二度目の異変
「危なかったな……」
一行は資料庫に飛び込んで難を逃れていた。
全員、息を切らして冷や汗を流している。
グートの手には瘴気に関する資料が握られ、部屋の入り口は透明な障壁によって閉じられていた。
シアの障壁をたやすく破った魔物の毒だったが、建物の障壁は破る事が出来なかった。
しかし、部屋の外は高濃度の瘴気で満たされ、真っ黒に染まっている。
「これは出られそうにないね。どうする? 瘴気が薄まるのを待つ?」
「それは難しいでしょうね……。いずれこの部屋にも魔物が湧いて出ますよ……」
人差し指を立てて提案したノルイに対して、セリが難しそうに言った。
蛙型の魔物を生み出すために多量の瘴気を消費したためか、魔物を生み出すシステムが機能している様子は無かった。
しかし、蛙型の魔物が倒された今は別だ。
その瘴気を利用して、次の魔物が生み出される可能性がある。
意見を否定されたノルイは頬を膨らませた。
「じゃあ、どうしろって言うんだよ」
「そうですね……。瘴気を散らしましょうか。シアさん。風の魔法をお願いできますか?」
期待の籠った視線がシアに集った。
しかし、シアは申し訳なさそうに首を左右に振る。
「ごめんなさい……。さっきの戦いでもう魔力がありません……」
「……。では、瘴気の中を強行突破しかありませんね……」
全員が驚きに目を見開いた。
外の瘴気の濃度は致死量に達している。解毒薬を飲んだところで焼け石に水だ。無効化はできない。
「無理です! 無理ですよ! こんなに濃い瘴気を吸ってしまえば、死んでしまいます! 中で動けるのは弥那と、弥那が人工呼吸をするシズくんだけです!」
「いや、俺も動けないからな? 人前でキスするのは恥ずかしいし」
「酷い!」
一人で騒いでいる弥那を無視し、セリは自分の雑嚢から小さなカプセル状の機器を取り出した。それを全員に配っていく。
「これは……?」
セリから機器を受け取ったグートは、首を傾げた。カプセルには魔法陣が刻まれており、何らかの魔道具であることが伺える。
受け取ったモノの正体を知る者がいないため、全員が困惑していた。
「咥えている間、吸い込んだ空気を浄化できます。私とアーロインが荒野を超えるのに使いました」
シズルはグートやノルイ、シアの反応に首を傾げた。
グートたちが荒野を抜ける手段を知らないという事は、セリとアーロインが荒野を抜けた時、護衛のはずのグートたちは別行動をしていたという事になる。
そんな事が起こりうるのだろうか?
シズルの疑問に気が付いたのか、シアがシズルに耳打ちした。
「お姉ちゃんたちは現地集合だったんですよ。瘴気に自力で対処できる能力があるか調べたかったらしいです」
「塔までたどり着けない者は門前払いという事か」
魔道具に頼りっきりでは危険だ。何かの拍子に魔道具が使えなくなった時、自力で瘴気に対処できる人材が欲しいと思うのは当然であろう。
セリの魔道具は、解毒剤を飲みながら瘴気の満ちる荒野を踏破したシズルよりもよっぽどスマートな突破法である。
魔道具を使えば瘴気を突破できる。しかし、まだ問題は残っている。
「例え呼吸が出来ても、突破するのは無理じゃないかい? この濃い瘴気の中で魔物に襲われるのはおもしろくない話だね」
「……大丈夫です。これだけ瘴気が満ちているのに、外に魔物が生まれている気配はありません。おそらく、事故か何かで規定量以上の瘴気が漏れた時に魔物が生まれないようにする仕組みがあるんでしょう。たぶん」
セリの言葉に一行は難しい顔をした。
彼女の仮説を裏付ける証拠はない。しかし、魔物が生まれていないのは事実であるし、このまま留まれば危険なのも事実だ。
手持ちの情報は少なく、仮説が正しいと確信を持てない。それでも、何か行動しなければならない。
悩んだ末に、一行は瘴気を突破する事を決めた。
「瘴気を浄化するとは言いましたが、この濃さでは長くはもちません。瘴気を吸ってしまった時のために解毒薬を飲んでおいてください。気休めですが、即死は避けられるはずです。弥那さんは瘴気の中でどれぐらい自由に動けますか?」
「瘴気を吸っても何ともないですけど、瘴気が濃すぎて周りが見えません……。それに、キスする時くらい近づかないと何も見えません。……しばらくシズくんの顔が見えなくなると思うと寂しくなってきました。キスしてもいいですかシズくん」
