衝撃的かつ、刺激的に
圧倒的存在感であった。
月に届くのではないかと錯覚するほどの巨大な体を美しく煌めかせ、全身のあちらこちらから漏れ出る蒼い炎が熱をもって自己主張をしてくる。
その雰囲気に呑まれ、界斗は喋ることは愚か、指一つ動かすことができなかった。
ただ、少女だったものを遠目から見ているだけしかできない。
龍は低い呻き声を上げながら、怪物を睨みつけている。
蛇に睨まれた蛙とはこういうことを言うのだろう。怪物も界斗と同じように固まっていた。
先ほどまで噛みついていた相手が突然に姿を龍に変えたのだ。
怪物が人間のように思考するかは解らないが、固まってしまうのも無理がないと感じた。
龍が唸るたびに、体から蒼い炎が漏れ出している。
相当頭に来ているらしい。瞳は刃物のように鋭く、全身をワナワナと震わせ、口を歯が折れてしまいそうなほどに噛み締めている。
直ぐに襲い掛からないのは、どうしてやろうかと考えているのか、それとも焦らすことで怪物を恐怖させようとしているのか。
どちらにせよ、怪物が無事に事が終えられるとは到底思えぬ迫力であった。
龍はゆっくりと顔を近づけ始める。
怪物は依然として動けずにいた。
「————————————―っ!!」
すると、龍が不意に咆哮した。
これに界斗はようやく体が反応し、なんとか耳を塞ぐことができた。今度こそは、頭の中を引っ掻きまわされるのを回避することができた。
目の前で咆哮を食らった怪物とは言うと、キャンキャンと犬のような鳴き声を上げながら、体の向きを反転させて、脱兎のごとく森へと駆け出していた。
いつの間に気が付いていたのか、残りの二匹も同じように続いていく。
やがて、龍が咆哮をやめると、この場には龍と界斗だけが取り残され、急に静けさが辺りを包む。
界斗は耳から手を放し、ホッと安堵の息をする。
だが、それも束の間。
目標を見失かった龍は界斗の方へと顔を向けた。
鋭い瞳に射止められた界斗は、再び体を強張らせる。
下しかけの手をそのままに、目を合わせた状態に動けずにいた。
何を考えているのか、龍はこちらに向きを変え、ゆっくりと歩み始めた。
界斗の心臓はどきりと跳ね上がり、全身から冷汗が湧き出るのが解った。
その歩みはゆっくりではあったが、逆にそれが界斗の恐怖心を煽り、一歩一歩進むごとに不安を増大させていった。
(ちょ、ちょっと待ってよ! どうしてこっちくるの!?)
龍は怒りの矛先を失い、発散できぬそれを界斗に向けようとしているのか、怪物に向けた様に鋭く睨み、低く唸り声を上げて近づいてくる。
少女が龍に姿を変えた。
そんな現実離れした事実を目の当たりにし、界斗の頭は完全に混乱してしまっていた。
思考を整えようとしても、情報と言うピースが乱雑に広げられ、まともに合わせることができない。目の前の事もあり、その整理する作業自体をすることができずにいる。
ただひとつわかるのは、今自分に危険が迫っており、それが恩人の少女かもしれないという事だけ。
龍の顔が触れてしまいそうな程の距離まで近づく。
吐息が界斗の体を包む。体から湧き出る炎は勿論だが、吐息までも熱かった。
この熱さが初めて龍と出会ったあの闇の中で感じたものと同じだと気が付きながら、界斗は指一つ動かせずにいる。
必死に少女の姿を重ねようとしたが、まるで上手くはいかなかった。
少女とは全てがかけ離れており、共通することと言えば、吸い込まれるような蒼い瞳だけだった。
「ま、ま――――」
待って、と言いたかったが、上手く声を発することができない。
話すとはこんなにも難しいものだったか。言葉を覚えたての赤子のように必死に喉から捻りだそうとした。
しかし、そんな思いも空しく、龍の方は先に覚悟を決めたようだ。
唸り声を上げながら上体を反らし、大口を開げ、界斗を目がげて襲い掛かった。
迫る鋭い牙と血のように赤い口内。その先には深い闇があり、界斗誘っているかのように思えた。
見ると、全身を覆っている鱗の中で一枚。丁度の龍の首筋の真ん中に当たる部分にある鱗が逆立って生えているのが解った。
俗に言う逆鱗と言う奴だろう。
触れるとどんなに温厚な龍も忽ちに怒り狂うという。
そう言えば、先程の怪物は少女の首に噛みついていたな、なんて。
感覚がスローモーションのように間延びする中で、そんなことを思っていた。
そうして、界斗は半ば諦めて目をきつく瞑った。
できることなら、自分の身に起こっただけでも————自分がいるこの場所の事だけでも————自分を助けてくれた少女の名前だけでも————どれか一つでも界斗は知りたかった。
思い浮かべるのは退屈と思っていた日常。
歩き慣れた道。
夕暮れの公園。
突然に知らぬ場所で目覚めた時の事。
怪物に襲われた事。
それを蒼い瞳の少女に救われた事。
ペンダントを胸に下げた、恥ずかし気に笑う腐れ縁の笑顔。
龍の牙が迫る最後の一瞬と言える時間。
願わくば届きますようにと、残された力を振り絞って叫んだ。
待ってくれ————っっ!!!
