どちらでもかまわない
「くそがっ……! こいつを使う事になるなんて……ッ!」
自分が使用した瘴気の煙幕から転がり出てきたシズルは、痛む喉を押さえて咳き込んだ。
煙幕の瘴気は弥那が生み出したものだ。それをシズルは保存していた。
緊急時に魔法を補助する影を構築するために用意したが、弥那の体を犯している物質なんて使いたくなはかった。
二人を相手にしては勝てないと痛感したシズルは、影の中を無差別に攻撃するように鎖の術式を組みあげた。それを確認した後、傷を押さえながらよろよろと森の中に逃れようとした。
すぐ近くにはグートとノルイがいる。すぐにでもこの場を離れなければならない。
しかし、何処へ?
瘴気の実験場や周囲の森は、シズルたちが張った結界によって閉じられている。複数の施設を覆えるほどの広さがあるとは言え、逃げる側に不利である。怪我を負ったシズルが、結界の魔力が尽きるまで逃げ切れるとは考えにくかった。
「……ッ! 弱気になるな! 逃げる必要はない! 真犯人を見つければいいだけの話だろう……!」
シズルは逃げ腰になる思考を、頬を叩いて打ち消した。
そして、ふと足を止める。今の自分の考えに引っかかりを感じたからだ。
「犯人が結界内で事件を起こした理由は何だ……?」
結構な広さがあるとはいえ、結界内は密室である。この広大な密室で事件を起こさなければなかった理由があるはずだ。
しかし、シズルは首を振って思考を打ち切った。
「ちがう……! 今重要なのはそこじゃない……! 犯人はこの密室で隠れ続ける自信があるんだ……! つまり、犯人は普通なら探さない場所にいる……!」
結界から抜け出したり、完璧な潜伏を可能としたりといった未知の魔法の存在は考えない。もしもそうであれば、今のシズルにはどうにもできないからだ。
しかし、もしもそうでないならば、犯人が隠れていそうな場所の候補はいくつかある。
シズルは候補の一つに向かおうとして――その瞬間、背中を切り付けられた。
「ぐっ、グートぉ……!」
「ここで君を逃がす訳にはいかない……!」
前触れもなく振るわれた剣がシズルの背中を切り裂き、血が噴き出した。
足音もない接近、背後からの攻撃。とても真っ当な騎士の行う攻撃だとは思えなかった。しかし、踏み込みが浅かったのか、傷は浅い。
「おぉおオオオォ……ッ!」
シズルは拳を握ってグートに殴りかかった。
グートは手に持った剣を振って、シズルを迎撃しようとした。それを感じたシズルは、思いっきり地面を蹴って、さらに速度を上げた。
「な……っ⁉」
シズルのやったことは、無防備にグートの剣に身を晒す事と同義だった。
グートに一発、入れられるようになるかもしれない。しかし、彼の剣を避ける事はできない。
そして、グートは剣を止めた。
情報を引き出すため、シズルを生きて捕らえる必要があったからだ。
シズルは壮絶に顔を歪めてグートの顔面に殴りかかった。
流石に一行の前衛を担っていると言うべきか、殴られながらもグートはシズルの腕を掴んで反撃の準備を終えていた。
「あぁああアアァア……ッ!」
しかし、態勢を崩された事には変わらない。
グートがシズルを投げ飛ばす前に、シズルの渾身の蹴りが、グートを瘴気の煙幕の中に叩き込んだ。
「ぐっ!」
グートは瘴気を大量に取り込んで、吐血した。
さらにシズルの無差別攻撃が瘴気の中に叩き込まれていく。グートは冷や汗を拭いながら呟いた。
「……これはマズいね」
グートの剣が鎖を弾く。
所詮、狙いの甘い、意思のない攻撃だ。決定打にはならない。けれどもそれは、軌道が読みづらい事に他ならなかった。
グートはシズルを追うのを諦め、鎖に意識を集中させた。
「……これは、ちょっと追いかける余裕はないかな……」
シズルはグートの想像よりも強敵であった。殺さないように手加減しながら捕縛するのは不可能だ。
「次は殺すつもりで戦おうか……!」
グートは目を細め、シズルのいるであろう方向を睨み付けていた。
――
――――
「んー! んー! シア、シア! この縄を解いてください! 弥那は逃げませんので!」
「ダメですよ。弥那さんが逃げない訳がありません」
シズルやグートとノルイが交戦していた頃、弥那とシアは施設の資料庫で過ごしていた。