「つまり、近くならば見える訳ですね?」
弥那はこっくりと頷いた。その後、シズルに甘えようと駆け寄った。
抱き着こうとする弥那をシズルが押しとどめ、弥那はシズルに届かない手足をバタバタと動かしている。
セリは、シズルに抱き着こうとする弥那と、抱き着かれまいとするシズルを無視して自分の雑嚢を漁り始めた。そして、中から一本のロープを取り出した。
「弥那さんに先導してもらって、瘴気を抜けます。はぐれないように注意してください」
――
――――
ロープを掴んだ一行は、ゆっくりと瘴気の中を歩いていた。
濃すぎる瘴気が目に染みてとても目を開けていられない。次々に涙が溢れてくる。
一行の中で、対策もなく目を開けていられるのは弥那だけである。
その弥那にしても、濃い霧の中を歩いているように視界を閉ざされている。後ろに付いてきているはずの仲間の姿は見えない。
シズルは瘴気の霧の中にひとりぼっちでいるような錯覚に襲われた。
自分が一人ではないという証明は、ロープから伝わる重さだけ。その重さだけが、自分が一人ではないという実感を与えてくれる。
「もう少し進んで右です」
一行は弥那の声を耳にした。
しかし、瘴気を吸い込むわけにはいかず、返事をする事もできない。
一行の歩みは非常にゆっくりとしたものである。
視界を奪われた状態では、普段通りに動けない。しかし、時間をかけ過ぎると魔物の群れが湧きだしてしまうかもしれない。
正確な制限時間が分からない中、ゆっくりとしか動けない。焦燥感がじわじわと正気を削っていく。
「次は左です」
弥那の声が随分と遠くから聞こえた気がした。
セリから受け取った魔道具では完全に瘴気を無効化しきれないのか、少しずつ気分が悪くなっていく。
解毒薬を併用しておいて本当に良かったとシズルは安堵した。
万が一にでも魔物が襲ってもいいように周囲を警戒しながら一行は進む。
しかし、瘴気によって体調がじわじわと悪くなっているため、集中力が持たない。
時間の感覚が少しずつ失われていく。
一行の足取りはふらつき、今にも倒れてしまいそうだ。しかし、ギリギリの所で踏みとどまっている。
「後は真っすぐ進むだけです。急ぎましょう」
シズルは弥那の言葉で意識を覚醒させた。
気が付かないうちに眠りかけていた。意識がはっきりとしたことで、忘れかけていた吐き気が戻る。
口元を腕で拭い、垂れた唾液を拭き取った。
一行の足の進みが早くなった。
道は一直線なのだから当然であろう。
足を進めるほどに少しずつだが呼吸が楽になってくる。瘴気が薄くなってきているようだ。
弥那以外のメンバーも出口が近いと実感できたようだ。
次第に駆け足になっていく。
そして、一行は瘴気を抜けた。
「ぷはっ! 死ぬかと思った! でも生きてる! 気持ちいい!」
「できるなら二度とやりたくないね……」
「め、目が開けられません……」
ノルイやグートは深呼吸を繰り返して新鮮な空気を肺に取り込んでいる。シアは目元をぐしぐしと擦って視力を回復させようとしているようだ。
シズルも彼らに倣って体調を整えようとするが、その前に柔らかい衝撃を感じて地面に倒れた。
「シズくん! 大丈夫ですか⁉ 弥那が治療してあげます!」
「ちょ、まて、んん……っ⁉」
馬乗りになられた上で、唇を奪われた。
柔らかい感覚と共に、苦く冷たい液体が喉に流し込まれた。解毒薬だ。
すぐに薬を喉に流し込み終わる。それが終わっても咥内に舌を入れようとする弥那を引き剥がし、シズルはよろよろと起き上がる。
口元から溢れた解毒薬を腕で拭う。
「けほっ……、ありがとう……。でも、いきなりは止めてくれ……」
「分かりましたシズくん! 続いて人工呼吸はいりますか? いるはずですよね! いるはずです! さぁ、弥那とキスしましょう!」
「いらない」
「人工呼吸はいりますか? いるはずですよね! いるはずです! さぁ、弥那とキスしましょう!」
「いらない」
「酷い! 二回も言った! 二回もいらないって言ったぁ!」
めそめそと泣きまねをする弥那を放置して、シズルは目元の涙の跡を拭った。
