眼鏡公爵の自覚
(はぁ……もっと寝られるというのに)
昨晩お酒を飲み、今日は休日だというのに早朝に目覚めてしまったエヴァルドは苦笑した。2週間の連勤の疲れもあり、現実逃避しながらベッドに潜り込んだため寝入りは早かったが、熟睡とは程遠かった。
エヴァルドは二度寝を諦めて水を一杯だけ飲んで喉を潤すと、思考が冴えはじめ昨夜のことを思い出す。控えめな見た目とは裏腹に大胆な行動で助けてくれるリーディア、酔ってふにゃふにゃの蕩ける笑顔のリーディア、自分のことを書き記すほど見て知ってくれているリーディア。頭の中はリーディアで占められ、エヴァルドは初めての事に悩まずにはいられない。
(この関係は契約だと告げた自分が何を考えているんだ。ディアは私にも社交界にも未練がないほどに割りきっているというのに…………それがまた悔しいのは何故だ)
エヴァルドは寝癖がつかないサラサラの髪を掻き乱し邪念を振り払おうと努力する。ふと昨日リーディアから取り上げた酒瓶が目に入る。
(そういえば、ディアは二日酔いは大丈夫だろうか……って、────っ!)
リーディアの体調が気になり隣の部屋に続く扉を見て、今扉一枚先にリーディアが寝ている現実を突きつけられる。今まで気にもしなかったが、鍵もかかってない謂わば同室同然の空間にリーディアが寝ている事にエヴァルドはいたたまれなくなった。
邪な気持ちを振り切り、溜まっている領地の報告書や決裁書をやってしまおうと決めた。彼は急いで寝巻きからシャツとスラックスに着替えて、寝室を飛び出して執務室に向かう。すると廊下で執事のデューイと遭遇する。
「これはエヴァルド様、今朝はお早いのですね。残念ながらまだ朝食のご用意が……」
「いや、これから執務室で報告書に目を通すところだ。朝食はいつもの時間で構わないが、コーヒーだけ頼めるか?」
「かしこまりました。すぐにお持ちします」
エヴァルドが執務室で報告書を整理しようと作業を始める前に、できる執事デューイは早くもコーヒーを持ってきた。だがコーヒーを机に置いても、エヴァルドが飲み始めても、デューイが退出する様子はない。
「デューイ、どうかしたか?」
「エヴァルド様、何かお悩みごとでも?」
「──!」
「副隊長を拝命しているのに悟られるなど、しっかりしてください。空きっ腹に負担がかかるから、朝のコーヒーだけにはいつもミルクを入れるのに、今はブラックで飲んでるものですから……心ここに有らずかと」
エヴァルドが幼少の頃から従者として見てきたデューイに動揺はお見通しであった。エヴァルドが現在24歳でデューイは29歳と年もさほど離れておらず、口調はかしこまっているが親友の間柄だった。
だからエヴァルドは素直に今朝からおかしい自分の気持ちを打ち明けると、デューイは解りきったように告げる。
「エヴァルド様……それは恋でございます」
「この気持ちが……?私はどうすれば……」
エヴァルドは迷子のような瞳でデューイに助けを求め、デューイは一瞬だけ思案し真剣な眼差しで答える。
「まずはいつも通りでお過ごし下さい。そして今はその気持ちを大切に育むのです。そうすると何をすべきか自ずと見えてくるでしょう」
「そうか……分かった」
「俺も一緒に考えます。いつでも相談してください。では下がりますね」
「ありがとう、助かる」
エヴァルドがとりあえず納得したので、デューイは執務室を退出する。それを見届け、なんだか心がストンと落ち着いたエヴァルドの邪念は霧散し、執務に集中していった。
デューイは執務室を出た後、空き部屋ですぐにある人物と緊急会議を開いていた。