資料庫の本を読んでいたシアは、床で簀巻きにされて転がっている弥那をジト目で見つめた。
人質である弥那は、いつまでもシアが押さえつけている訳にもいかず、持ち物検査をしてから縛り上げられていた。
弥那は膨れっ面でシアを見ながら、何とか縄から逃れようともぞもぞと動こうとしている。
しかし、的確に関節を封じられているため、力が入らない。
さらに言えば、シズルの封印の上からシアの封印が重ね掛けされているため、体を瘴気で強化するのは難しかった。
「シアはシズくんを信じていないのですか! 義理でも姉弟なんでしょう⁉」
「うるさいですね……。本の内容が頭に入って来ないじゃないですか」
「シア!」
面倒そうに顔をしかめたシアを、弥那は睨み付けた。
シアはしばらく弥那の話に付き合う事にした。その方が、最終的に面倒は避けられると判断したからだ。
「私もシズルが犯人じゃないと信じたいですよ。でも、状況証拠がそれを許しません。あまりにもシズルは怪しすぎます」
「それでも信じるのが家族じゃないんですか!」
「……そうできるのが理想なんでしょうね」
シアは少し悲しそうに微笑んだ。
勢いよく食って掛かろうとした弥那は思わず口をつぐんでしまった。
「じゃあ……、じゃあ、なんでシズくんを信じてあげないんですか! そんなに悲しい顔をするくらいなら、信じてくださいよ!」
「例え家族といえども、無条件に人を信じられるほどわたしは子供にはなれません。……しかし弥那さんは少し勘違いをしています。私はシズルが犯人だろうと、犯人ではなかろうと、どちらでも構わないと思っています」
「どちらでも構わない……?」
シアは両手を広げて弥那に語り掛けていく。
「ええ、わたしはシズルが捕まるとは思っていません。これでもシズルの強さを買っているんですよ? グートさんとノルイさんでは、絶対にシズルに勝てません。少なくとも、生け捕りにしようなんて甘い事を考えているうちは無理でしょう」
まるで、それが当然の事のように仰々しく話すシアの気迫に押されて、シアは一瞬口ごもってしまった。しかし、すぐに勢いを取り戻して言葉でシアに噛みついた。
「何故そう言い切れるんですか! シズくんはあんなに傷ついていたのに!」
「逆に、弥那さんはどうしてシズルが勝てないと思っているんですか? あなたはシズルに助けを求めませんでした。自分の身の安全よりもシズルの安全を取ったのです。それほどまでにシズルを想っていながら、なぜシズルが勝つと考えないんです? それほどまでにシズルを想っていながら!」
「い、意味が分かりません……! だって、わたしのシズくんへの想いと、シズくんの強さには何の因果関係もありません……!」
弥那はいやいやと子供のように首を振ってシアの言葉を認めようとしなかった。シアはため息を吐いて本に視線を戻した。急速に弥那への興味を失ったようだった。
「……ダメですね。わたしの見込み違いでした。価値観が違いすぎてわたし達は分かり合えません。何を話しても時間の無駄でしょう。わたしは調べモノに戻るので邪魔しないで下さい。瘴気について理解が進めば、シズルが犯人ではない証拠も出てくるかもしれませんから」
「……」
「安心していいですよ。シズルが犯人なら、逃げおおせるでしょう。犯人でないなら、真犯人を見つけてきますよ」
シアはそれだけ言うと、資料に視線を落とした。
弥那は黙り込んだまま、弥那を睨み付けた。
シアに文句を言いたい気持ちが強かったが、彼女の邪魔をしてシズルの容疑を晴らす可能性を潰す方が、弥那にとっては恐ろしい事だった。
部屋に書物のページを捲る音が響く。
弥那は出来るだけシアの邪魔をしないように息を潜めていたが、やはり、じっと結果を待っているのは歯がゆかった。
よって、弥那はシアを説得するのを諦め、力づくでシズルを助けに行くと決めた。
弥那は、資料のページを捲るシアをじっと観察した。調べ物を進めるシアは、時々、弥那に視線を向けるだけで、意識のほとんどを資料に向けていた。
それを確認した弥那は、シアに気付かれないように口から黒い結晶を吐き出した。弥那の体の中で生成される瘴気の結晶である。
