眼鏡公爵と地味令嬢の別れ
──ダン!
先程まで貴族向けの新聞を読んでいた中年の男が、記事の内容に怒りのまま机を叩く。
新聞にはレグホルンの国から発表されたもので国境の緊張状態が解消されただけではなく、一時は敵対していたはずのセルリアと共同研究の契約が締結され、友好国として再出発された事が書かれていた。
また別のページの記事にはエクルから留学生が来ることが決まった内容が書かれており、まだ13歳の第一王子をはじめエクル国内の有力貴族の令息が何人もレグホルン王国に留学することが発表されていた。そして留学生はロイヤルナイトが国境から帰還の際、共に王都入りし、レグホルン王国で特別授業を受ける予定との事だった。
事実上エクルの留学生はルーファス王子が連れてきた人質で、授業は2度とレグホルン王国に歯向かえないようにする洗脳教育に近いことだった。
きちんと読めば隣国セルリアとの敵対関係の裏でエクル国が暗躍し、気付いたルーファス王子が解決したことは明らか。しかしカペル伯爵はこの記事を読む前に新聞を破り捨てている。
「くっ、戦争の可能性が消えただと!?側近がやられたと聞いていたのに、何故第2王子は報復を選ばなかったのだ。これでは我が家は……っ」
何度も机を叩き怒りを発散させようとするが、叩きつけた拳が痛み現実が突きつけられるばかりで怒りは落ち着きそうもない。
「旦那様、お約束していたお客様がお見えです」
「ちっ、今行く」
荒れる主人など見慣れたかのように、無機質に執事が来客を知らせる。いかにも面倒臭そうに男は応接室へと足を運ぶ。
「遅れて申し訳ない、ガラナス侯爵」
「いや、急な訪問を許して下さり感謝しますよ……カペル伯爵。早速だが貴方に素晴らしい提案があるんだが」
ガラナス侯爵の怪しい笑みにカペル伯爵は警戒するものの、話が終わるとカペル伯爵も口元が自然とつり上がり、同じような悪い笑みへと変わった。
※
砦行きとは違い1週間かけて王都に無事に帰還した。ルーファスの配慮によってエヴァルドたちは王城へとは寄らず、そのまま屋敷へと送り届けられた。
まだ正式に秘書官への辞令は出されず、エヴァルドは療養に専念するようルーファスより約1ヶ月半ほどの休暇を与えられている。仕事の事を考えずしっかり休めという気遣いだった。
屋敷の玄関前には料理人や庭師まで出てきて、使用人総出で待ってくれており、馬車が止まると一糸乱れず揃って頭を下げる姿は壮観で屋敷の主の帰還を待ちわびていたことが伝わってくる。
執事長代理のデューイが歩み出て代表して挨拶をするが、表情には出ていないものの声が少し震える。
「おかえりなさいませ。ご無事と言っていいのか…………とにかくゆっくりとお休みください」
手紙で知らされていたとはいえ、エヴァルドのコートの片方の袖から手が見えないことにショックを隠せずにいた。
エヴァルドは仕方ないなぁとでも言いたげな顔でデューイの肩を叩く。
「心配かけたな。私は見た目よりも元気だからお前たちが気に病むな。そうだデューイ、久々に一緒に酒でも飲まないか?」
「あ、ルド様!駄目ですわ!念のためあと1週間は我慢してくださいませ」
「ディア、もう傷も塞がって薬も無いんだから大丈夫だろう」
「もうっ!お茶にしてください。ナーシャからも言ってあげて」
「言わずともお酒は全て隠しますのでご安心を」
三人の明るいやり取りを見せられ、デューイはエヴァルドが既に立ち直っていることを知り、次は別の意味で震えそうになった。込み上げる思いをぐっと堪え、できるだけいつも通りに振る舞う。
「エヴァルド様、領地のルルリア地方の新茶が届いておりますので、それをお出ししましょう。俺はお酒を飲みますが」
「おい、裏切るな」
「冗談です。さぁお部屋に参りましょう。ナーシャは今日一日休みなさい」
すでに気持ちを切り替えたエヴァルドを自分達が足を引っ張ってはいけないと、デューイは他の使用人の示しになるよう背筋を伸ばして先導する。約2か月ぶりにシーウェル家の屋敷に日常が戻ってきたのだった。
少し遅めの昼食を食べ終え、エヴァルドはデューイと、リーディアはメイドたちとお互いの私室で話をしていた。
「まぁ、きちんと思いを伝えられたのですね」
「しかも御守りも渡したのですよね?エヴァルド様はどんな反応を?」
「キスまで進みましたか?どちらから?」
「エマったらストレート過ぎよ」
ガールズ組は恋ばなに花を咲かせていた。“立場を弁えなさい”とは言えないリーディアがモジモジとする姿が可愛くて、メイドたちは遠慮を忘れてグイグイと攻める。
「えっと……ルド様から一度だけ」
「「きゃぁぁあぁあ!」」
「でもそのあと恥ずかしくなって……逃げてしまったの。ルド様ったら最近距離が近すぎて、わたくし困ってますの」
「困っているとは?」
「あのね、あの青い瞳を見ると意識しすぎて落ち着かないというか…………夢にまで出てよく寝れないんですの」
「「─────!」」
リーディアが恥ずかしがるようで怯えるような仕草にメイドたちはゴクリと喉を鳴らし、隣の部屋に繋がる扉を一斉に見る。
(そういえばお互いに信用しているからと、鍵って閉めてないわよね?)
