目覚め
最初に目覚めたのは寂れた遺跡のような場所であった。
小さな広場のような場所に、崩れかけのオブジェのようなものがいくつか転々としている。広場は崖に面しており、崖の反対には深い森が広がっていた。
界斗はその一つ。月の光が差し込む、何かの建物(それにしては小さい)のぼろぼろの屋根の下で目覚めた。
始めは頭を打ち付けて、夜になるまで気絶していたのかと思った。
しかし、外に出てその考えも吹き飛んだ。
目の前に広がった見知らぬ風景。咽かえるほどの緑の匂い。どこからか聞こえてくるこの世のものとは思えぬ音。
その全てが界斗の記憶とは合致せず、堪らなく界斗を不安にさせた。
「未來! おーい未來! どこかにいるんだろ!?」
不安に支配された界斗は、恥を覚悟に腐れ縁の名前を叫ぶ。
しかし、いくら叫んでも腐れ縁は姿を見せない。
後に残るのは静寂だけで、吹き抜ける冷たい風が界斗を嘲笑うかのように通り抜け、唸った。
「どこなんだよここは……」
願わくば誰かが答えてくれないかと、独り言を言う。
当然ながら、独り言に返事はない。
「そうだ……!」
界斗は何かを思いついたかのように表情を明るくし、着ていた制服のポケットに手を入れる。
そうして、抜き出された界斗の手にはスマートフォンが握られていた。
指の震えを抑え、電源を付けようとするが――。
「……充電切れ」
気持ちが一気に落ち込んでいくのがわかった。
スマートフォンを乱暴にポケットにしまう。
しっかりと充電していなかったことに酷く後悔しながら、最後の希望が潰えてしまったことを実感する。まるで世界から引き離されてしまったかのようだった。
居ても立ってもいられなくなり、当てもなく歩み始める。
胸を満たす孤独感に界斗は耐えられなかった。
こんな状況になって、初めて自分はずっと孤独ではなかったことを実感したのだった。
腰ほどまでに伸びた草木を両手でかき分けながら、微かに差し込む月の光だけを頼りに進んでいく。
時折、木の枝が服に引っかかり、それを外すたびに界斗の苛立ちは募っていく。
森の中を歩くのは、子供の時、未來と山で遊んだ時以来か。
そんな界斗にとって辛く険しい道のりであった。
時間の感覚も解らず、正しい道を進んでいるかもわからない。
不安感と孤独感は、今も足元から全身を食ってやろうと虎視眈々と狙っていた。
界斗の足取りが段々と早まっていく。
どうして自分はこんな場所で、必死に歩き続けているのか。今すぐこんな状況から抜け出して、いつも通りの日常に戻りたい。きっとこの先にはいつも通りの風景があるはずだ。
そんな思いだけを頼りに進んでいく。
何処からか、界斗のものではない、何かが草木を揺らす音が聞こえた。
ただ風が揺らしただけかもしれない。
だが、界斗を恐怖心で支配するには十分だった。
早歩きほどだった足取りは、さらに早まり、ついには走り出した。
草木が邪魔し、思っているほどに進めない。足を取られ、何度も転びそうになる。枝が頬を切り、傷口が痛み、熱く火照っていく。
呼吸が不自然に乱れ、心臓がバクバクと唸って煩い。
息苦しさに意識が朦朧としてくるが、足を止めることはできなかった。
どれだけ走っていただろうか。
あまり運動のしない界斗の足が棒のようになりながら悲鳴を上げ、息も絶え絶えになった頃。
界斗は木の枝か何かに躓いてしまった。
浮遊感が体を包む。
界斗は声を上げるより早く、顔面から地面へと叩きつけられた。
口で土と砂の味を、耳で地面を擦るを味わった。
痛みに顔を顰めながら、頭を上げると、自分が森を抜けていることに気が付いた。
乱れた呼吸を整えながら立ち上がる。
疲労から立っているのも辛かったが、森を抜けたという達成感の方が強かった。
月明かりが照らす闇の中、目を凝らしながら見渡してみる。