こんなに大きな声を出すのは久しぶりで、掠れた声になってしまった。
しかし、動く気配が不意に止まり、響く自分の声を聴くことができた。
熱い空気が当たる感覚は相変わらずだが、痛みや衝撃は襲って来ない。
一瞬、自分が死んでしまったことを考えたが、手の感覚も、脚の感覚もある。早鐘打つ心臓は、相も変わらず煩く頭の中で響ている。
代わりに聞こえてきたのは――――
「あ」
という間の抜けた声だった。
龍にはあまりにも不釣り合いな子供のような声。
迫力も威厳も無い愛らしい声。
聞いたことのある、不思議と安心感を覚える声。
そんな声がしたかと思うと、瞼の裏が蒼く光に照らされる感覚と、何かが燃えるような音が界斗の耳に入ってくる。
体を包む熱が急に大きくなり、そして段々と弱くって行く。
やがて音が止むと、熱は完全に消え去り、目の前の巨大な気配も小さくなった。
「…………あっちゃー」
また声がした。
今度ははっきりと聞こえ、その主が誰なのかも解った。
「やっちゃったぁ…………」
界斗はゆっくりと目を開ける。
恐らく龍は消え去っていることだろう。
そして、代わりに目の前には、あの蒼い瞳の少女がいる。
確信はなかったが、界斗にはそう思えた。
「どうして私って、いつもこうなのかなぁ……」
目を開いた界斗の視界には、思っていた通りに少女の姿があった。
落ち込んだように地面に膝を着いて、俯いている。
片手で自分の頭を押さえ、自責の念に捕らわれていた。
そこまではいい。
界斗の予想の範囲内であった。
衝撃の連続で頭がパンクしてしまうかと思えたが、落ち着いて状況を捉えていることに自分でも驚いた。
本当は感覚がマヒしてしまっているのだが、問題はない。
それよりも、今、目の前にあるものが界斗の意識を大きく揺さぶった。
本日最大の衝撃かもしれない。
「ごめん!! ホントごめん!!」
と、両手を合わせて少女は界斗に頭を下げる。
だが、界斗の耳には全くと言って謝罪の言葉が入ってはいかなかった。
それがあまりにも衝撃的で、刺激的で――――魅惑的だったからだ。
界斗の視界に映るのは肌色だった。
それに丸みを帯びて、柔らかそうな物体。
スラリと伸びる惹きこまれる曲線。
「いやさ、私ね、こう、首のところをさ、強く触れられたりすると頭がカーッとしちゃって……」
密かにそれをずっと見たいと思っていた。
実際に目にすると、想像以上に強力で、あまりにも危険だ。
本当は目を反らさなければ、塞がなければいけないのだと解っている。
だが、できなかった。
卑しい目は、理性の命令を無視し、それを捉え続ける。
それは界斗自身の本心からの行動なのだから当然であった。
「そうなるとさ、考えてたこととか全部ポーンとどっか飛んでんじゃって……」
そこにはいた。
そこにはあった。
「なんていうか、その、悪気があったわけじゃなくて。決して君の事を怪我させようとしたわけじゃなくて」
――――少女の魅惑的な裸体が。
「つまり、何が言いたいかと言うと、その……」
鼻の奥が熱くなるのが解る。
界斗の瞳は完全に釘付けになっていた。
少女はそれに気が付いておらず、その体を無防備に晒していた。
そして、少女は龍の咆哮のように叫んだ。
「本当に……ごめんなさ――――いっ!!!」
少女の声は風に乗って、天高く舞い上がっていった。