眼鏡公爵と地味令嬢の約束
「んっ…………よく寝たわぁ」
カーテンの隙間から照らされる太陽の光が眩しく、深い眠りから一気に目覚めへと引っ張られる。リーディアは体調を確かめるように体を伸ばすが、本当に昨日熱があったのが不思議なほどに快調だった。
「あら、リーディア様おはようございます。お加減はいかがですか?」
「快調そのものよ。お腹もペコペコ」
「今シェフにミルク粥を作らせてますので、もう少しお待ち下さい。先にシャワーでも浴びられますか?」
「確かに……そうするわ」
自分でカーテンを開けて太陽光を浴びていると、ナーシャが様子を見に部屋に来てくれる。言われてみれば、丸1日入らず熱で汗をかいたせいで体がベタベタである。湯浴みであれば別室に移動しなきゃいけないが、シャワールームは自室に併設されているお陰で、ベタベタの姿をたくさんの人に見られないことは嬉しい配慮だとリーディアはしみじみ実感する。
「そういえば、エヴァルド様は?もうお出掛けに?」
「はい。リーディア様の寝顔を確認してから出掛けられてましたよ」
「え!?嘘よね?」
「本当ですよ。随分と心配されていましたから」
ナーシャの発言に絶句し、受け取ったタオルや着替えまで落としてしまう。
(そんな……こんな顔もベタベタで髪もボサボサなのに!そういえば昨日は抱きついてしまったわ……臭くなかったかしら。あぁ、幻滅してないかしら…………いやぁぁぁあ!)
以前は自分がどんな風に見られているかなど気にしていなかったが、今になって自分の見た目が気になって仕方がない。タオルと着替えを拾い直してシャワールームへとダッシュし、無心で全身を磨いた。
シャワーを終えメインルームに戻ると、良い香りがしてお腹がなる。思ったより大きな音がなってしまい、ミルク粥を皿に用意していたナーシャにも聞こえてしまいクスっと微笑まれた。
「ふふ、ちょうど出来てますよ。どうぞこちらに」
「ありがと……いただきます」
ミルク粥からは湯気がたっておりミルクの甘い香りが広がり、香りだけでも美味しいのが分かる。リーディアがパクっと口に含むと、とろっとしたお粥が口の中で溶けて顔まで緩んでしまう。
「なんでこんなにも美味しいの?幸せ」
「ふふふ、シェフも喜びます」
リーディアはあまりの美味しさにどんどん食べ進めていくが、ふとあることに気が付いた。
(隠し味にチーズを使ってるのかしら。コクも出てて香りも…………夢のミルク粥と同じ味?あれって夢よね?いや、まさか……)
「ねぇナーシャ。私この味に覚えがあるんだけど、食べたことあったかしら?」
「えぇ、昨日召し上がりましたよ?美味しそうに食べられていたので同じ味つけでご用意しました」
「…………そう、昨日なのね。ごちそうさまでした。美味しかったわ」
リーディアはペロッと完食して体調も完全復活したのだが、頭痛はしないはずの頭を抱えテーブルと睨めっこを始める。ナーシャがニヤニヤ見つめていることにも気付かないほど、記憶を呼び戻そうと集中して頭をフル回転させるがオーバーヒート一直線だった。
(食べたってどうやって?夢では食べさせてもらったわ……それは誰に?しかもそのあと私は何を口走ったかしら?それに応えてくれたのは誰だった?どこまでが夢で、どこから現実?待って……そんな!あわわわわわわ)
必死に昨日を思い出そうとするが、どう考えてもエヴァルドの落ち着いた声と優しい顔しか浮かんでこない。ナーシャに確認するのもなんだか恥ずかしく、自力で粘るがどんなに思い出そうとしても夢かどうかハッキリせず、エヴァルドが帰宅したら本人に正々堂々と確認しようと心に決めた。
※
エヴァルドは交代を済ませその日の仕事を終えると、すぐに馬に乗って屋敷へ帰ろうと出発する。
リーディアが心配というのもあるのだが、演習でのエヴァルドの過保護ぶりにダラス隊長をはじめ、同僚からのからかいが凄く、恥ずかしくて逃げたい気持ちもあった。
「どこが地味な顔だ、普通に可愛いじゃないか!おやぁおやぁ~もしかして誰かに盗られるのが怖くて、ライバルに興味を持たれないような嘘だったのか?かぁーっ!若い!おじさん、そういうの大好きだよ!」と特に事情を知っているダラス隊長の絡みが酷かったからだ。
いつまで続くのかと精神が削られるが、屋敷の玄関を開けるとすぐに回復した。
「ルド様、おかえりなさいませ」
「ディア、ただいま。元気になったんだな」
「はい、一緒に夕食食べませんか?」
「もちろんだ、すぐ行こう」
いつもの控えめで明るい笑顔のリーディアをみて、順調に治ったことに胸を撫で下ろす。
二人ですぐに食事をとり始めるが、終始リーディアが演習の感想を熱心に語る。剣捌きが速いだの、体術も凄いだの、細身なのに力強くて格好いいだの、素敵だの、見惚れただの……まるで好意しかない言葉が羅列される。
実は夢の確認をしたくて寝る前の雑談に誘いたいのだが、食事を終えても緊張して口が暴走してしまっていた。