「ナーシャ、大変だ。エヴァルドが恋に落ちた」
「リーディア様ですよね?やはり……」
執事長とメイド長を両親に持つ25歳のナーシャもまたデューイと同じく幼少から公爵家に仕えていた。彼女にとってエヴァルドは可愛い弟のような存在だ。
偽の婚約者であり、間違いが起こることはないが一応貴族の紳士と淑女が二人っきりにならないよう常に控えているナーシャ。昨日も最初から最後まで二人の会話を聞いていた彼女が、エヴァルドの変化に気付かないはずがなかった。
「これはチャンスだ。エヴァルドが幸せになるためには偽物から本物にすべきだ」
「私も同じ考えです。青春時代を勉強と鍛練と仕事に費やしてきた彼こそ幸せにならなければ……」
エヴァルドは小さい頃は優秀な外交官の父と優しい母に愛情を注がれ、幸せに過ごしていた。しかし14歳の時、両親は外交先の隣国に向かう途中の崖崩れに巻き込まれ帰らぬ人となった。悲しみにくれたエヴァルドは何もできなかった。
父は三兄弟だった。すぐさま次男の叔父が後見となり領地を運営することで公爵家は経営が荒れることは無かったが、長くは続かなかった。多額のお金が急に自由に使えてしまう誘惑に勝てず、着服するようになっていた。三男の叔父はまともで止めに入ったが、すでに後見の座に収まり実権を持つ次男に対してできることは少なかった。
エヴァルドは三男の叔父から事実を知らされ、憤慨した。父が大切にしてたことを踏みにじられ、自分には嘘をつき利用し、叔母は母の形見の宝石にも手をつけていた。しかし、子供のエヴァルドは何をすれば良いかも分からず、叔父夫婦を恨み、自分の無力を悔やむしかなかった。
公爵位が認められる18歳を迎えた際、叔父が介入できないほどの人間にならなければいけないとエヴァルドは必死に勉強をした。ただ勉強が出来るだけでは駄目だと剣の腕も磨き、頭角を表してきた彼に令嬢は群がったが、見向きする余裕はなかった。
お陰で18歳を迎えたとき、同い年の第2王子の近衛に着任。第2王子の後ろ楯もあって、完全に公爵家の実権はエヴァルドへと移すことができたのだ。領地は信頼している三男と協力し経営を立て直すことにも成功した。
それは良かったのだが、つまりエヴァルドは仕事一辺倒でまともな女性を知らずに育ってしまった。人間関係もひどく狭い。ゴミクズ叔父夫婦の無茶な縁談のせいで女性不信になる始末。
爵位を継いだ後も騎士、領地の管理、叔父の尻拭い、令嬢の対応でエヴァルドは忙殺されていた。優秀でいつも冷静な彼が、突拍子もなく相談もせず令嬢を連れてきて無計画な行動にでたことから、相当追い詰められていた事がわかる。
「今すぐ別邸のクズを消し去りたい」
「駄目ですよデューイ。消す時間があればエヴァルド様に費やすべきです」
この二人は当時からのエヴァルドの悲劇と苦労を知っているため、どうしても幸せにしたかった。
「リーディア様ははじめこそ使用人たちからは避けられていましたが、あの方は一切咎めることはありませんでした」
これは伯爵家の使用人が両親と弟にかかりっきりで放置され過ぎて、避けられているとリーディアが気付いていないだけだった。
「しかも、あのどうしようもなかったゴミクズ夫婦と自称婚約者の勘違い様の扱いは見事だった。あれはエヴァルドだけではなく使用人一同の憂いを払ってしまい、支持率は高い」
「えぇ!しかも自分の都合よりも使用人の仕事を優先して気遣ってくれます。それに叔父の件など仕事が成功したからと追加報酬を要求することもなく、ふだんのお小遣いも無駄遣いせずに貯金なさっているほどの堅実さをお持ちです」
