少女と魔女 2
はっと目を覚ますと、そこは薄暗い室内だった。どうやらグレーテは、ベッドに寝かされていたようだ。上体を起こすと、窓からは見慣れた大聖堂が見えた。ブレシュタットの街内だということが分かって、少し安心する。
しかしいったい何が起こったのだろう? こめかみがズキズキと疼いて、うまく思い出せない。
「ようやくお目覚め?」
どこか人を食った女の声。グレーテは反射的に声が聞こえた方を向いて、心底驚いた。
「わたし?」
尊大な態度で枕元の椅子に陣取っていたのは、グレーテにそっくりな少女だった。にんじんのように赤い髪、野リスに似たくりっとした目。さらには顎のかたちや首すじのほくろに至るまで、なにもかもがグレーテと瓜二つだ。
唯一、表情だけがまるで違っていた。少なくともグレーテは、こんなにも意地の悪い、それでいてどこか蠱惑的な表情をした自分を見たことがなかった。
「そう、私は貴女。そして貴女は私」
そこでようやくグレーテは気がついた。あかぎれで真っ赤だった自分の指が、白くなめらかになっていることに。到底手に入るはずのない、上品なレースのドレスを纏っていることに。声色も、鈴の音のように澄んでいる。
まさか、そんなはずがない。否定する思いとは裏腹に、心臓が嫌な音を立てはじめる。
「気がついたかしら。そこに鏡があるから、見てみたら?」
少女に促され、グレーテは恐る恐るベッドから抜け出して鏡台の前に立った。
そこに映ったのは、まぎれもなく街で出会ったあの令嬢だった。金色の髪、整った顔、ほっそりと伸びる首に豪奢なドレス。薄い灰色の目を真ん丸に見開いて、こちらを見つめている。
「どうして?」
グレーテは呆然と、「グレーテ」と名乗った赤髪の少女を仰ぎ見る。彼女は唇の端を持ち上げた。
「そういえば自己紹介がまだだったわね。ふふっ、はじめましてグレーテ。私はユリアナ。肉体の簒奪者にして、魂の支配者。あなたの主人、十字路の魔女よ」
✯✯✯
魔女。それは悪魔と契約し、人智を超えた力を手に入れた人間の呼称である。善行を否定し、悪行を奨励する神の敵にして、罪深き永遠の咎人。この国では古くから、広く信じられ、恐れられている存在だ。
「訳が分からないって顔ね」
声も出ないグレーテを後目に、ユリアナはゆるりと足を組み替えた。
グレーテは、自分そっくりの身体が目の前で動いている様を、信じられない気持ちで眺めていた。いや、それだけじゃない。さっき見たものが正しければ、自分の肉体はすっかり変わってしまっているはずなのに、痛みどころか違和感すらない。まるでずっと前から自分のものであったかのように──。今さらながら寒気がして、声が震える。
「いったい、わたしに何をしたの」
「ふん、見て分からない? 貴女と私の体を入れ替えたの」
「入れ替えた? そんな馬鹿な! どうやって」
「魔女の能力よ。路地裏でキスをしたでしょう? 私はキスをすることで、相手の体と自分の体を交換することができるの。うふふ、貴女ったら、ちょっと声をかけただけでのこのこ着いてきて。そんなに私は魅力的だったかしら?」
ユリアナはあからさまに嘲笑った。怒りと恥辱で、グレーテの頬がカッと熱くなる。
「ひどいわ。何でわたしなの。わたしの体、返してよ」
「嫌よ。言わなかったかしら? あなたは今日から私の下僕になったの。下僕に命令される道理はないわ。私が満足するまで返さない」
「そんなものになった覚えはないわ。いいから返して!」
グレーテは山猫のようにユリアナに飛びかかった。怒り任せの無茶な行動と思われるかもしれないが、グレーテには勝算があった。キスで入れ替わったのなら、もう一度キスをすればいい。そうすれば元に戻るはず。
わざとらしく驚いた顔の魔女を力まかせに床に押し倒し、唇を近づける。あと少しだ。
そんなグレーテのもくろみは、粉々に打ち砕かれた。
ユリアナは鼻を鳴らしてたった一言呟いただけだった。
「Merrow」
がくん、と体から力が抜けて、グレーテは魔女の上に倒れ伏した。体が鉛のように重く、指先一つ動かせない。ユリアナはゆっくりとグレーテを押し返すと、今度は自分が馬乗りになった。
「お馬鹿さんね。私に勝てるとでも?」
悔しげに歪む少女の顔を、ユリアナは正面から覗き込んだ。見せつけるように自分の唇を指でとんとんと叩く。瞳は愉悦を孕んでいる。
「貴女に出来るのは頷くことだけよ。頷いてくれないと、酷いことをするかもしれないわ」
