そして、彼の異世界は始まった
誰かが呼んでいるような気がした。
「ご――――い」
泣いているような。
「ご――なさい」
後悔するかのような。
「ごめんなさい」
聞いたこともないのに、不思議と安心する声。
「これは私の勝手な我儘。この所為で貴方が苦しむかもしれない」
何故謝るのだろう。
会ったこともないのに。
「でも、それでも、貴方だけでもと思ったの」
何のことなんだ。
「貴方だけでも――救けてあげたかったの」
救ける? 何から?
「どうか強く、諦めないで。貴方ならきっと――――」
待ってくれ。
どういう事なんだ?
一体君は――――
そう思ったとき、意識は蒼い光に呑まれていった。
・
初めに感じたのは土の匂いだった。
続いて心地よい風と、木々の騒めく音が感覚として伝わる。
界斗が暗闇の中からゆっくりと意識を引っ張り上げるとともに、頭の奥からズキズキとした痛みが湧いてくる。
痛みに思わず眉を顰めながら、体に感覚が戻って行くのを感じる。
神経が覚醒し、己の体を取り戻す。
瞼は鉛のように重たかったが、体は目覚めることを望んでいた。
ゆっくりと瞼を持ち上げ、朦朧とした意識の中、定まらない視線を漂わせる。
やがて、視界のピントが合ったのと同時に現れたのは、大きな蒼い瞳だった。
「あ、起きた!」
その蒼い瞳は、界斗の気だるげ表情を映し出しながら、界斗に向かって声を発した。
「大丈夫? どこか痛いとこない?」
頭が酷く痛んだが、上手く言葉に出ない。
よく見ると、喋っていたのは瞳ではなく、その蒼さを持つ少女であった。暗闇でよく解らないが、同じくらいの年に見える。
少女は心配そうに界斗の顔を覗き込んでいる。
その表情が、見慣れた顔と被った。
夕暮れの公園。昔遊んだ薄暗い遊具の中。頭を打ち付けて倒れる自分。心配そうにのぞき込んでくるその表情。
だからか、界斗は思わず「未來……」と愛すべき腐れ縁の名を口にする。喉が貼りき、声が掠れていた。
「ミライ? ミライってどこのこと?」
痛む場所と勘違いしたらしい少女は、界斗の言葉に不思議そうに首を捻った。額を愛らしく顰め、特徴的な蒼い瞳が疑問に染まる。
その様子に可笑しくなった界斗が小さく笑みを溢す。
界斗は少女に不思議な懐かしさを覚えながら、自分の体の感覚を確かめた。
強く打ち付けたためか頭は酷く痛んだが、それ以外は何も問題がない。手足は動くし、視界も今でははっきりとしていた。
続いて今の状況を確認しようと、体を起こそうとしながら、記憶を手繰り寄せようとして――。
――思い出した。
蒼く、強大な体。視界を埋めるほどの大きな翼。鋭い爪と牙。鼓膜を破りそうなほどの咆哮。界斗の体を襲う焦がすような熱。
そして、全身から湧き出る恐ろしくとも美しい蒼い炎――。
「そうだ!!」
界斗は、起こしかけの体を飛び起こさせる。
その時に少女と頭がぶつかりそうになり、少女は思わず身を引いた。
「きゅ、急に何さ!」
先ほどまで、苦し気に倒れていた奴が急に起き上がったのだ。少女は驚いたように声をあげる。
しかし、界斗にそんな事を気にしている余裕はなかった。
脳に景色が、声が、熱が焼き付き、界斗の脳で警告音がけたたましく鳴り響く。
「ド、龍だ!」
「龍!?」
界斗は叫んだ。
どれ程、時間が経っているかは解らないが、まだ近くに龍がいるかもしれない。
そう思ったら、いても立ってもいられなくなった。
「そう龍! 俺、さっき見たんだ! でかくて蒼くてなんか体中から炎が出てるやつ!」
記憶の中の龍は、あまりにも現実離れしていたが、あの時に感じた熱さは夢には思えなかった。忘れていた恐怖感が蘇ってくるのもわかる。
しかし、界斗の言葉に少女はあまり危機感を感じてはいないようだ。焦りを感じない表情で、界斗を見ている。
「へ、へぇー、龍ね。ま、まっさかー、夢でも見てたんじゃない?」
頭でも打った?と言う彼女は、まるで信じていないようだった。
冷静に考えれば当然である。
龍なんていうファンタジーな存在を信じろという方が難しいかもしれない。
だが、界斗にはまぎれもない現実で、つい先ほどのことなのだ。
「本当なんだよ! 君は見ていないのかい!?」
界斗は両手で少女の肩を掴み、必死さを伝えようとする。
少女は掴まれた時に「おうっ」と言うだけで、その表情に危機感は現れない。
界斗は自分の気持ちが伝わらないことに、もどかしい気持ちになる。
そもそもにして、どうして自分は龍を見たのか。
あの遊具の中で頭を打ち付けて、どうしたのか。
少女の吸い込まれるような蒼い瞳を見つめながら、界斗は思い出していた。
今度は龍と出会う、その以前の記憶を――。