エヴァルドにはリーディアがお似合いだとふたりの見解は一致していた。
「しかしエヴァルド様は恋をご自覚なさったみたいですが、リーディア様からは一切の恋慕を感じられません」
「……何故確信できる」
「リーディア様のお心は既に市井に向いております」
ナーシャは昨夜のふたりの会話と様子を細やかに報告すると、デューイは改めて複雑な気分になった。
(エヴァルドが幸せを掴もうとしているのは正直嬉しい。しかしこのままでは片思い。もし偽の婚約を本物にして結婚できたとしても、一方的な愛は悲しいだけだ。政略的でお互いに愛がないなら別だったが……)
「どうしたらリーディア様はエヴァルドを意識するのだろうか。あれだけエヴァルドを見つめ、魅力も癖も全て把握しているのに好きでないとは……」
「確かにリーディア様がエヴァルド様を見つめる瞳はいつだって真剣そのものです。それは熱烈です。しかし彼女もまた仕事一筋で、全て契約のためなのでしょう。仲間から異性へと認識を変えさせる必要があります」
ナーシャの分析は非常に真実に近い。確かにリーディアは薔薇本一筋、すべて原稿〆切のためだった。
デューイとナーシャは懸命に考えるが、なかなか良い案が浮かばない。
エヴァルドは顔面よし、肉体よし、お金よし、地位よし、性格たぶんよし。尚且つ二人はまわりを騙すためにある程度は日頃からイチャついている。腕を組んだり、寄り添ったり、寝る直前まで一緒にいたり。普通はこれだけイチャつけば、エヴァルドのように相手を意識するはずなのにされていない。リーディアは小説ネタに変換されていることを知らない二人は打つ手を潰されていた。
「焦っても仕方がない。相手は強敵だ。じっくり攻めよう。俺は恋愛初心者の不器用なエヴァルドのフォローをする」
「頼みましたよ妻帯者!貴方の経験を信じます。私はリーディア様に市井へと逃げられないように、動向を注視しておきます」
「それにしても24歳にして初恋かぁ」
「えぇ、最初で最後の出会いかもしれません。失敗は許されません」
「もちろんだ」
二人は固い握手を交わして、自分の戦場へと向かっていった。
※
「ふわぁ~よく寝たわ」
朝食ギリギリの時間にリーディアはすっきりと目覚め、体を伸ばす。二日酔いもなく、すこぶる良い夢を見たと思っているリーディアは気分が良かった。
(でも待って……わたくし、いつ寝たのかしら?うーん、うーん、あれぇ?エヴァルド様のご両親の話を聞いて、婚約解消後の部屋探しの事を話して……話したかしら?小説家のこと説明してないから話すわけないわよね?)
リーディアが昨夜の記憶を探るがハッキリとしない。だが、エヴァルドの慈しむ顔、驚く顔、ショックを受ける顔、照れる顔は見たような気もするが、全て願望が夢に出てきたと結論付けた。
「おはようございます、リーディア様。お体は大丈夫ですか?」
「おはようナーシャ。えぇ、とても快調よ。ところでわたくし途中から記憶がないの……何が粗相しなかったかしら?」
「それは……」
(なんと!記憶があれば「昨日は恥ずかしいことを……ごめんなさい」「いいや、私はむしろ嬉しかったよ」「まぁエヴァルド様……きゅん」ってなるのにっ!)
ナーシャは惜しいチャンスを逃したこと悔やまずにはいられなかった。ナーシャが悔やんでいる間の無言に対して、記憶のないリーディアには不安が生まれていた。
(え、言えないことをしたの?吐いた?暴れた?叫んだ?泣いた?そんな……エヴァルド様がお怒りなら、もしかして今日にでも契約解消されちゃう?)
