プロローグ
その日は、いつも通りの当たり前の平凡な始まりだった。
朝、自分の部屋で目覚め、眠い目を擦りながら制服に着替え学校に行く。そうして退屈な授業、少しだけ億劫な人間関係に耐えながらも時間を平穏に過ごし、それにも開放され、自由とささやかな幸せを味わって一日を終える。そんなごく普通の、ありふれたものであったはずだ。
しかし、目の前にあるのは、そんなものからほど遠い、非日常で非現実な現実。
見知らぬ場所。爛々と身を照らす青い光。溶けてしまいそうなほどに全身に伝わる熱。
体が燃えるように熱いのに、頭が混乱し、まるで現実感がない。夢のようにふわふわとした感覚で満たされている。
「――――—―!!」
不意にソレは体躯を反らし、天高く咆哮した。辺りの木々を揺らし、鼓膜を強く振動する。その体躯の端々から青い炎が漏れ出し、月の光を浴びてキラキラと輝く。広げられた大翼は宝石のように煌めき、光りを放っていた。瞳からも蒼い炎が涙のように零れだし、大気へと溶け込むように消えていく。
視界を埋めるほどの巨体、大きく広げられた翼、地面に食い込むほどの逞しく鈍重とした脚。轟音を放つ口からは、鋭い刃のような歯が何本も伸び、蒼く照らされている。
こういう存在を様々な場所で、媒体で見たような気がする。
自室やどこかの店舗で。
本やなにかのゲームで。
しかし、それは誰かの手で作られた虚構であるはずだ。そうでなければならない。現実であってはならない。誰だって言葉でその存在を望んでも、心では恐れているハズだ。
こんなものが存在していれば、当たり前の日常が破壊され、平穏や幸せというものが失われてしまうことが解っているから。
だから、無意識に否定する。ありえない、夢であると口にする。
でも、そんな思いも、目の前のソレには通じない。今だ鳴り響く咆哮は、蒼い炎ともに燃え上がり、空を焦がしている。
目の前で圧倒的存在感を脳内へと叩き込むソレは、世界中で人気なキャラクターとして、時に畏怖の対象として人々に愛されているものだった。
そう、ソレは紛う事無き龍であった。
彼もありえない、夢だ。そう言いたかった。
朝目覚めたときの辛さも、こうるさい母の顔も、歩きなれた道も、退屈な学校の風景もすべて覚えている。さっきまであった自分の日常だ。それこそが本物だ。
こんな、まるで、ファンタジックでお伽噺のようなことが現実とは思いたくなかった。
しかし、視覚が、聴覚が、触覚が現実だと叫んでいる。どう否定しても、今が直ぐに全てを引き戻す。
記憶の世界と今が地続きであると示している。
本能的恐怖が身を包み、体が自然と震えだす。
今まで感じたことのない命の危機という感覚が頭で溢れ出す。
本能が今すぐ逃げろと叫びだす。
この龍がどんなものかは知らないが、きっとこのままでは危険であるだろう。彼の知っている龍とはそういうものであった。
それでも彼は、轟音に脳みそを揺らされながらも、耳を塞ぐことはできなかった。
どれだけ恐ろしくとも、目を閉じることができなかった。
ありふれた日常に帰りたくとも、動き出すことができなかった。
ソレがあまりも恐ろしく、巨大で、そして何より―――
―――とても美しかったから。