二重戦線
「うっ……、あぅ……」
資料を捲る以外の音が消えた実験施設に、ページを捲るシア以外の人影があった。
その人影は、ふらふらとおぼつかない足取りで歩き、壁に手をついて何とか立っている状態だ。顔色も悪く、息も荒い。今の彼女を見て笑っていられる者がいるのなら、それは極度の加虐趣味の人間か、心が壊れた人間だ。
「あら、何の用ですか? 弥那さん」
そして、そんな存在がここにいた。
ぱたんっと本を閉じると、シアはニコニコと機嫌よさそうに満身創痍の少女――弥那を迎えた。
シアの施した拘束が解けている。つまり、シズルが施した瘴気の封印も解けている。弥那は気合だけで瘴気の侵食に耐えている。シアは楽しそうに、それでいて嬉しそうに、舐めるように弥那を観察していた。
弥那はそんなシアを睨み付けた。
「し、シア……。弥那は、弥那は、……。シアを殺しに来ました。グートとノルイも殺して、真犯人を殺します。それがシズくんを助ける一番いい方法です。みんなみんな殺しちゃえば! そのうちの誰かが犯人です! ええ、ええっ! もう誰が犯人かなんてどうでもいいんです! 弥那は、弥那は……ッ! シズくんを追い詰める全部を壊します! 弥那が、弥那がシズくんを守るんだ! そのためなら、壊して壊して壊して! 全部壊します! シズくんシズくんシズくん! シズくんは弥那だけのモノだ! こんな所でわたしは立ち止まる訳にはいかないんだ!」
「弥那さん。お姉ちゃんはその考えは、とても短絡的だと思います。そんな事をしてシズルは喜ぶと思いますか? とは言っても、既に鎖を壊した以上、今更感がありますが……。お姉ちゃんは、どうして弥那さんに鎖を壊す意思が湧いたのか疑問に思います」
「知らない知らない知らないっ! 弥那は弥那のために戦うんだ! 例えシズくんに嫌われようとも、弥那はシズくんに生きていて欲しいんだ!」
弥那の叫びに呼応するように瘴気が吹き出し、部屋が瘴気に満ちていく。
急激に増した瘴気の濃度によって、ぽつり、ぽつりと魔物が顕現し始める。しかし、その魔物たちはすぐ近くの弥那に攻撃する事は無い。彼女を同胞と認識しているからだ。
バキバキと音を立てて弥那の両腕が膨張し、毛むくじゃらの異形の腕に置き換わる。目の瞳孔の形が変形し、獣のような目に変わる。
「……問いを変えましょう。このままではわたしやグート、ノルイを殺してもシズルは助かりません。あなた自身がシズルを殺しますよ?」
「そんな事はありません! シズくんは弥那に殺されなんかしない! シズくん以外を殺した後、弥那はシズくんに封じられると信じていますから!」
その叫びと共に、弥那は着物をはだけさせた。そして、枷が外れたように体が膨張し、異形の体に変化していく。
「――――――――ッ!」
施設に耳を劈く方向が轟いた。
その叫びは魔力が乗せられ、物理的な破壊力を持っていた。シアは風の結界で直撃を避けて、目の前に立ちふさがる敵を見上げた。
「……」
渦巻く瘴気の中から一体の魔物が現れる。
それは銀色の毛並みを持つ巨大な狼のような魔物であった。
艶のある毛並みには真っ黒な毛が混じっている。人の子供ほどの大きさの前足に生えた鋭い爪に撫でられれば、人体など豆腐のように真っ二つにされるだろう。
凛々しい立ち姿を汚すように黒い瘴気が周囲に満ちていく。瘴気から生まれた魔物が、逃げ道を塞ぐようにシアを取り囲んでいく。
毒蛙の魔物には及ばないが、一人で何とかできる相手ではない。しかし、シアに焦りはなかった。
魔物と化した弥那の視線を受けて顔を赤くし、眩しいものを見るように、憧憬を見つめるように、熱にうなされたように対峙した。