何度か涙を拭い、目を開けたり閉じたりを繰り返すうちに少しずつ視界が戻っていく。
そして、気が付いた。弥那以外の顔色が悪い。
初めは瘴気の影響で体調が優れないのだと思った。しかし、シズルはすぐにそれが間違いだと気が付いた。
セリの姿が見当たらないのだ。
誰もその事を口にしようとしない。皆、嫌な予感に囚われているようだった。
弥那が空気を読まずにシズルの腕を取って擦り寄っている。弥那だけがこの異常に気が付いていない。
弥那が囁く声が頭に入って来ない。シズルは、全てが遠くの世界の出来事のように感じた。
「セ、セリはどこに行ったんだ……?」
「……分からない」
深刻なシズルとグートの声を聞いて、ようやく弥那は異常に気が付いたようだった。
弥那はきょろきょろと周りを見渡した。ようやく、セリがいない事を確認して顔色が悪くなっていく。
「み、弥那が戻って見てきましょうか……?」
「うん。是非とも頼みたい。僕たちではこの瘴気の中で自由に動けないからね。シズルさんもそれでいいかい?」
「……弥那が行くなら、俺も行く」
「いや、シズルは止めておいた方がいい」
シズルはグートを据わった目で睨み付けた。
シズルは、目に殺意が宿らないように注意しながら口を開いた。
「何故だ」
「セリさんから受け取った魔道具を見てほしい」
「……」
シズルは預かった魔道具に目を落とした。
魔道具は変色し、真っ黒に染まっていた。
シズルは嫌な予感がして頭を掻きむしった。
「おそらく、瘴気が強すぎて魔道具が壊れかけているんだろうね。この状態で使うのは危険だよ」
「そんな事は見ればわかる……!」
シズルはイライラとしながら舌打ちをした。
弥那が歯噛みするシズルの手を握る。弥那は何も言わずにシズルを見つめていた。
シズルは深呼吸をして怒りを飲み込んだ。
魔道具が使えなくても弥那と共に行く。シズルがそう発言する前に、シアが引きつった声を出した。
「……。悠長に話している時間はなさそうですよ……?」
シアの指さした方向に視線を向けると、瘴気が溜まった通路からゆっくりと魔物が姿を現すのが見えた。
さらに瘴気が揺らめき、後続の魔物まで現れようとしていた。
一行は顔を引きつらせた。
資料室で魔物が出現した時よりも、通路を満たす瘴気は濃い。
今の状態で生み出される魔物の強さや数がどうなるかなんて、考えたくもなかった。
グートは呻き声を上げて決断を下した。
「……撤退だ。いったんここから離脱しよう」
「賛成」
一行は苦い顔をしながら撤退を始めた。
ノルイが魔剣の斬撃を飛ばしてこちらに気付いている魔物の首を刎ねる。
一行は他の魔物が生まれる前に撤退する事に成功した。
しかし、施設を脱出した一行の顔色は優れなかった。
――
――――
「――――……。これは……」
施設内の魔物が全て消えるまでに幾らかの時間を要した。
その間、施設の外にいた一行には、セリがどうなったかを思考する十分な時間があった。
瘴気の中では誰がどんな行動をしているのか分からない。
視界さえ確保できれば誰にも気が付かれずにセリを攫う事は可能かもしれない。
”何者か”が瘴気の中でセリを襲っても気が付かない。
しかし、それでは全員を襲わない理由が分からない。一行を一網打尽にする絶好の機会だったはずだ。
ゆえに、セリは何かの拍子にロープから手を離してしまい、はぐれてしまったと一行は考えた。考えようとした。
はぐれてしまっただけならば、運よく近くの部屋に入って瘴気や魔物の群れをやり過ごせば生き残る可能性が残る。
一行が魔物の消えた施設に戻ってセリの捜索を始めるのも当然と言えた。
しかし、その努力も無駄になってしまった。
鍵が開いていたとある部屋からは濃密な血の臭いが漂っている。
『今すぐ塔から立ち去れ。これは警告である』
壁には赤黒い血で書かれた一行へのメッセージが残されていた。
セリは俯いたまま、メッセージが書かれた壁に寄りかかっていた。
「セリさん……」
シアの絞り出すような声が部屋に響いた。
しかし、答える声は無い。
何故なら、セリは既に返事を返せる状態にはないからだ。
セリの体の至る所には穴が開き、おびただしい量の血が床に広がっていた。
五人は赤く染まった部屋の前で、茫然と立ち尽くす事しかできなかった。