(誘わなきゃなのにーあぁ、こんなに感想言い尽くしたらお誘いの建前が無くなっちゃう。でも止まらないよぉー)
リーディアは困る一方で、エヴァルドはきちんと誘導されていた。
(これを語りたくて、一昨日の夜私の部屋で待っていたのか……益々可愛いな。もう好きになってくれたのではと勘違いしそうだ。それとも本当に脈ありか?……悩んでも仕方がない。手紙の件もあるしな……)
「ディア、続きは私室で聞いても良いか?体調に問題なければ、夜の雑談を再開したい」
「──!はい!喜んで!」
※
「まずはじめに、ディアはこの手紙を読んで欲しい。君の父親カペル伯爵からで、私にも届いてる。プライベートな内容でなければ教えて欲しい」
「お父様から?」
父の名を聞いてリーディアは顔をしかめて、あからさまに嫌悪感を示す。エヴァルド宛の手紙も併せて渡され、2通とも目を通すがあまりの図々しさと醜さに血の繋がりが忌々しくなった。
リーディアは自分宛の手紙をそのままエヴァルドに渡すと、彼は怒りでそのまま紙を握り潰した。内容は要約すると『エヴァルドに夜這いをかけ、既成事実を作って妻の座を脅し乗っ取れ』というあまりにも双方の意思を無視した命令だった。
「私の父がエヴァルド様になんと失礼極まりない行動を申し訳ありません。わたくしの軽い頭ですが深く謝罪致します。このままでは父は調子に乗るばかりです。エヴァルド様に実害が及ぶ前に、どうぞ婚約解…………か……い…………」
エヴァルドがリーディアとの婚約を解消すれば、カペル伯爵が調子に乗る材料が取り除けると分かっているリーディアだったが“解消”という言葉が続かない。数ヶ月前などあんなにも簡単に出てきた言葉が、今はとても重く、苦しかった。
「ディア、婚約は解消しない」
「───っ、でも」
「ここで解消したらどうなるか聡い君なら分かるだろう?」
「………………」
考えられる可能性は2つ。ひとつ目は命令に逆らったから勘当して平民に落とすこと。ふたつ目はエヴァルドに追加金を催促し、リーディアに夜這いを命令してることからカペル伯爵は資金難で困窮しており、手っ取り早くお金を手に入れるために変態貴族に妾として売り飛ばす可能性。伯爵には貶された平凡な容姿でも、19歳の若い女性の需要はゼロではない。欲望の捌け口として売られた後などは想像もしたくない。
「ディア!」
「ひぅ……あ、はぁ……はぁ……」
「すまない。こんなに追い詰められているとは。ゆっくり息を吐いてから吸うんだ」
過呼吸になりかけていたリーディアはエヴァルドに抱き締められ背中を擦ってもらえたことで、呼吸が落ち着いてくる。シーウェル公爵家に来る前は諦められた運命も、今ではもう受け入れることは無理だった。
指先は痺れて冷たくなって全身もエヴァルドに包まれ次第に温かさを取り戻すが、このエヴァルドとカペル伯爵の温度差に絶望しそうになる。
「わ、私…………怖い……お父様が、憎い。あの人のところに行きたくない……っ」
「分かってる。大丈夫だ」
契約の相手への態度ではないと分かっているが、リーディアはずっと公爵家にいたいと子供のようにすがってしまう。背中を撫でる温かい手が、安心させるような声が、夢で求めたものと全く同じで、恋しさが止められなかった。
「わたくしは、どうしたら……」
「ディアは私の恩人だ。叔父と執拗な令嬢たちに振り回され、自暴自棄になって、投げつけるように面倒事を押し付けたのに君は助けてくれた。今度は私が君を助ける。信じてくれ」
「エヴァルド様……」
「まったく君は……こんな私に甘えてくれるのであれば、愛称で名を呼んでくれるとやる気が出るんだがな」
エヴァルドは体を離してどこか拗ねたような笑顔で言い出すと、リーディアは涙も止まりきょとんとしてしまうがそれすらも可愛く見え、自分は重症だなと自覚する。
「私ばかりずっとディアと愛称で呼んでいるのに、君は使用人や人目がなくなるとすぐに他人行儀な呼び名になるのは少し寂しい」
「…………はい、ルド様」
「よくできました。いい子だ」
「え、ちょっと!子供扱いしすぎです!もうっ……ふふふ」
褒めるようにリーディアの髪をわしゃわしゃと撫でると、彼女の言葉は怒りを伝えていたが顔は真逆の表情だった。すっかり、リーディアの中からは絶望が消えていた。
「すまない。昨日の看病のせいか、私はディアが小動物や雛にしか見えなくてな。子供扱いはわざとじゃないんだ」
「昨日?……そうです!もしかしてなんですが、ミルク粥ってルド様が?寝ぼけてて記憶が曖昧なんですが、夢ですよね?」
「あぁ、覚えていたのか。現実だ」
「そんなっ!」
予想はしていたが、事実だとわかり目眩がしそうになる。
(ルド様……あぁ高貴なお方がなんてことをしてるの!?じゃあミルク粥から現実ということだとしたら……あの言葉はどういう意味で?)