(えぇ、ナーシャからはそう聞いているわ)
(今までは片思いだったから、リーディア様のお気持ちを考えて手は出さなかったようだけど……)
(両思いだと分かった今!紳士なエヴァルド様でもいつ狼になってしまわれるか……!)
メイドたちは目線だけで会話して、リーディアの乙女を守らねばと合意すると、代表してエマが挙手をして説得を始める。
「リーディア様、行き来する時以外は扉の鍵を閉めることを提案いたします!本来は婚姻してから鍵を解錠するのがマナーなのです」
「まぁ、知らなかったわ。でも今さら施錠したらルド様がわたくしの信用を失ったとショックを受けないかしら?」
「大丈夫です。リーディア様が素直に“エヴァルド様を意識しすぎて寝れなくなる”と言えば許してくれます」
「なるほど!忘れないうちに今から伝えるわ」
素直すぎるリーディアはすぐに隣の扉をノックすると、エヴァルドの返事が聞こえ扉からぴょこっと顔を出して施錠の事を切り出す。
「この扉なんですが、必要時以外は施錠しようと思いますの」
「どうしたんだ急に?」
「最近ルド様を意識しすぎて寝れない日があるのです。だから、その…………」
少しだけ不安げに瞳を揺らし、ほんのり頬を赤く染めモジモジと恥じらいながら告白するリーディアの姿に、エヴァルドは持っていたペンを落とす。ペンが足にあたり、ハッとするように冷静さを取り戻して微笑んで返事をする。
「分かった。ディアの好きにすると良い」
「はい、ありがとうございます。お話し中にお邪魔しました」
返事に満足したリーディアは扉を閉めると、早速ガチャリと鍵をかけた。本当に施錠するんだな……と少しだけ悲しい気持ちで、エヴァルドとデューイの男ふたりは扉を見た。
「エヴァルド様、相当警戒されてますね。何したんですか」
「一度キスしただけだ」
先週のキスを思い出して、エヴァルドの表情は幸せそうに緩んでいるが瞳の奥は熱がこもり獲物を見つけた鷹のように光る。デューイは察したと言わんばかりに、ため息をついてしまう。
「あぁ、したんですか。その色気駄々漏れの顔で……エヴァルド様は自分の顔面偏差値の高さをもう少しご自覚なさった方が良いですよ?過剰な愛情でリーディア様に逃げられたりしてませんか?」
「そういえば心当たりが…………でも顔は生まれつきだからどうにもならんだろう?それに顔面偏差値が高いというのはルーファス殿下やシオンみたいな顔だと思うんだが……」
「…………エェ、ソウデスネ」
エヴァルドは今までは仕事一筋で女性の取り扱い方に疎く、仕事はできても恋愛経験は子供並みだったと思い出す。また国随一の美丈夫ルーファスと中性的な甘い顔立ちの美青年シオンを例にあげられては勝てないと、デューイは説明をすぐに諦めた。
「では、不在中の報告の続きをさせていただきます」
「あぁ、頼む」
今まで届いた手紙や領地の報告書を並べ、これからの打ち合わせをした。
※
1ヶ月がたった頃、屋敷は緊張感による静寂に包まれていた。招かざる来客によって使用人たちは沈黙し、聞こえるのはティーカップの音とお互いに嫌悪感を隠しもしない二人の男の低い声だ。
「急に婚約解消しろとは、カペル伯爵は随分と勝手ですね」
「勝手なのはシーウェル公爵の方では?急ではなく何度も申し入れの手紙はお送りしたはずですが。もう人避けは十分にできて、娘は不要ですのに何故側に置き続けるのか……不思議ですなぁ」
爵位が下であろうとも一応年上のカペル伯爵に丁寧な言葉は使うが、目が合うと背筋が凍りそうなほどエヴァルドの瞳は冷えている。
ソファで対峙するカペル伯爵ははじめは怯んだものの、リーディアに対するエヴァルドの見え隠れする執着を弱味として見つけたことで余裕を取り戻した。
「リーディアは与えた仕事を全うしてくれました。その働きに報いるためにもカペル伯爵の元には戻す気はありません。彼女は帰りたくないそうですが?」
「シーウェル公爵は噂通り正義感が強く義理堅いようですが、娘の意思は関係ございませんよ。貴方が人避けが出来たのは、私がリーディアを貸したから……借りた人間は持ち主に報いるのものではないでしょうか?」
「あなたは彼女を道具というのか……そんなカペル伯爵に対価を払う気はない。それでも父親なのか!」
「おや、商品に情を移すなどまだまだ若いですな。しかし残念です……私も商売人ですから延長料金を支払わないお客様にはもう貸し出せないのですよ」
エヴァルドは歯を食い縛るように睨み付ける。
リーディアをシーウェル家に置いておいてもエヴァルドがこれ以上カペル伯爵に対価を払う気が無い以上、エヴァルドとの繋がりは不要とばかりに強気に出る。
