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陽介――2

 

 それまでの僕は、見たこともない風景に吸ったことのない空気に、歩いたこともない距離に、ずっとふわふわしていた。

 そこへ旧定石という冷や水を浴びせられ、一気に現実感が押し寄せてきた。


 僕らは本当にタイムスリップしてしまったのか?


 検討の時にそれとなく聞いてみたが、小五郎さんは本当に現代の定石を知らない。多くの級位者でも知っている有名な変化をだ。

 そして、廃れた定石を知っている。独学でたどりついたのではなく、知っているのだ。


 それにしても。

 ほめてくれるのはいいけれど、くすぐった過ぎるぞ。僕が自分で考えたわけでもないのに、すごい発想だとかよく研究されているとか。

 僕は巨人の肩に乗っているだけだ。インターネットどころか棋書もろくにないのに、こんな強くなった小五郎さんのほうがよっぽどすごいんだけど。


「ねえ、陽介。 考えこむのはわかるけど、ご飯が冷めちゃうよ」

 おっと、いつの間にか女中さんが夕食を運んでくれている。

「ああ、ごめん。ちょっといろいろありすぎちゃってさ。――ねえ、真琴って歴史の成績って良かったっけ?」

「良いわけないじゃん。知ってるでしょ?」


 はあ、と思わずため息がでてくる。

 ざっくり江戸時代と言っても、今から何が起きるかとかペリーが来るまであと何年かなんて、僕たちにはさっぱりわからない。有名人を何人か、大きめの事件をいくつか。

 それも、単語だけ頭に入っている程度なのだ。


 そもそも、江戸時代って確か300年は続いたはずだよな。天保4年って、いったいどのあたりになるんだ?

 本因坊家っているのか? いるのなら会ってみたいが、今は誰になるんだろう。

 道策か丈和なら嬉しいんだけど、サインもらえないかな。

 耳赤の局ってもう打たれたんだろうか。 そういえば流行りの定石は? 大斜ってどこまで研究されてるんだろう。


「でもまずは、明日のご飯のほうが重要だと思うよ」

 真琴が痛いところをついてくる。

 そうだ、問題はそこなんだよなあ。人間、まずは衣食住の確保が最優先なのだ。

 白飯をもしゃもしゃ食べながら、やっぱり考え込んでしまう。


 でも、僕には碁を打つことくらいしかできない。そして、やりたいことがある。


「本物の本因坊と打ってみたいな」


 ぽつりとつぶやいた独り言に、思わぬ答えが返ってきた。

「ふむ。じゃあ、一緒に江戸まで行きませんか? 失礼ですが二人とも、世間知らずもいいところだ。おそらく江戸に行ってもあてなんてないでしょう。

 なに、お礼なんていいんです。あなたは本当に強い。それだけじゃなく、ほかの人とは違った雰囲気がある。ここで恩を売っておけば必ず得になるという、商人としての下心ですよ。気にせず受け取ってください」

 そう言って小五郎さんはいつものように、優しく微笑んでいる。


 そうだ、どうせあてなんかないんだ。ここは甘えられる人がいることを素直に喜んで、流れに任せよう。

 僕は深く頭を下げて、頼み込む。

「よろしくお願いします。右も左もわかりません、道中に常識なども教えてください。ええと、真琴もそれでいいかな」

「はーい、かまわないよ。私は別にやりたいことがあるわけじゃないしねー。」


 こうして、僕たちは三人そろって江戸へと向かうことになった。そうだ、碁だけじゃなくて、いろいろ常識も知らなければならないのだ。

 大雑把な地理くらいならわかるかと思ったが、各地の旧名までは知らない。移動は歩きだから、距離感もむちゃくちゃだ。

 元の時代に戻る方法もわからない。同じように現代から来た人はいるのか? もしくは、もっと未来、あるいは過去から。


 碁がある世界でよかった。これが中世ヨーロッパだとしたら、本当に詰んでいた。

 わからないことだらけのこの世界で、役に立つのかもあやふやなたった一つの武器を手がかりにして、僕は歩き出す。


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