陽介――4
何とか終わらせることができた。
小五郎さんの時にも思ったが、この時代のアマチュアのレベルはかなり高いようだ。終盤で逆転をかけてコウ争いでも起こされたら、とても持碁になんて持ち込めない。
とすれば、終盤まではあえてリードさせたほうがいいのだろうか。
はぁ、変なところで考えることが多いなあ。
とはいえ、それから一週間くらいは楽な戦いが続いた。
最初は常連のおじいさんたちだった。それから少しずつ「変なことをしている奴がいる」とうわさが広まり、次に集まってきたのは酒好きのおっさん多数。
飲んでやって来ては、打っていく。そのうちに、最初に一文を出してから打ち始めるようになった。
そして、整地をした後、それは楽しそうに笑うのだ。
打っていて人だかりができる程度には人気になり、心地よい時間がのんびりと過ぎていく。
こんなのも悪くないかと思い始めるくらいに。
その日は突然訪れた。
「こんにちは、一局いいですか」
「ええ、もちろんです。いくらで打ちましょうか?」
「これでお願いします。整地まで打ちますから、番勝負でお願いできますか」
「はい、最後まで打っていただけるなら、どちらでも」
普通の中年男性と、普段と同じやり取り。男は懐から布袋を取り出し、横に置く。
私は中身も確認せずに引き受ける。
こんなふうに置かれたお金は、数えないことに決めている。いくらでも受けますよという自分の覚悟でもあり、回りに対するパフォーマンスのためでもある。
「井上因碩と言います、お願いします」
その名前を聞いて凍り付く。
「内田陽介です、お願いします」
因碩? 今、因碩って言ったのか、この人は。
そうだよ、江戸時代に来てるんだ、そりゃほかの家元もあるよな。
初めて釣れた大物だったが、大物過ぎて持碁うんぬん以前に、勝てるかどうかがまず怪しい。
そもそも、因碩って言われても何人かいるじゃん、誰だよ! 俺がわかる名前で名乗ってよ!
頭が追い付かないままニギリが終わり、打ち始める。初手は小目。
まずい、ここまでまったく頭が働いていない。
相手が本当に井上家なら、序盤数手が一番やばいはずだ。
無理矢理に深呼吸をして、息を整える。心臓はまだばくばく音がしているが、頭の中は多少は晴れてきた。
かつて並べてきた局を思い出す。
相手の武器は知っているが、僕自身は大斜使いではない。研究過程で歴史に埋もれた変化、回りと絡める手段、そういうことを考えていくと、早々にツブされたとしても不思議はない。
そう。だからこそ、あえてその手に乗ってやる。
下手に避けようとして大ケガをするよりは、自分から知った変化に飛び込むほうがいい。
閃きだけの天才である本因坊家に対し、努力と研究で果敢に立ち向かった彼らは、才能の無い僕にとってのヒーローだった。
綿密に作戦を立て、研究し、秘密兵器まで持ち出して序盤の優勢を築いていく。
そして、映画でいうと最後の10分あたりで、覚醒した主人公がぽんと閃いた必殺技でやられていく。
まるでバイキンマンやショッカーのように。
毎度やられているわけではないにしても、吐血しかり、耳赤しかり、ここ一番できちんとお約束パターンにはまるところが彼らの星の巡りだろうか。
とすれば、タイムスリップという特別な経験をした僕がこの物語の主人公ならば、必ず最後には勝てるはずだ。
さあ、大斜で来い。正面から斬り返してやる。