。お手をどうぞ」
全員が乗り込み、馬車が発車してからようやく、グレーテは知らぬ間に入っていた肩の力を抜いた。見た目でバレるわけがないと分かってはいても、あんな場面ではどうしても不安になる。こちらにはやましいこともあるのだから尚更だ。
顔を上げると、侍女の一人と目が合う。さっき、降りるのを手伝ってくれた、若い方の侍女だ。彼女は少しためらったあと、いたずらっぽく笑って話しかけてきた。
「ドキドキしましたね、お嬢様」
「スージー。それ以上無駄口を叩くようならここで降りてもらいますよ」
グレーテが何か言う間もなく、ぴしゃりとシルヴィアが言い放った。馬車内の空気がしん、と凍りつく。
そのまま馬車は橋を渡り、門を抜け、坂道を登って聖街に入った。まもなく高級そうな建物が立ち並ぶ区画に入る。グレーテが無言に耐えきれなくなった頃、やっと一軒の立派な邸宅の前で停止した。
「ユリアナ様、到着いたしました。こちらが、今日からお暮らしになるレクシー寮でございます」
黒服の男たちが出てきて、正門を押し開ける。馬車はのろのろと庭を進み、大きな建物の手前で止まった。侍女たちは無言でグレーテを降ろすと、そそくさと離れていった。グレーテは黙って遠くの空を見つめた。青い山並みが心を癒してくれる。
「行きますよ。……わたくしの顔に何か?」
「いえ、なんでも」
すでに横にはシルヴィアしかいない。グレーテは深呼吸をすると、寮に向かって一歩を踏み出した。