「ああっ、いいです弥那さん……。その本気の殺意、義弟のお嫁さんだと分かっていても、ついつい手を出したくなってしまいます……。わたしに夫が居なかったら危ないところでした。……ですが、簡単に勝てるとは思わないでくださいよ、弥那さん。わたしが貴女に負ける道理はありません。来なさい。お姉ちゃんが、お義姉ちゃんとして、しっかりと教育してあげましょう」
両手を広げて仰々しく宣言するシアに対して、弥那は殺意の咆哮で答えた。
今の弥那に心は無い。
普段の弥那であれば喜び勇む義妹宣言だが、今の弥那の意思を揺るがす言葉にはなり得ない。
今の弥那にあるのは、人間を殺すという、破壊の意思のみ。
五感が拡張され、第六感が芽生え、その得られた力は命を奪う事だけに向けられた。
魔物としての感知能力をフルに使い、獲物の位置を把握する。
一人はここに。目の前の赤い服の少女である。
一人は結界の傍に。傷を負い、追手から逃げ回っているようだ。
二人も結界の傍に。手負いの獲物を二人がかりで追い回しているようだ。
そして、|最後の一人も結界の傍に《・・・・・・・・・・》。この人物は静かに息を潜めている。
最後の一人だけは、すぐに襲いに行ける距離ではない。しかし、今の弥那にとっては、全ての人間が仕留めるべき獲物である。
獲物が結界の中に閉じ込められている今の状況は、狩人にとって理想的だ。
今この時から、結界は餌を閉じ込める檻へと変わった。
――
――――
「ぐっ……!」
振るわれたグートの剣を鎖で受け止めたシズルは、追加の鎖で攻撃した。
しかし、気が付けばグートの姿は掻き消えている。
森の中へと逃げ込んだシズルは、グートとノルイの二人を相手に大立ち回りを演じていた。
影が増える森はシズルの鎖の魔法が扱いやすい場所である。しかし、不意打ちを得意とするグートにとっても戦いやすい戦場であった。
一方で、直接戦闘と中距離からの攻撃を主とするノルイにとっては、不利な場所である。多数の遮蔽物に阻まれて狙いがつけにくく、近接戦では強化された鎖の魔法に挑まなければならない。
よって、戦いはグートを主力とし、ノルイはサポートに徹していた。
ノルイが十分に動けない場所に誘い込んだだからこそ、シズルはギリギリとところで持ち堪えていた。
「早く諦めてくれると、こちらとしては簡単なんだけどね。君も死ぬリスクを負う事は無くなる」
「はっ! そんな事をすれば死ぬような目に合わせられるのは目に見えているだろうが!」
「まぁ、否定はしないけどね」
物陰から現れたグートの攻撃をシズルは樹と樹を結ぶように張った鎖で防ぐ。
と同時にその場から離れて物陰に隠れた。その直後、先ほどまでシズルのいた場所がはじけ飛んだ。ノルイの魔剣による斬撃だった。
グートは忌々しそうに眉を顰めた。
「勘がいいね。本当に良く避ける。囮と攻撃の役割を変えてみたが、こうまで対応するとは」
「露骨過ぎるんだよ! こんなバレバレの攻撃に引っかかる訳が無い!」
「ふむ。ならば次からは改善しよう」
そう言い残すと、いつの間にかグートは姿を消していた。
魔法の行使で出来た僅かな死角に潜って、シズルの視界から逃れたのだ。
しかし、瞬間移動をしている訳ではない。
逃げ込める場所は限られているのだ。何度も何度もグートの不意打ちを見てきたシズルは、次第にグートの動きが読めるようになってきた。広範囲を攻撃できる手段を持っているシズルは、その全てを攻撃すればいい――はずだった。
シズルが攻撃を行うまでの僅かな時間に、ノルイの攻撃が割り込んだ。
シズルがその対処に追われている間にグートは距離を取るため、仕切り直しになってしまう。
そんな事が何度も何度も繰り返されていた。戦いは膠着状態に陥っていた。
シズルとグートは、それぞれ別の理由で冷や汗を流していた。
シズルは自身の体力の限界を感じていた。一人で二人を相手にしているシズルの方が、限界が近いのは自明のことだった。