射殺さんばかりに睨んでみても、状況は変わらない。グレーテのかたちをした魔女は、いっそ優しく見えるほど悪辣に微笑んだ。
「なってくれるわね? 私の下僕に」
✯✯✯
どうやったって勝てない。そう悟ったグレーテは、半ばやけくそになって頷いた。途端、口が開くようになる。
「分かったわ。なればいいんでしょ。なってやるわよ」
「いい子ね」
ユリアナが指を鳴らすと、全身の倦怠感が消える。グレーテは即座に魔女を押しのけて飛びすさると、胸を抑えて深呼吸を繰り返した。魔女は、出窓に腰掛けてゆったりと足を組む。
「契約成立ね。とはいえ、私もいつまでもこの冴えない体を使うつもりはないわ。そうね、七日。七日間私のために身を粉にして働くことができれば、体を返してあげてもいいわよ」
勝手に奪っておいてなんて言い草だ、と思いながらも、グレーテは条件を吟味した。
正直、魔女の言葉を心から信用することはできない。体を返すなんていうのは真っ赤な嘘で、二度と返してもらえないかもしれないし、用済みになったら無慈悲に殺されるかもしれない。けれど、だとしても今は黙って従うしかないだろう。ユリアナの力はあまりにも強大だ。それに、七日だけというのは確かに破格の条件だろう。それだけに裏がありそうで怖いけれど──。
しばらく逡巡したあと、グレーテは小さく頷いた。
「分かったわ。七日だけね。話を聞かせて。わたしは何をすればいいの」
ユリアナはふふ、と笑うと、満足気に人差し指を立てた。
「よろしい。では早速最初の指示よ。今から、私の代わりに、聖ロズロー学院に行ってきてちょうだい」
「へ?」
誰かを貶めろ、とか傷つけろ、といった残虐な指令を思い描いていたグレーテは、想像とは全く違う方向の「命令」にポカンとした。
「聖ロズロー学院って、あの? ブレシュタットの聖街にある、魔法使いしか入れないって噂の?」
「よく知ってるじゃない。その通りよ」
「何のために? 意味がわからないわ」
ユリアナはやれやれ、と首を振った。
「どうして人ってのは理由を知らないと気が済まないのかしら? まあいいわ。残念ながら、説明している暇はないの。その話はあとで聞いてちょうだい」
そこにタイミングよく、ノックの音が響いた。
✯✯✯
何事かと身構えるグレーテを後目に、ユリアナは部屋の入口に向かって声をかけた。
「いいわよ、入ってきなさい」
一拍間をおいて扉から現れたのは、若い女だった。背が高く、手足はすらりと長い。グレーテは、町学校の女教師を連想した。皺ひとつない黒のサテンドレスは、きちんと首元まで閉じられ、女を禁欲的に見せている。
その女は扉を閉めると、グレーテには見向きもせず、魔女に向かって恭しく一礼した。
「お呼びですか、ユリアナ様」
「ええ。話は聞いていたわね、シルヴィア。そういうことで、お前にはこの娘の補佐を命じるわ。私に代わってよく躾けてちょうだい」
躾けるって何だ。顔をしかめるグレーテとは対照的に、シルヴィアと呼ばれた女は眉一つ動かさずに答えた。
「承りました。お任せください」
シルヴィアはそこで初めてグレーテに相対すると、深々と腰を折った。
「はじめまして、どこぞの町娘様。わたくし、ユリアナ様に仕える侍女のシルヴィアと申します。短い間ではございますが、どうぞ宜しくお願い致します」
慇懃無礼とはまさにこのこと。グレーテは、シルヴィアの水色の瞳の奥に、面白がるような色を見てとった。
「……グレーテよ。不本意だけど、よろしくお願いするわ」
わたし、この人苦手かもしれない。グレーテはしぶしぶ頭を下げた。
「シルヴィアはあなたの世話役兼お目付け役と言ったところよ。分からないことがあれば、彼女に教えを乞いなさい」
ユリアナは澄ましてそう言った。釈然としないグレーテを後目に、シルヴィアは懐から懐中時計を取り出した。
「時間がありませんので、このまま学院へ向かうことにします。ユリアナ様、御前を下がることをお許しください」
「許可するわ。シルヴィア、後は任せたわよ」
「はい。では参りましょう、『ユリアナ』様」
シルヴィアに水を向けられて、グレーテは慌てて扉へ向かった。そうだ、今のわたしはユリアナだった。こんな魔女の名前で呼ばれるのは癪だけど、慣れなくちゃ。
「また会いましょうね、『ユリアナ』ちゃん」
嫌味ったらしく投げキッスを飛ばしてくる赤毛の魔女を部屋に残し、グレーテはシルヴィアを追いかけた。