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少女と魔女 1

 白昼の五番街は、とかく騒がしい。呼売商人の声が朗々と響き、負けじと駄馬が嘶きを上げる。荷車はガタガタと跳ねまわり、車夫は口々に悪態をつく。今、その中にひとつ、軽快な足音が加わった。


 足音の主は、痩せた赤毛の少女だ。胸の前で藤のバスケットを抱えている。ほつれたスカートの裾をひるがえし、人混みを縫うように駆けていく。


 群衆は彼女に注意を払わなかった。使い走りの少女など、この街には掃いて捨てるほどいたからだ。現に、見える範囲だけでもそこかしこに、エプロン姿の少女が立っている。


 しかし、ある影が目に留めたのは、ほかでもない()()少女だった。


 一拍の後、紅の唇が三日月形に釣りあがる。


 その影は確かにこう言った。


「見つけた」


 ✯✯✯


 正午の鐘が鳴る。アパートの階段を駆け下りたグレーテは、空になった両腕を握りしめて呟いた。


「よし、一時間も早く終わった! わたしは自由よ!」


 ここのところ朝から晩まで仕事をしていたグレーテは、あまりの忙しさに我慢出来なくなり、とうとう配達を前倒しで終わらせたのだった。明るいうちから時間が出来るのは二、三ヶ月振りのことで、グレーテの喉は猫のようにぐるぐると鳴る。


 上機嫌で歩きはじめたグレーテは、何時ものように五番街の四つ辻に差し掛かった。市場へ向かう人や荷車を避けようと、一度立ち止まる。するといきなり袖が引かれ、耳元で鈴のような声が響いた。


「ねえ、ちょっといいかしら?」


 驚いて振り返ると、すぐ後ろにとびきり可憐な少女が立っていた。年齢はグレーテと変わらないように見えるが、身長は拳一つ分は低い。髪は薄金で、腰までさらりと流れ落ちている。いかにも深窓のご令嬢といった風貌で、労働者が行き交うこの五番街ではずいぶん浮いている。


 目をぱちくりさせるグレーテの前で、令嬢は困ったように眉を下げた。


「突然ごめんなさい。私、うっかり連れの者とはぐれて、宿までの道が分からなくなってしまったの。お願い、どうか案内してくださらない?」


 この少女に頼まれて、嫌と言える人間がいるだろうか。グレーテはちらりと空を見上げた。太陽は、空高く燦々と輝いている。寄り道をする時間は十分にありそうだ。


「いいよ。わたしに分かるところだったら」


「本当? ありがとう、助かるわ」


 令嬢は、そう言ってグレーテにすり寄ると、ひときわ目立つ白亜の楼閣──ブレシュタット大聖堂を指差した。街の西端に建つその塔が、宿からはもっと大きく見えたのだ、と。


 グレーテには、思い当たる宿が二、三軒あった。どれもこの街の最高級で、西端の一番街にある。彼女の身なりからしても、その中のどれかで間違いないだろう。


 素直に道を教えようとしたグレーテだったが、すんでのところで思いとどまった。よく考えれば、これはチャンスではないだろうか。このまま令嬢を連れていけば、彼女のお付きの人から何か貰えるかもしれない。例えばそう、「心ばかりの」謝礼だとかが。


 親切心と、ほんの少しばかりの打算を胸に、グレーテは令嬢を宿まで送ることにした。


 ✯✯✯


 賑やかな表通りを、晩夏の風が通り抜けていく。


 道すがら、グレーテは隣りを歩く令嬢を盗み見た。


 彼女は完璧だった。靴は柔らかそうな皮製で、傷一つない。レースをあしらったグレーのドレスの上から、下町ではちょっと見られないような上等なマントを羽織っている。蜂蜜のように艶やかな髪、大理石のようにすべらかな肌。彼女が動くたびにふんわりと花の香りが広がり、たまらない気持ちになる。


 それに比べて、とグレーテは首をすくめた。癖の強い赤茶色の髪は、どうやってもまとまらないから諦めて三つ編みにしている。古着屋で買ったワンピースは、毎日洗濯するせいで色落ちして毛羽立っている。バター色の肌に染み付いているのは、せいぜいが小麦粉の匂いだろう。