“ディア、私が愛している。大丈夫だ”
自分が切望していた言葉をもらった事を思い出す。
「では、その……そのあとの大丈夫という言葉も夢では……」
「……そうだ、私の正直な気持ちだ」
友人として、契約の仲間として、妹のような存在として、異性として……エヴァルドがどの意味で言葉にしたかは分からない。ただ夢でなかったことが嬉しくて、リーディアは胸元で手を当てて神に深く感謝を捧げた。
「あぁ、この私がその言葉を誰かに貰えるだなんて……」
この言葉を聞いてエヴァルドは嬉しさ半分、残念半分の気分だった。
(この反応は、私が一人の女性として愛してるとはまだ伝わりきってないな。でもディアは幸せそうだ、今はそれで良しとしたいが……もう少しだけ)
エヴァルドは自分だけソファからおりて、リーディアの手を取って片膝を床に付けた。
「ルド様?何をなさって」
彼の行動に動揺するリーディアを無視して、彼女の手を己の額に当てる。唯一の主と決めたルーファス王子以外にこの忠誠を表す姿勢を取ったのは初めてで、国王にすらしたことはない。
「いかなる時も私の心は貴女に寄り添い、時には憂いを剣で薙ぎ払い、リーディアの味方でいよう。ディアは私を信じて欲しい。頼って欲しい。だから、貴女にも私を愛して欲しい。どんな意味か分かった時に一番に教えてくれ。誓ってくれるか?」
エヴァルドのさらさらな黒い前髪の隙間からのぞく青い瞳は宝石のようで、その人の口から紡がれる言葉は魔法のようで、まるで小説のクライマックスの世界に飛び込んだようにリーディアは魅せられて返事ができない。
───ドンドン!
「エヴァルド様!エヴァルド様!いらっしゃいますか!?」
「何用だ!……ディア、待っててくれ」
「何事ですか?」
突然部屋の扉が強く叩かれ使用人の焦った声が響き、隣部屋からナーシャも顔を出す。デューイは外しており、一番扉に近いエヴァルドが使用人を迎え入れると、使用人は緊張で顔を強張らせながら一枚のカードを差し出した。
そのカードにはルーファス王子の印璽が施され、一言だけ「緊急召集」の命令が記されていた。エヴァルドはすぐに動き出した。
「デューイはいるか!すぐに城へ行く支度がしたい!」
「すでに準備は整えております!馬も用意済みですので、すぐにでも出発できます」
エヴァルドの指示を待たずして、騎士の制服や剣、コートにブーツを抱えたデューイが部屋へと入ってくる。呆然としていたリーディアは急な展開に付いていけずナーシャに手を引かれるままに、玄関に連れられた。
「リーディア様、ここでエヴァルド様をお見送りしましょう。できれば、いつものように笑顔で見送ってください」
ナーシャの言葉に胸が詰まる。こんな夜に、王子直々に召集するのは只事ではなく、合同演習を行うほど国境は不安定……誰も言葉に出さないが“戦争”の2文字が頭に浮かぶ。
(ルド様はルーファス殿下の近衛で、殿下が戦地に行くなど滅多な事がない限りあり得ない。分かっているのに、お見送りがこんなにも胸が締め付けられることだなんて初めて知ったわ)
常に前線にいる軍人の家族の気持ちはこの比ではなく、前線へ向かう本人の方が更に不安なことなど知ってしまえば容易に想像でき、リーディアは胸元のリボンをぎゅっと握り締め自分に言い聞かす。
(ルド様が安心して出発できるように笑うのよ。笑顔よリーディア)
数分も待たないうちに制服に身を包んだエヴァルドがデューイに何かを指示しながら玄関に現れ、リーディアの前で足を止める。
「ディア、私を待たずに今夜はきちんと寝るんだ。また熱を出されたら心配でたまらんからな。今夜の続きは帰ってきてからしよう、約束だ」
「ルド様……はい。約束です。どうかお気をつけて」
「いってくる」
「いってらっしゃいませ」
エヴァルドは手をリーディアの頭にぽんと乗せ、馬に飛び乗るとあっという間に姿が見えなくなった。
リーディアは見送った後、約束を果たすために元気な姿で帰りを待とうとすぐに寝室に戻った。
翌朝、一通の手紙が届いた。そこには今朝早くルーファス殿下と共に国境へ向かったと書かれていた。