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殺意振りまく毒蛙吹

 初めの異常は物音であった。

 蛙型の魔物は一瞬だけ足を止め、思案する。

 “主の命”は、建物内の生き物全ての排除であった。

 命令に従うのは不快である。しかし、魔物の本能は生き物を殺せと叫んでいる。命令と本能の利害が一致したため、魔物に止まる理由は無かった。

 ゲゲゲっと、くぐもった笑みを浮かべて魔物は物音に向けて動き始めた。口元からは粘液が溢れ、魔物が進んだ後には高粘度の体液が続いていた。

 地面に残った体液は瘴気となって蒸発し、一帯を魔物のための領域に塗りつぶしていく。


 生き物を殺す。

 生まれて初めての本能の解放。魔物の感情は天井知らずに昂っていく。

 何故なら、蛙型の魔物は生き物を殺すことに快感を見出す生き物だからだ。魔物はそう”作られた”。

 蛙型の魔物は昂っていた。しかし、命令される度に、咎めるような不快感が水を差す。


 殺さなければならない。この命令を下す”主”を。

 その時こそ、純粋な快感に身を浸す時である。

 自分が生き残るためではなく、食べるためでもない。殺したいから殺す。

 生理的な欲は無く、純粋な殺意だけがある。


 蛙型の魔物は、生き物としては欠陥だらけであった。

 自身の生に頓着せず、子孫を残そうともしない。

 ただ殺すだけ。

 蛙型の魔物にとって、戦う事は自分の命よりも優先される事であった。

 そんな魔物に後付けされた命令という名の不純物。蛙型の魔物にとっては邪魔で邪魔で仕方がなかった。


 幸いにして、命令は建物の中の生き物の抹殺であった。『”主以外の”生き物の抹殺』ではない。

 蛙型の魔物は、建物内にいる生き物を抹殺するつもりであった。もちろん、主を含めてである。


 煩わしい命令から解放される瞬間を夢想して魔物は笑う。涎を垂らす。毒が空気に満ちる。

 魔物は物音のした方向に向かう事を躊躇しなかった。

 どんな敵が相手でも負ける気はしなかった。

 そう思い込むように”作られた”。


「……っ! 来ましたね……」


 視界に赤い人影を捕らえた。生き物である。ならば殺さなければならない。

 魔物がグゲゲと笑うと、人影は背を向けて走り出した。逃げるつもりなのだ。

 しかし、魔物に人影を逃がすつもりは無かった。

 口を膨らませて勢いよく粘液を吐き出した。

 人影は隣の通路に飛び込み、直撃を回避する。しかし――


「わわっ……!」


 壁にぶつかった粘液が飛び散った。

 粘液は瘴気に変化し、一瞬で通路を覆い尽くした。

 あまりに高い瘴気濃度に伴って、新たな魔物が顕現する。しかし、蛙型の魔物は気にも留めない。

 新たな魔物は、蛙型の魔物に触れた瞬間に息絶えた。蛙型の魔物が纏う濃い瘴気を吸収しきれず、体が崩壊したのだ。

 人影に粘液を直撃させる事は出来なかったが、その余波だけで殺しきった自信があった。

 魔物は、獲物を丸飲みにするため、死体を探して瘴気の中に吹き込んだ。


 瞬間、腹部に衝撃を感じて首を傾げた。


「げっ、効いてない……」


 視線を下に向けると、腹部に拳を叩き込んだ人影が顔を引きつらせていた。

 蛙型の魔物は無造作に腕を人影に叩きつけた。

 人影は回避行動をとったが避けきれない。蹴鞠のように宙を舞う。


「――――……ッ⁉」


 勢いよく壁に叩きつけられた人影は、何度も何度も咳き込んで、それでもふらふらと立ち上がった。

 硬質の壁に叩きつけられた人影は口から血を吐き出した。たった一回の攻撃を受けただけで満身創痍だ。それでも、人影の目からは戦意が消えていない。

 魔物は向けられる戦意を心地よく感じながら、人影に向かっていく。


 蛙型の魔物は自分に触れて死なない生き物がいる事に驚いた。

