陽介――6
「整地はもう、よろしいでしょう」
その言葉で我に返る。
結果は、持碁。
「あ、はい、ありがとうございました」
無理に絞り出した声はずいぶん上ずっていた。
最後のヨセで、彼はアテコミを打たずに一子をツイだ。2目は損しているはずだ。
横で見ている客たちはおそらく気付かなかっただろうが、このレベルの相手がするようなミスではなかった。要するに、相手がわざとこちらに合わせてくれたのだ。
しかし、なぜ?
僕がその口を開く前に、上からやけに明るい声が降ってきた。
真琴だ、来ていたのか。
「すごいじゃん、陽介! この人、めちゃくちゃ強いんでしょ? 雄蔵さんって人がびっくりしてたよ」
「やはり貴方は、太田雄蔵の一派でしたか。おかしいと思いました、市井のものにこんな碁が打てるはずがない」
「なんですって? 今、太田雄蔵って言いましたよね。いるんですか、この時代に。あの太田雄蔵が?」
「太田さんかどうかは知らないけど、雄蔵さんってイケメンにナンパされたの。さっきまでここにいたけど、もう帰っちゃったよ」
まるで噛み合っていない会話に、三人とも顔を突き合わせ首をかしげる。
最初に笑い出したのは、因碩さんだった。
「はっはっは、なんだ、そういうことか。いやね、あの男が後ろから対局を眺めていたので、貴方のことを安井家かどこかの隠し玉かと思ったんですよ。今の貴方の驚きようから見て、どうやら私の勘違いのようだ」
彼は座り直し、ギラリとした目で僕を睨みつけた。
「そういうことなら、きっちり勝ちを拾っておくんでした」
本当に、この時代の人はすごい人ばかりだ。その眼差しだけで、まるで首元に刃物を突き付けられているかのようなプレッシャーをかけてくる。
しかし僕も臆してばかりはいられない。その目的のための、最高の手がかりが目の前に現れたのだから。
「お願いがあります、あなたを井上因碩と見込んでのお願いです。本因坊家の方と本気の対局がしたいのですが、私には何の伝手もありません。どうか私を戦いの舞台に立たせてもらえませんか」
先ほどとはまた違う、心の奥までのぞき込んでくるような、透明な眼差し。
長い沈黙の後、彼は僕に聞いてきた。
「あなたは、どこの家元で碁を習いましたか」
答えに詰まる。どう言えばわかってもらえるのか、そもそも本当のことを話していいのか。
しかし、嘘をついてごまかし続けられる相手でもないだろう。
「それは……私は、この国の外から来ました。そこで碁を習ったので、この国の家元とはまったく関係ありません。
でも、どこかという質問には、答えることはできません。今のこの地に、碁を通じてのつながりがある人間は、一切いません」
これが精一杯だ。
彼は返事の代わりに、横にあった袋を僕に手渡した。さっきの一局にかかっていたものだ。
開けるように促されて中を見ると、年季の入った印が入っていた。
「これは?」
「井上家の印です。気付かれたかはわかりませんが、私は一度、あなたの対局を後ろから覗いていたんですよ。それを見て、私はこの対局に名前を賭けました。あなたにはそれだけの価値があると思ったからです」
絶句した。僕に対して、そんな大切なものを賭けていただなんて。
「本因坊の首は、あなたに限らず、碁に生きる者全員が狙っています。譲ることはできませんが、一緒に戦うというのなら井上家に来るといい。共に技を磨いていきましょう」
「ありがとうございます!」
一つ一つ、パズルのピースがはまっていくのを感じる。
あと一つ、しっかりと確かめておかなければいけないことがある。
太田雄蔵がいた。雄蔵といえば、秀策との数多くの棋譜が残っている。つまり今は本因坊秀策の時代。ここまでヒントが揃えば、対象は一人しかいない。
「確認させてください。あなたは、井上幻庵因碩――さん? ……で、お間違えないでしょうか?」
「ええ、いかにも」
やった。
長い道のりだったが、ついに今いる時代がわかってきたぞ。今はどうやら、江戸の黄金期の後半のようだ。
主だった強者はほぼ出揃い、御城碁も盛り上がっていることだろう。このまま耳赤の局を白勝ちに塗り替えてやろうかと、黒い欲望さえ浮かんでくる。
いや、その前に秀策が死ぬのを止めなきゃな。たしかコレラだっけ、感染前に家から離すのが一番早いのかな。
盛り上がっている私が、それはそれは大きな勘違いをしていると気付いたのは、それからしばらく後のことでした。