どうやら、ここも目覚めた場所と同じような開けた場所のようだった。岸壁があるだけで、先にはまた森が見える。
脱力感に襲われそうになるが、自分が進んでいることを考え、気持ちを奮い立たせる。
界斗は今すぐ進み始めることを考えたが、体が追い付かなかった。体は休息を求め、叫んでいる。
界斗はとりあえず休憩することにし、岸壁へと近づいた。
岸壁を背に座り込む。足が自分のものではないかのように重く、体中のあちこちが痛んだ。
界斗は荒い呼吸のまま、ぼんやりと空を見上げる。
夜空には星々が輝き、丸い月が界斗を見下ろしていた。
界斗は夜空を見ながら、今の状況がまるで夢のように感じていた。
気が付いたら見知らぬ場所にいて、こんなにも必死に走って、森に囲まれながら夜空の星を見ている。
まるで、この夜空さえもが自分の知らない別の世界のものではないかと思えてくる。
界斗は静かに瞳を閉じ、願った。
どうか、目を開けたら、見慣れた自分の部屋で目覚めて、つまらない学校に行って、いつも通り未來と放課後を過ごす。そんな当たり前が待ってくれていますように。
胸元の龍のペンダントを握る。
思い出されるのは、思い出の場所。未來の恥ずかしそうに笑う顔。胸で光るお揃いのペンダント。
その一つ一つを思い出すたび、冷え切った心に熱が籠っていく。冷たいはずなのペンダントが、今は不思議と暖かいと感じた。
今は、これだけが界斗と界斗の記憶を繋いでいてくれた。
ゆっくりと目を開ける。
目の前に広がるのは、相も変わらず見知らぬ景色。
闇と微かな月の光だけが支配する世界。
孤独に凍えてしまいそうな心を震わせ、帰ることだけを考えるよう努めた。
改めて考える。ここはどこだろうか。
孤独感に迫られ、考えなしに進んできてしまったが、いくら進んでも見知った道に出ないことに違和感を覚える。
どこかの山の中にいるのだろうが、はたしてこんな山などあっただろうか。近所には山と言うには、小さすぎるものしかなかったはずだ。
そもそもにして、どうして自分はこんな場所にいるのか。誰かが運んできたのか? 未來が? どのような理由があって?
何もかもが解らなかった。
確かに解るのは、自分は公園で気絶したという事だけ。それ以降の記憶は存在しない。
もしかしたら、何かの事件に巻き込まれたのではないのか。
界斗は背筋に寒気が奔るのを感じた。
未來の身にも何かあったかもしれない。
そう考えると、いても立ってもいられなくなった。
界斗は、力の入らない体に鞭打ち、岸壁に手をつきながら立ち上がった。
暗闇を睨み、覚束ない足取りで歩き出す。
まずはこの山を下りないと――。
そう思い、再び木々の生い茂る森を目指した。
だが、その時、何かに躓いてしまう。
界斗は地面との二度目のキスを果たし、口の中には土の味が広がった。
顔を上げ、土を吐き出しながら、界斗は不思議に思った。
最初はまた木の根に躓いたと思ったが、近くには岸壁があるだけで、植物は生えていなかった。
それに暗闇で確認しづらかったが、歩き出すとき、足元には何もなかった。
まるで突然現れた何かに躓いたのだ。
界斗はぞっとし、ゆっくりと体を起き上がらせた。
最初に想像したのは、野生動物の類。
山にタヌキやキツネがいるという話を聞いたことはあったが、実際に見たことはなかった。その動物たちにあまり危険なイメージはないが、今の界斗が恐怖する対象には十分だった。
直ぐに立ち上がり、その場を離れようとした時、界斗の足裏に何かが触れた。
界斗は立ち上がらせようとした体を固まらせ、変な体勢のまま動かずに何者かの動きに意識を持っていかれる。全身の産毛が逆立つのがわかった。
何者かは界斗の足に触れたり離れたりを繰り返している。
獣の毛の感覚や柔らかさはなく、岩のように固い。