 しかし、体に触れても死なないという事は、しばらく嬲って遊べるという事だ。楽しみが増えただけである。


 蛙型の魔物にとって、毒を無効化された事は痛手でも何でもない。そんなものが無くとも問題なく勝てるからだ。


「……ッ!」


 人影に近づこうとすると、獲物は身を翻して逃げ出した。廊下の角を曲がって魔物を撒こうとしたようだ。

 蛙型の魔物は笑みを浮かべて獲物の後を追う。

 別に逃げられる事は問題ではない。今死ぬか後で死ぬかの違いでしかない。むしろ、探し出して絶望の表情を拝む方が楽しいというものだ。それに――


「打撃がダメなら刃物はどうだぁッ!」


 ――あれだけ戦意を見せていた人影が逃げる訳が無い。

 物陰からの奇襲。

 人影の腕が不自然な程に巨大化している。爪は鋭く尖り、並の魔物であれば一撃で真っ二つにされるであろう。そんなものが目玉に向けて振り下ろされた。


 魔物はあえて”避けない”。


 人影の腕が深々と目玉に突き刺さる。魔物の傷口からは瘴気と赤い血が吹き出した。


「や、やりました……っ!」


 初めて通った攻撃に人影は手ごたえを感じたようだ。

 しかし、蛙型の魔物は嘲笑い、残った目をぎょろりと動かして獲物に視線を向ける。


 人影と目が合った。


 人影は顔を引きつらせて腕を引き抜こうとした。しかし、付着した粘液で滑り、うまく力を籠められない。

 その隙に、毒液を吐き出すそうと喉を鳴らす。

 人影は大きく距離を取ろうとしたようだが、毒で濡れた足場がそれを許さない。結果、人型はほぼ零距離で毒液の噴射を浴びる事になる。


 再び壁に叩きつけられた人影は、血溜まりの中で痙攣していた。しかし、蛙型の魔物がしばらく待つと、人影はふらふらと立ち上がろうとした。

 目には焦燥感と怒り、そして消えない闘志が宿っている。

 まだ遊べる。蛙型の魔物はニヤニヤとした笑みを浮かべたまま、獲物が回復するのを待った。

 人影の外傷が見る見るうちに消えていく。瘴気を取り込んで傷を癒しているようだ。

 並の魔物であれば、濃すぎる瘴気に耐えられず体を崩壊させている。

 高すぎる濃度の瘴気を取り込んで壊死しないという事は、人影が精密な瘴気のコントロール技術を持っているという証拠だ。

 それでも消耗した体力までは回復できないようで、荒い息で蛙型の魔物を睨み付けている。それに対して、蛙型の魔物は嘲りの笑みを返した。


 人影の傷と同様に、蛙型の魔物も急速に回復していく。


 同じ回復能力を持つ者同士であるが、正面から攻撃を受けると即死の危険がある人影と、攻撃を受けてもかすり傷程度にしかならない魔物では、魔物に絶対的な優位がある。


 人影は再び背を向けて逃げ出した。


 蛙型の魔物は焦る事なく後を追う。どんな手を用意していようと、正面から打ち砕くだけだ。

 魔物はそう考えながら角を曲がり――――視界が光りに包まれた。




 ――

 ――――


「弥那! 無事か!」

「はい! 弥那は大丈夫です! 弥那はシズくんのお役に立てましたか?」


 シズルは弥那の体を受け止めた。

 シズルは砕けた鎖を巻き直し、異形の形に変化してしまった弥那の腕を元に戻した。


「シズル……っ! 一段落したなら、こっちを手伝ってくれると、お姉ちゃんありがたいんですが……っ!」


 弥那の体に異常がないか確かめていると、苦悶の表情を浮かべているシアから苦情が飛んだ。

 蛙型の魔物は、通路の上下左右問わずにびっしりと書き込まれた魔法陣によって力を散らされている。

 魔法陣に魔力を供給しているシアとセリは、魔物が暴れる度に苦し気に顔を歪めた。

 シズルは弥那を一度強く抱きしめると、用意した魔法陣に魔力を流してシアたちの援護に回る。

 魔物は抵抗の意思を見せているが、シズルが魔力を足すと憎々し気に咆哮した。