弥那は人の指程の結晶を歯で固定し、シアの目を盗んで地面に擦りつけて削り始めた。
シアが資料を探して騒がしい間くらいしか音を隠せないため、作業は遅々として進まない。結晶に強い衝撃を与えてしまうと一気に気化してしまう。また、気を抜けば体に巻かれた鎖が擦れて音が鳴りそうだ。
焦燥感に駆られながら作業を終わらせた頃には、塔の中の太陽が沈みかけていた。
「……」
弥那は先の尖った結晶を咥えて、まずは肩の関節を押さえているロープを解こうと慎重に切れ込みを入れた。
その瞬間、勢いよくロープが解けてしまった。
シアの背筋が凍りつく。静かにロープを切るつもりが、派手に解けてしまった。確実にシアに気付かれただろう。
即座にシアを倒す事に決めた弥那は、シアに襲い掛かろうと力を込めるが、――体がピクリとも動けない。
「なっ、何で――」
「それはですね。ロープはただのブラフだったからですよ」
瞬間、弥那は腹に衝撃を受けて吹き飛んだ。
シアは弥那を蹴り転がして仰向けに寝かせると、弥那の腹を踏みにじる。
「ッあ……」
「大人しくして下さい。時間の無駄です」
弥那は、血の混じる咳きをしながら、自分を見下ろすシアを睨み付けた。
シアは、弥那が反抗的な態度に出る度に足に力を込めて、的確に内蔵を圧迫した。
その度に体に激痛が走るが、それでも弥那はシアを睨み付けるのを止めない。
謎の拘束を振り払う手掛かりと、シアの喉元を食い千切る機会を見逃すわけにはいかないからだ。
「……目から希望の色が消えませんね。甥の顔が見られなくなるのは残念ですが、試しに子宮を潰してみましょうか? 資料を読んでいる途中に、瘴気の回復を無効化する魔法理論を思いついたんですよ。まだ仮説なので、是非とも実験してみたいのですが」
「やってみろ! 子を成せない程度でシズくんの愛は変わりません!」
「……まぁ。予想通りの反応でしょうか。少々心が痛むので伝えたくはないんですが、これはどうでしょう」
シアはおもむろに弥那の髪を掴み、無理矢理持ち上げると、彼女の耳元で囁いた。
「種明かしです。弥那さんを拘束しているのはわたしの魔法です。シズルの鎖に追加の魔法を刻みました。余計な術式が入ったため、鎖の魔法の完成度は低くなっています。今なら全力を出せば千切れるかもしれませんね? あぁ、間違えました。全力ではなく、少し抵抗しただけで壊れてしまうかもしれません」
「――――……」
弥那の心の中で、何かが砕ける音がした。
弥那は顔面蒼白になり、抵抗を止めて脱力してしまう。シアが弥那の髪は離すと、弥那は受け身も取らずに地面に倒れた。弥那は息苦しそうに過呼吸を繰り返すだけで、何の動きも見せなかった。
シアはどこか試すような目で、弥那を見下ろした。
「ええ。壊せる訳がありませんよね。だってシズルの魔法を外してあなたが生きていられるはずがありませんから。瘴気は人間にとっては毒ですが、相性がいい人間も存在します。いえ、相性が一段と悪いと言うべきでしょうか? そういった人たちが瘴気を取り込むと、体が異形化し、理性が壊れ、感情が壊れ、記憶が壊れ、やがては完全な魔物になってしまう。シズルの事を全て忘れ、シズルを殺そうと襲い掛かり、魔物になった自分をシズルに殺させる覚悟があるのなら、瘴気の症状を抑えているその鎖を破壊すればいい。ねぇ、簡単な事でしょう? ちょっと力を込めるだけで、わたしを殺して、グートを殺してノルイを殺して、犯人を殺してシズルを救う事ができますよ? できる事は全部やってみてくださいよ。あなたのシズルへの想いはこの程度の苦難で折れるようなものですか? 鎖を破壊するか、破壊しないか。わたしはどちらでも構いませんよ」
「……なんで」
弥那はぽつりとつぶやいて、それっきり黙り込んでしまった。
なんでこんな事ができるのか。なんでここまで弥那の行動を先読みできるのか。そのたもろもろの感情が入り混じった言葉だった。
シアにはその質問の正確な意味は分からなかった。しかし、言葉は自然に紡がれた。
「それが分からないから、あなたは警戒するべき人を間違えたんですよ」
シアはそれだけ言い捨てて、資料の調査に戻っていった。
まるで何事もなかったかのように。




