人に棄てられし神の塔
「シズくん、シズくん。朝ですよ。朝ですよー」
青い空と、照り付ける日差し。少女の生まれ故郷であれば、畑仕事は遠慮したい空ではあった。
しかし、一面の木々の影法師と透き通るような空気が、生き物の活動効率を最大限に引き上げる環境に変えている。
そんな清涼たる森の中に、場違いな二つの人影があった。
樹木にもたれかかって眠っている少年に、東方の紅い着物を纏った黒髪の少女が話しかけていた。
少女は、年齢以上に幼く見える少年の寝顔をニコニコと見つめて、頬を軽くつついて遊ぶ。
満足した所で少女は少年を起こそうとするが、しばらく肩をゆすっても、少年は微睡の中から戻ってこない。
「起きてないですか? 起きていないんですね? 仕方ないですね。これは仕方ありませんね。仕方がないので弥那は一足先にご飯にさせていただきますっ」
カチャカチャという音が森に響く。
うたた寝をしていた少年は、目に入った日光を腕で遮った。しぱしぱと瞬きをして、夢の世界から意識を取り戻す。
そして、口を開いた。酷く低い声だった。
「……何をしてるんだ?」
「あはっ! おはようございます。見ての通り、ナニを食べようかと……、ぎゃんっ⁉」
少年は自分のズボンに手を掛けていた少女――弥那に拳骨を落とした。
一つ欠伸をして身だしなみを整える少年。
彼は軽く体を伸ばして、ぼんやりとしている意識を覚醒させた。
その間、頭を抑えて涙目になっていた弥那は口を尖らせた。
「酷いです、酷いですよ。シズくん。弥那は朝ごはんをいただこうと思っただけなのに……」
「それが飯なら、俺は”飯”の意味を辞書で調べなおさないといけなくなる」
ムッと額に皴を寄せた金髪の少年――シズルは荷物からチーズを取り出して、弥那に差し出した。弥那はかぷりとシズルの指ごと口に含む。
チーズ……ではなく、シズルの指を執拗に舐めてから口を話した弥那は、顔をしかめて呻き声を上げた。
「最後くらい新鮮なお肉が食べたかったです……。いえ、こんな辺境の地で味の好みに文句を言うのは贅沢だとは分かっているのですが……」
「……ごめん。俺が獲物を狩れなかったせいだ」
「シズくんのせいではないですよ……。あっ、いえ、悪いと思うなら、シズくんのバナナを……っ! ぎゃんっ⁉」
弥那の頭に再び拳骨が落とされた。
シズルは悔いていたが、彼が獲物を取れなかったのは必然といえた。森を抜けた先は国から禁足地に指定されており、禁足地に近づくにつれて動物の数が減っている。まるで、何かを恐れているように……。
寝起きドッキリにより仏頂面の少年と、涙目で頭を抱える少女は、旅を続けるための支度を整えて、森を抜けるために歩き出した。
じゃらりと金属が擦れる音が響く。
少女の着物の下から、縛めのように巻きつけられた鎖が覗いた。けれども、二人は気にした様子もない。
しばらく歩くと唐突に視界が開けた。すがすがしい空気が消え、荒涼とした死の味が空気に混じる。
「ようやく森を抜けましたね、シズくんっ」
「……」
笑みを湛えて振り向いた弥那が見たのは、険しい顔で先を見つめるシズルであった。
草木の生えない荒野。
昼にも関わらず赤みがさした空で、見慣れない鳥がぎゃあぎゃあとしゃがれ声で鳴いていた。
森を超えた先には、ほとんどの生き物が死に絶え、死肉を目当てに集った捕食者だけが闊歩する荒野が広がっていた。
そんな荒野の先に、深い谷が出来ているのが見えた。そして、亀裂の底から一基の塔が伸びている。
シズルの視線はその塔に釘付けになっていた。
「行こう。弥那」
「はい! どこまでもお供いたします、シズくん!」
シズルは死の気配漂う荒野に、ためらうことなく足を踏み入れた。弥那は親鳥の後をついていく雛のようにシズルに付き従った。
新暦三〇〇〇年。大国オルビシアには瘴気が満ち、魔物という名の災禍に見舞われていた。