 こっそり前髪を撫でつけるグレーテの横で、令嬢は楽しげに街を見回していた。


「いい街ね。美しくて、活気があって」


 そうだろうか? グレーテは歩きながら辺りを見渡してみた。


 ちょうど大通りから小路に入ったところだった。馬車一台がやっと通れる幅の道は、すり減った平石で舗装されている。両脇には木造の家屋が隙間なく並び、上階の四角い窓から、煤で頬を汚した少年が身を乗りだしている。飲み屋の軒下では、酔っ払った親父がくだを巻き、肉屋の店先では、野良犬と太った婦人が肉を奪い合っている。小路を抜けた先、幾千もの屋根の向こうには、街の象徴たる大聖堂が尖塔を天に突き刺すようにそびえ立っている。


 まるで普段と変わらない光景だった。欠伸がでそうな平日の午後。最初は新鮮だった街並みも、見慣れてしまえば何ということはない。


「もしかして、ブレシュタットは初めて?」


 グレーテがそう聞くと、令嬢は頷いた。


「ええ、今朝着いたばかりなの。貴女はこの街の生まれなのかしら」


「まさか。わたしはもっと田舎の出身。今はマダム・ベッカーの店に住み込んで働いているの」


「あら、そうだったの。ずいぶん馴染んでいるようだけれど、ブレシュタットにはいつから?」


「10歳のときから。今年で13だから、もうすぐ住んで3年だよ」


 グレーテがそう答えると、令嬢は「まあ!」と目を見開いた。


「偶然ね、私も今年で13よ。でも、貴女はずっと年上に見えるわ。どうしてそんなに大人びているの? ブレシュタットに住めば私も貴女のようになれるかしら?」


 じっと見つめられて、グレーテは頬が熱くなるのを感じた。変に落ち着かず、そっぽを向いて言葉を紡ぐ。


「あなたがわたしみたいになる必要はないと思うけど」


 ちら、と見ると、令嬢はにこにこと笑っている。気恥ずかさに耐えかねて、グレーテは話題を変えた。


「そういえば、どうして家の人とはぐれちゃったの? 気をつけないとダメだよ。ここは比較的安全な地区だけど、場所によっては本当に危ないんだから」


 すると、彼女は不思議そうに、


「あら、あなただって一人で歩いていたじゃない」と答えた。


「わたしはいいの、この辺のことは知ってるし、もしもの時は逃げられるから。でもあなたは違うでしょ。知らない街で一人になるなんて、自殺行為だよ」


 グレーテがそう言って眉を釣り上げると、彼女はまばたきをしてから、パッと花が咲くように微笑んだ。


「心配してくれたのね。でも大丈夫、私はとても運がいいのよ。現にほら、こうして無事だったし、貴女という素敵なお友達とも出会えたでしょう?」


 パチンとウインクを送られ、グレーテは今度こそ赤面して俯いた。友達。わたしと、こんなに綺麗なお嬢様が。嬉しさと気恥しさで、なかなか顔が上げられない。


 彼女がようやく前を向いたころには、一番街までもう一区画のところまで来ていた。そろそろ、目的の宿が見えてくる頃だ。そう伝えると、令嬢は頷いた。


 このあたりからは、人影もまばらになってくる。グレーテは急に不安を覚えた。何故だろう、どんどん安全な地区に近づいているはずなのに。


 そのとき、突然令嬢が声を上げた。


「あっ! ねえ、ちょっと来てちょうだい」


 令嬢はグレーテの腕をむんずと掴み、ぐいぐいと細い路地へ引っ張った。グレーテは戸惑いながらも後に付いていく。


「急にどうしたの? 何かあった?」


「いいから、早くこっちに来て」


 二つ三つ角を曲がり、誰もいない路地裏まで来たところで、彼女は急に立ち止まった。


「もう大丈夫よ。さあ、こっちを向いて」


 言われるがまま、グレーテは壁を背に立った。いったいどうしたって言うんだろう? 不審に思った次の瞬間だった。


 ドン!と胸に衝撃が走った。


「んんっ!?」


 壁に向かって突き飛ばされたと気がついたのは、彼女の柔らかい唇が、グレーテの唇にしっとりと重なってからのことだった。


 大きく目を見開く。次の瞬間、猛烈な立ちくらみに襲われた。


 体の芯を無理矢理くり抜かれるような感覚。合わせた唇から、拷問のような熱が流れ込んでくる。ひどい耳鳴りと共に、目の前が激しく明滅し始めた。頭は鉄のように重く、ぐらんぐらんと揺れる。


 手足の感覚がなくなる。肺がねじれて、心臓が軋む。助けて、お父さん、お母さん。熱い。熱い。熱い。もうダメだ──


 意識が飛ぶ寸前、グレーテの視界にうつったのは、三日月のように唇を吊り上げた赤毛の女だった。

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