一方で、グートはシズルの底力に脅威を感じていた。全員で行動していた時よりも動きが鋭く、異常な勘の良さを見せている。油断をすると足元を掬われかねない怖さがあった。
シズルは攻防の中で歯を食いしばる。
いくら火事場の馬鹿力を発揮しようとも、不利な状況であるのは変わらない。数の差は絶対である。このままでは緩やかに敗北が確定するだろう。
それでもまだシズルが諦めないのは、ただの意地だった。
自分が倒れると、弥那を治せる者がいなくなる。その恐怖が、シズルの心が折れる事を許さない。
細く頼りない可能性の糸を引いて、その先の勝利への可能性を手繰り寄なければならない。
それは、不確定要素が少ない最善手ではなく、何度も賭けに勝って手に入れる者であるとシズルは直感していた。
初めの一手は、グートが潜んでいるであろう場所に攻撃を放つ事だった。次の瞬間、飛来したノルイの斬撃が腕を引き裂き、鮮血が散った。
「……ッ!」
シズルは歯を食いしばって痛みに耐えた。
初めの賭けは、ノルイの攻撃を生身で耐えられるかという点だった。ダメージは大きいが、一発で行動不能になるのは避けられた。
次の掛けは、飛び込んでくるグートの攻撃を止められるかという点だった。シズルはノルイの攻撃をあえて受けて隙を晒し、近接戦のための迎撃魔法も構築していない。
その隙に付ケ込んでくるグートの攻撃を止めなくてはならない。
金属同士がぶつかる音が響き、火花が散る。
踏み込んできたグートの剣を、腕に巻いた鎖によってギリギリ受け止めた。
「これも止めるか……ッ!」
「もらったぁ!」
迎撃魔法を構築する代わりに組んでいた近接専用の魔法が発動し、地面からノルイに向かって鎖が伸びる。
シズルと鍔迫り合いをしているために剣での迎撃ができないノルイは、その鎖を足で踏みつぶして動きを止めた。
鎖の先に取り付けられた刃物は、ノルイの肉に到達する事なく止められた。
「やってくれるね……ッ!」
「これを止めるのか……ッ!」
鎖と剣の鍔迫り合いは終わらない。
筋力ではシズルが劣り、傷も深い。しかし、グートはシズルの腕に巻かれた鎖とその切っ先の他に、足元からの鎖も抑えなければならない。そのため、態勢が崩れて十分な力を籠められない。
グートの剣を防ぐのに必死でシズルは次の鎖を生み出せない。グートとシズルの距離が近すぎでノルイが割って入れない。
戦いは、一時的な硬直状態に陥っていた。
タイムリミットはノルイが近接戦に切り替えて参戦するまでだ。
三つ目の賭けは、ノルイが手を出せない僅かな時間にグートを仕留められるかという点だった。
一対一の強制的な近接戦。ここからは普段からの鍛錬の成果と、気合が物を言う勝負だった。そして、シズルは少なくとも気合では負けない自信があった。
「あああああああああああぁぁああああああッ!」
「ぐっ……」
ギリギリと音を立てて鎖が伸びていく。少しずつ刃物の切っ先がグートに迫っていく。
本当に僅かずつだが、シズルがグートの剣を押し込んでいく。
グートは額に玉の汗を浮かべつつ、それでも抵抗を諦めていなかった。
時間の流れがいつも以上に遅く感じる。僅かな時間の攻防であったが、シズルとグートにとってはとてつもなく長い攻防に感じられた。
二人の体感時間で言えば、とっくにノルイが参戦してきてもいいはずだった。しかし、まだ来ない。二人の感覚ほど、実際の時間は進んでいないからだ。
シズルは残りの時間がどれほどあるのか全く分からなくなっていた。今すぐにでも、ノルイに後ろから刺されるかもしれない。それを、頭の片隅で自覚していた。
鎖の刃の切っ先が、グートの肩に到達した。少しずつグートの服が赤く染まっていく。そして、グートの顔が苦痛に歪んでいく。そして、
「……どうやら、僕たちの勝ちのようだね」
シズルの背後に、魔剣を振りかぶったノルイが立っていた。




