海底
明滅する景色が視界を流れていく。零時を目前に出発した最終電車に乗り合わせる人間は、私の他に誰もいなかった。死んでいると思った。
過ぎ行く明かりの一つ一つに蠕動する何者かが居合わせているはずだが、その明かりの持たんとする役割について思考を巡らせるよりも早く、車窓は次の家屋を写し、また消し去った。
意味もなくそうした景色を眺めていると、脳髄がかき回されるような不快感とともに吐き気がやってきた。元来より、人々の営みを頭で考えるというのは間違いなのだ。たとえ一瞬で流れ行く、存在を証明するだけの光であろうとも、それを一個人の思考で量ることはできない。誰の行う一切の事象に対しても、人が思慮でもってそれに当たることは許されないのだと、誰もが理解していながら拒んでいる。私もまた、そうした人々の一部だった。
私の思索について理解できる者は私をおいて他にいないが、私の思索そのものはまるで無関係な他者からの理解を求めていた。
しかしながら、私を理解している人間に出会ったことは一度たりともなかった。他者から理解されているだろうという判断を下せるほどに、私は私を理解していない。全くの無知でありながら、私は他者を理解しようと知者の振りをしてみせ、一方で自身の内からは目を逸らし続けた。思考している振りばかりが上手な道化であった。人間とは神に向けて無様を晒し続けるだけの道化であるに違いないのだ。
他者に対してばかり関心を抱き、その答えが己の内に潜んでいるという事実から逃れようという。誰もがそういう逃避を行うせいで、いとも容易な問題を複雑であるかのように錯覚し、それが崇高であるという思い違いを伝播させている。
鈍い鉄の音とともに、電車は終点へと至った。駅には誰もいなかった。周囲の寂れた風景に対して、やたらと小綺麗な無人改札機を通り抜け、一つ大きく息を吸った。冷たい空気が肺を満たした。
街も、やはり全体が死に絶えているようだった。電車からは無数の命が見えていたはずであったのに、そこには何もなかった。
駅を出ると、シャッターの閉じられた幾つかの店に紛れて、煌々と光を放つコンビニがあった。中を覗いてみると、客の一人どころか店員すら存在していなかった。たちどころに、街灯に集る虫のように迷いのない足取りで、私は誰の意志というわけでもなく、コンビニへと吸い寄せられた。
喉が渇いていた。恐ろしい渇きだった。全身から、止めどなく水が溢れ出ていく感覚に、思わず身震いした。その震えによって、体の隅々に張り付いた羽虫のような水滴さえも失われた気がした。
私は早足で、ふらつきながら飲料水の陳列されたショーケースへと向かった。そして、迷わずショーケースから一本の水を手に取ると、狂ったように一気に飲み干した。瞬く間にペットボトルは空になった。
衝動のままに空のペットボトルに口をつけ、その中身のはいっていないことに憤った。それでも、眼前に水の乾ききったわけでなく、ペットボトルには、ほんの少しだけ水が残っていた。飲み口から中を見やると、極小の空間に、僅かばかりの水があった。手を小さく動かすと、水もまた規則的に揺らいだ。堪らなく恐ろしいような、それでいて無性に抑えの効かないもどかしさのようなものが全身に溢れ、みっともなく唇を噛みしめながら、手にしたペットボトルを握りつぶした。湿った口内に、鉄の渇きが訪れた。やはり、水は私の体から失われ続けていた。
潰れたペットボトルに口をつける気にはならず、私はショーケースに陳列された無数の飲料水に眼を向けた。渇望する水を前に、私は逃げ出したいと思った。
それはちょうど、巨大な水槽の前に立ったときに感じる恐怖と同じだった。切り取られた極小の海を満たす魚の群れに気圧され、その場を立ち去りたくなる。だが、不可解な心の機微によって、足を動かすことはかなわない。まさしく、そうした気分だった。
この瞬間にもショーケースは割れ、夥しい水に呑まれながら死んでいく様が、脳裏に実感となって現れた。気づけば、私は呼吸すら忘れていた。
一枚のガラスを隔てた向こう側に広がる死を想うと、胸の奥から轟音とともに押し寄せる濁流が好奇を追いやり、そこには底知れぬ恐怖だけが残った。ひび割れた水槽からは絶え間なく水が流れ出て、とうとう水族館全体を飲み込んだ。水槽から追いやられた魚たちは、真の自由を勝ち取ったのだと、凱歌を口ずさみながら何処かへと泳ぎさっていく。悠然と列を為す魚の群れが、私を見て笑った。そこにガラスの隔たりはなく、それらは私の頬を撫でた。魚は闇の底へ溶けるように消えた。
そのとき、私は水底に立っていることに気付いた。呼吸ができなかったが、問題にはならなかった。地に足をつけ、周囲を歩いてみても、暗闇ばかりが広がった。数歩進んでは周囲を見渡し、それを六度ほど繰り返したところで、微かな灯りを見つけた。
灯りに向けて必死に駆けてみても、一向に距離は縮まらず、絶えず私の体からは水が流れ出て、海の一部として闇に染まった。水の只中にありながら、体躯は見る見るうちに干上がっていき、木乃伊のようになった手足を視界に捉えたのを最後、目は何物も移さなくなった。静寂がやってきた。ただ、水の流れ出ていく不快感だけがあった。乾き切った手足は、思いの外に動かせるようだったが、今にも崩れ落ちそうな脆さがあった。
やがて、体内の水分が全て消え失せたので、次はぶくぶくと全身から沫が立ち込め、視界を埋め尽くした。現実への浮上を感じ、私は必死になって全身から昇りゆく沫を抑え込もうとしたが、そうするための干上がりきった手さえも頭上へと向けてぽつぽつと遠退いていった。
肉体の全てが海上へと旅立ったとき、そこには精神だけが残った。もはや身動き一つに取れぬ中で、私は初めて私の思索というものを理解した気になった。
今であれば、私を理解し得る誰かに出会えると思ったが、海底は暗く、人どころか、生命そのものの陰さえ漆黒に塗りつぶされていた。
その空間において、私もまた漆黒の一部である以上、眼前に他者が存在している可能性も否定できず、誰もが知覚を捨て去っただけで、私たちは確かに隣り合って存在しているのだと確信した。
安堵と不安が訪れた。私は一人きりで声をあげた。果てしなく広がる闇か、或いは、ひどく窮屈な箱だった。どちらにせよ、同じことだと思った。
私はその場所について思案を巡らせた。肉体すらなく、身動きもとれない状況にありながら、どうすればいいのだろうか。
だが、不思議とその場所が海であるのだと、私は心の内で知っていた。そうでなければならぬのだという、強迫観念のようなものがあった。
必死に声をあげ続けるが、その声さえも闇の淵へと沈み、私にさえも聞こえはしなかった。果たして、本当に声をあげているのか。それすらもわからなくなった。
ひたすらに、落ちていく感覚があった。
眼もなく、物事を見た気になり、ありもしない口でうわ言を呟く。まさしく人間だった。