「ナ、ナーシャ……?」
「すみません、特に問題はないかと思いますが、直接エヴァルド様に確認されるのが良いかと」
「分かったわ……」
簡単な身支度を済ませ、リーディアは食堂へと向かう。すでにエヴァルドは席についており、リーディアが来るのを待っていてくれた。すぐに昨夜の謝罪をするためにエヴァルドの側へ行く。
「おはようございます。実はわたくし昨夜の記憶がございませんの。何か失礼なことしませんでしたか?」
「覚えてないのか?ひとつも?」
エヴァルドにとって昨夜の事は恥ずかしくも嬉しい事であり、リーディアとその思いを共有できないことに少し寂しくなった。
リーディアはナーシャだけではなく、エヴァルドさえも昨夜の事を聞くと無言になるのでますます不安は膨らんでいく。
(あぁ、私はやはり何かしてしまったのね。でもエヴァルド様はお優しい方だから……甘えてはいけないわね。まだまだエヴァルド様を見ていたいけど、ここまでね)
リーディアはナーシャとデューイ以外の使用人に退出してもらい、エヴァルドの前で背筋を正す。3人は何事かとリーディアを見つめるだけ。
「ディア?」
「エヴァルド様…………婚約解消いたしましょう。わたくしはすぐにでも屋敷から出ていける準備はしてあります。ご迷惑をおかけしました」
「──はぁ!?」
リーディアは深くお辞儀をして、エヴァルドの承認の言葉を待つが、いつまでたっても反応がない。この間3人は大いに混乱し、どうやって引き留めるか目線で討論していた。
(理由がわからないから時間稼ぎをしたい!エヴァルド様!違約金が用意できないからって、引き留めろ!)
デューイがエヴァルドに目線で指示を飛ばした矢先に、返事を待ちきれなかったリーディアが発言する。
「あの…………もしかして違約金ですか?これはわたくしの契約不履行でもありますから、許可さえ頂ければ無しでもかまいません」
(最近、小説の売り上げが伸びて十分に生活できそうだし。こんな急に違約金なんて準備できないものね。これ以上迷惑はかけられないわ)
先手を打たれ、違約金にすら興味を示さないリーディアに更に3人は混乱する。その中でもエヴァルドがいち早く冷静になり、理由を聞いていないことに気が付いた。
「ディア、何故そんな急に屋敷を出ていきたいんだ?屋敷で何か不満があるのであれば改善するし、契約内容を見直すこともできる」
「え?私は昨夜とんでもない粗相をしたから解消する気だったのでは?無言が長かったので、エヴァルド様はお優しいから言いづらいせいかと思って、わたくしから申し出てみたのですが……」
リーディアは何だか申し訳なさそうに白状すると、3人はリーディアの本心でないことに安堵した。エヴァルドはリーディアの片手を優しく握り、懸命に慣れない言葉を紡ぐ。
「確かに驚くこともあったが、悪いことではない。誤解させてすまなかった。私は……もっとディアにここに居て欲しいのだが……駄目だろうか」
「───!はいっ」
真剣な眼差しのエヴァルドの言葉にリーディアが心打たれたような顔になる。デューイとナーシャは「これは良い流れだ!キターーーー!」と心の中で悶え、エヴァルドの手を握る力も強くなる。
「ディア……!私は……」
「エヴァルド様のために、これからも、ますます仕事頑張りますね!」
「………………あぁ、頼む。さぁ冷めないうちに食べようか」
「はい!いただきまーす」
(つ、伝わらない…………何でだディア)
(やっぱり仕事かー!ちくしょー)
(あぁぁあ、エヴァルド様の初アタックがぁ)
(あぁ、耳が少し赤く照れながら引き留めてくれるその仕草……萌えるわ!何だか誤解だったし、観察は続けられるし、良かったぁ。でもなんで3人は残念そうなのかしら。それよりも、やっぱり公爵家のパンは美味しいわ)
エヴァルドは凹み、デューイとナーシャは悔しがり、リーディアだけがご機嫌で朝食が終わった。
2018/7/13日間ランキング4位
これも皆様が読んでくださるお陰です!ありがとうございます。