「敵は通路を覆い尽くすほどの巨体で、破壊不可能の建物が戦場。なる程、これほど罠を仕掛けやすい地形は無いだろうね」


 グートは投げナイフを投擲しながら微笑した。ナイフは魔物の目に突き刺さり、彼の者の視界を奪い去る。

 蛙型の魔物は、破壊不能の建物と自身の巨体に阻まれて魔法陣の罠から逃れる事は出来ない。


 一行が立てた作戦は至って単純であった。

 瘴気に耐性がある弥那が仕掛けた罠まで蛙型の魔物を誘導し、残りのメンバーで魔物を叩く。

 罠は魔物についての研究に携わっていたセリを中心に用意した。

 魔法陣の中におびき寄せる事が出来れば、瘴気を散らして大幅に弱体化させる事が出来る。

 魔物が通路を曲がった瞬間に目くらましの魔法を放ち、怯んでいる間に魔法陣を起動させる。後は、グートが投げナイフで視界の回復を防ぎ、ノルイが魔剣の斬撃で魔物を魔法陣の中に押し込め続けるのだ。


 時間と共に魔物の体が分解されて瘴気に戻っていく。確実に力は削がれてきている。

 事前に解毒薬を飲んでいた一行だが、空気中に散った瘴気を吸い込んで次第に顔色が悪くなっていく。

 普通の魔物であれば力尽きている程の時間が経った。それでも蛙型の魔物は倒れていない。

 魔物が力尽きるのが先か、一行が力尽きるかが先か。体力勝負だ。


「――――!」


 魔物が喉を鳴らし、毒を吐こうとした。視界が奪われているため、正確な攻撃は出来ない。

 であれば、余波だけで敵を殺せる毒液のブレスは効果的だった。

 シアが魔法の障壁を展開し、毒液を防ぐ。

 しかし、障壁は見る見るうちに汚染され、ヒビが入った。たった一回のブレスで障壁が砕け散る。抑えきれなかった瘴気が通路に満ちて、一行は血を吐いた。


「ごほっ……! 防ぐよりも撃たせないのが得策だね……」


 更なる毒を吐こうと魔物が喉を鳴らした瞬間、ノルイの魔剣が喉を引き裂いた。

 喉から吹き出した瘴気が散って、魔物の攻撃が止められる。吹き出した瘴気が魔法陣に吸われ、無力化されたのだ。


 ならばと、今度は体当たりを試みるが、弥那の拳によって押しとどめられる。

 もしも戦場が平地なら、どこにでも逃げ道はあっただろう。助走をつけて力づくで突破する事もできたであろう。

 場所が悪いとしか言いようがなかった。

 時間と共に瘴気が散らされて力が落ちていく。傷の治りが次第に遅くなっていく。蛙型の魔物はようやく分が悪いと悟り、憎々し気に吠えると撤退しようとした。


「シズルさん……!」

「分かってる……!」


 シズルはセリとシアに魔法陣を任せて鎖の魔法を放った。

 影から影へと鎖が伸びて一本の線となる。

 その射線上にいた蛙型の魔物の体は貫かれ、苦悶の声を上げた。

 四方八方から次々に延びる鎖は魔物を縫い留め、魔法陣の中心に魔物の体を固定した。

 魔物は死に物狂いで暴れるが、数本の鎖が砕けるだけで全ての拘束を振りほどく事は出来なかった。

 鎖が砕ける度にシズルは額から汗を流す。新しい鎖を追加し続け、拘束が緩まないように魔力をつぎ込み続けた。

 拘束力のあるシズルの魔法が主力になるのは予想が付いた。そのため、彼の魔法を効率よく運用できる影の多い通路を戦いの舞台に選んでいた。

 その甲斐あってか魔物の動きは完全に封殺された。魔物の抵抗は次第に弱々しくなっていく。

 そして、魔物は動きを完全に止めた。


「や、やりましたか……?」


 弥那がぽつりと呟いた。

 瞬間、魔物の瞳がぎょろりと蠢き、腹が爆発的に膨らんだ。危険を感じたグートの額を冷や汗が伝う。


「全員、いますぐ逃げ――」


 直感に従って声を張り上げたグートを嘲笑うかのように、蛙型の魔物はの最期の攻撃が放たれた。

 魔物の体が破裂し、爆発的に瘴気が通路を覆い尽くしていった。

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