「それに……道具として使おうとしたのはあなた様の方が先だったはずでは?金を払うから娘を売れと持ちかけたのはシーウェル公爵だと記憶してますが……ねぇ?」
「それは…………っ」
エヴァルドの勢いが削がれ、苦虫を潰したように歪む顔を見たカペル伯爵は優越感に浸り、主導権を握った事を確信した。
「良いのですよ?本当は私はシーウェル公爵の権威に脅され、金を押し付けられ泣く泣く愛する娘を手放したと。貴方に相応しい娘だと自慢したのは、金で買われた娘が哀れでせめて周囲には愛されて求婚されたのだと思わせたかったと…………そう公表しても良いのですか?」
公表されれば、権威と金で押し通すような傲慢な人間で、女性を道具のように扱う男として信用が落ちるスキャンダルになる。たとえ多少の嘘が混ざっていても、人は弱き者の嘆きに心が傾く。
叔父という血縁に問題のある人間がいるため、小さなスキャンダルでも“結局シーウェルの人間は屑”だと判断されやすい。だからエヴァルドは今まで模範生として気を付けていた……契約婚約までは。
痛いところを指摘されたエヴァルドの言葉は余裕が消え、すでに年上に対する敬いはなくなっている。
「あなたはシーウェル公爵家の力を削ぐことが目的なのか?」
「まさか、私はただ娘を取り戻したいだけなのです。ここで返して頂ければ契約の話は一切口外しないと約束しましょう。そうですね、婚約解消の理由はシーウェル公爵の怪我のせいにしましょう」
「何だと?」
ニヤリと先の無い右腕を見られエヴァルドが睨むも、完全に話を支配しているカペル伯爵には通じない。
「あなたの重い怪我に娘は支える自信を失い精神的に不安定になり、私が同情して婚約解消を申し出た。そしてシーウェル公爵も娘の心の負担を想って、不本意ながらも婚約解消の申し入れを受けた…………どちらも美しい話でまとまりませんか?」
「………………」
「これは怪我を負ったあなた様への私からの恩情ですよ?結婚もせず婚約者止まりのリーディアの籍はカペル家のままです。カペル家の人間の最終決定権は当主の私にある……カペル家の名にやや傷はつきますが、いざとなればあなたの意思など関係なく取り戻せるところを、私はあえてお話に上がったのですよ?」
「………………っ」
「まぁ籍を入れようとしても、カペル家に利益がなければ私は許可しませんよ。娘を諦めてもらおうか、シーウェル公爵」
「…………」
カペル伯爵は婚約解消の紙をテーブルに乗せ、すっと滑らすようにエヴァルドの前に差し出す。エヴァルドのスラックスは悔しさを堪えるかのように強く握られた左手のせいで皺ができ、紙を見つめながら震えていた。
「さぁ同意の署名を……私の気分が変わる前におすすめしますよ?」
追い詰めるように、そして急かすように、脅す。カペル伯爵こそが何かに追い詰められてシーウェル家に押し掛けている事は明らかだが、エヴァルドの選択肢はひとつしかなかった。
長く、深いため息を苦しげに吐き出し、エヴァルドは用意されたペンで署名する。書き終えると用は済んだとばかりにカペル伯爵は紙を取り上げ、帰りの馬車を用意するよう要求する。
「シーウェル公爵が理解ある方で助かりましたよ。これで契約関係は終わりですな。このまま娘は連れていきます」
「今日すぐにか?準備などできてない」
「えぇ、しかしこちらの都合もありますからな。荷物は捨ててください。来たときも鞄ひとつでしたし、たいした手間は無いでしょう」
「…………最後にリーディアと話をさせてくれ。今回の事を謝りたい」
格上のはずのエヴァルドが床を見つめる姿にカペル伯爵は気分が良かった。それでも与えられた時間は5分間だけ……エヴァルドは急いで応接室を出てリーディアの元へと走ると、リーディアはすでに玄関近くの廊下で待っていた。
「ディア……すまない」
「ルド様……事情は聞き及んでおります。やはり父は最後まで変わることは無かったようですね……あなたに大変ご迷惑をおかけしました」
リーディアの表情は抜け落ち、声にも全く感情が籠っていない。エヴァルドがその頭をそっと胸に抱き寄せると、リーディアは別れを惜しむようにエヴァルドのシャツをキュッと握りしめた。
「必ず迎えに行く」
「はい、お待ちしてます」
別れを惜しむようにふたりは抱き締めあった。
「リーディア、帰る時間だ。ふん、良い思い出を貰ったようだな。もう行くぞ」
「…………シーウェル様、皆様も大変お世話になりました」
「さっさとしろ」
5分も経たずして二人の絆を裂くようにカペル伯爵が終了を告げる。リーディアは深く頭を下げると、カペル伯爵は腕を掴み娘のエスコートとは言えない振る舞いで馬車に放り込む。
使用人はお客様が帰るというのに誰も見送ることは無かった。この日リーディアはエヴァルドの元を去った。