軍部は民を守るために兵を派遣したが、被害が収束する気配は無かった。
そんな中、国は禁測地、ニュクスの塔から湧き出す瘴気が魔物の発生源だと突き止める。
人手不足に悩まされた国は塔と瘴気の秘密を解き明かした者に富と権力を約束した。しかし、塔に挑んで生きて帰った者は少なかった。僅かな生き残りも支離滅裂な証言しか残さず、塔の全容はようとして知れない――
「――だったか。確かにそれも頷ける」
「大丈夫ですか、シズくん?」
布で出来るだけ顔を覆って苦しそうに荒野を歩くシズルを、弥那は心配そうに支えていた。
塔を目指して荒野を歩くこと数日。
荒野に漂う濃密な瘴気によって、シズルの体調は日に日に悪くなっていった。鋭い目の下にはっきりとクマが残っている。
塔に挑むに値しない者は、ここで力尽きるのであろう。
しかし、それもようやく終わる。
唐突に瘴気が晴れて、青空が広がった。
二人の目の前には蒼空に向かってそびえ立つ塔と、底の見えないほどに深い谷が広がっている。
谷の中心に建造された塔からは、巨大な鎖がいくつも伸びていた。谷に括り付けられた大鎖は、塔を支えているようにも、塔を地上に押さえつけているようにも見えた。
谷を見下ろすと、やはり底が見えない。光が届かず真っ暗になっている。しかし、飛行型の魔物が群れを成して飛んでいるのは見えた。
今は気付かれていない。しかし、塔から伸びる大鎖の上に乗れば、千を超える魔物が襲ってくるだろう。
「予想通り、塔の近くに瘴気は無いみたいだ。やっぱり、住居スペースを毒で満たしておく訳がないか」
代わりに、軍隊のような魔物の守りがあるわけだが。
「弥那は安心しました。予想が外れていたら、あの人を殺しに行く所でした」
弥那は無表情のままで言った。瞳孔が開ききっている。シズルはそんな弥那に苦笑いで話しかけた。
「弥那はどうしてそんなにあの人を嫌っているんだ? オレたちを助けてくれた恩人だぞ?」
「助けてもらったのかはまだ分かりません! シズくんはあの胡散臭い人をよく信じられますね!」
「他に情報もないんだ。目の前に救いの手が垂らされれば、例えそれがどれだけうさんくさかろうが手を伸ばすしかないさ」
「それは弥那も納得しています……。けど、それだけじゃありません!」
「それだけじゃない?」
心当たりが無くてシズルは首を傾げた。
弥那は拳を握りしめてわなわなと肩を震わせる。そして、少し顔を赤らめながらシズルの服に縋りついた。
「あの人とシズくんが並ぶと絵になるじゃないですか! あの雰囲気は絶対にシズくんが受けです! そうに決まっています! シズくんの後ろの処女の危機です!」
「お前、そんな目で俺たちを見ていたのか⁉」
「当然です! シズくんとあの人の絡みの妄想だけでいくらでもパンが食べられます!」
「お前は俺が男に犯されて欲しいのか、欲しくないのかどっちなんだ?」
ふんすっと熱弁する弥那に、シズルは呆れ顔で文句を言った。しかし、すぐに真剣な表情で塔を見つめた。
「とはいえ、怪しいのは確かだ。頼りにしてるぞ、弥那」
「……! はい! はいっ! もちろん! もちろんですっ! 弥那はシズくんのお嫁さんです! 背中を守るのも妻の務め……っ!」
「まだ、お嫁さんじゃないからな」
「ひどい!」
心底驚いている弥那に背を向け、シズルは黙々と装備の点検を始めた。
塔に辿り着くためには、橋代わりの大鎖を通らなければならない。人間を乗せてもびくともしない大きさであるが、問題は谷を飛んでいる魔物だ。大鎖の上で襲われるのを覚悟しなければならない。
自身の防具に問題ない事を確認したシズルは、弥那に向き直る。
「準備は出来ているか?」
「弥那はいつでも準備おっけーです! シズくんの子を産む準備もおっけーです……っ!」
くねくねと怪しい動きをする弥那を一瞥したシズルは、何も言わなかった。弥那の奇行はいつもの事である。
そして、二人は塔に向けて駆けだした。