ただの勘違いであってほしかったが、今度は息をするような声と、体を擦るような音が聞こえてきた。
叫びそうになる声を必死に抑え、嫌に敏感になる聴覚に身を任すほかなかった。
ズリ……ズリ……。
記憶にある動物たちが身を捩って立てる音にしては、大き過ぎる音であった。
まるで、界斗の背よりもずっと大きい生物が眠りを妨げられ、不満そうに蠢いているかのようだ。
嫌な想像ばかりが頭を駆け巡る。
そんなことはありえないと否定しても、この暗闇の中ではその思いを切り離すことが難しかった。
ごくりと唾を飲み込む。その音が嫌に大きく聞こえ、どきりとした。
心臓の鼓動が早まり、破裂してしまうのではないかと思えた。
界斗は思考は凍り付かせ、ただ体を固まらせていると、やがて永遠に思えた時間を突き破り、生暖かい感覚が体を包んだ。
得体のしれない感覚に身を捩ることもできずに、ますます体を強張らせる。
その生暖かい感覚――熱風は一定のリズムで界斗を包み込み、だんだんと大きくなっていた。
「――――っ!!!!」
界斗は声にならない叫び声を上げる。
自然界にこんなものが存在し得るのか。まるで目の前に突然巨大な暖房器具が現れたかのような不可解な存在に理解が追い付かず、ただ恐怖することしかできない。
そうするうちに熱風の強さは増していき、直ぐ近くに感じるようになった。
顔面を襲う熱風に思わず目を瞑る。
このまま目を開けずにいたら、この訳のわからないものが消えてくれないものだろうか。
そんな願いが通じたのか否か、体に当たる熱風は相変わらずではあったが、顔面に当たる熱風は消え去った。
これで再び目を開くことができるようになる。
開きたくもなかったが、界斗は意を決して目を開いた。
そして直後、目を開いたこと酷く後悔した。
目を開けなければ見ずに済んだ。
目を開けなければ知らずに済んだ。
目を開けなければ平凡な世界にいられた。
界斗の瞳が映したのは大きな蒼い水晶だった。水晶に映った自分と目が合う。
しかし、直ぐにそれは勘違いだと気が付いた。
水晶は自分で勝手に動いたりしない。
血管が奔ったりしていない。
圧倒的な意志をこちらに伝えてきたりなんか決してするはずがない。
そう、それは水晶なんかではなかった。そんなものとは、ずっとかけ離れたものであった。
水晶であったら、どれだけ幸せだったか。
理解の及ぶ、現実と理解できるものであったのなら、まだ恐怖することもできた。叫ぶことができた。
それはそれすらもできない、そんなものだった。
思考が溶け、目の前の景色を見つめることしかできない機械となった界斗の目に映るのは――
――蒼く輝く、爬虫類めいた巨大な瞳であった。
不意に瞳が視界から消える。
無意識にそれを目で追いかけると、月の光に照らされ、全体像が見えてきた。
「――――――っ!!!!」
不意にソレは体を仰け反らせ、これまた巨大な翼を広げたかと思うと、大きく雄たけびを上げる。
界斗の鼓膜を突き破りそうなほどに響き、辺りの木々を震わせる。
ソレは蒼い身体をしていた。
月に届いてしまいそうなほどに巨大な体だった。
そして気が付く。先ほどまで岸壁だと思っていたのはこれだったのだ。
「――――――っ!!!!」
再び、咆哮する。
今度は、まるでそれに呼応するかのように全身から蒼い炎が噴き出してきた。
燃えているかのような熱が界斗を襲う。
息を吸うたびに熱が喉を焼き、呼吸さえ覚束なくなる。全身の皮膚と言う皮膚が痛む。
それを苦しいと思う以上に、界斗は感じていた。
その全身から大気へと溶け込んでゆく蒼い炎が。
ステンドグラスのように煌めく、広げられた翼が。
一つ一つが宝石のように輝く鱗が。
ただ、ひたすらに美しいと。
そうして、界斗は意識を手放した。