幻庵
きっかけは、酒の席での他愛のない話だった。
先日旅から戻ったばかりの私は、昔からの友人を誘って飲みに出た。
土産話や相手の近況を肴に、軽く飲むだけのつもりだった。
そこで友人が言ったのだ。「面白い男がいる」と。
「ほう、どんな男だい、そいつは。あんたが言うくらいだ、めっぽう強いんだろ?」
「いや、それがそうじゃないんだ。強いは強いんだろうけどさ、変な手ばっかり打ちやがるんだ。定石なんてあったもんじゃないね」
「だからさ、強いから勝てないんだろ。どれ、私が仇討ちしてやろうか」
「いやいいよ、別に負けたわけじゃないからね」
ずいぶん変なことを、と思った。てっきり負かされて大損したから、大げさに話をしているのかと思えば。
怪訝な顔をしているのを察して、彼は説明を続けた。それを聞き、私は納得する。
「負けもしないが、勝ちもしない。あいつは誰と打っても、持碁に収めて見せるのさ」
賭け碁でそんなことをする度胸はたいしたものだが、別に驚異的な話ではない。私でも、やろうとすればできるだろう。
ただ、そこらの腕自慢が簡単にできるものでもない。
なるほど、持碁で一文か。
金目的でないとするなら、名を売ろうとしているのだろう。おそらく変な打ち方をしているのも、そのせいか。
血気盛んな若者は嫌いではない。もしどこの家元も唾を付けていないなら、私のところに呼んでもいいだろう。
最初はその程度の軽い気持ちで碁会所に立ち寄ったのだ。
対局を数度見てすぐにわかった。この男は、単なる力自慢の若者ではないと。
見たことのない定石、特に布石での立ち回り。それは名を売るためだけの中身のない手ではない。
棋理に適った手であり、新しい発想の打ち方だ。
一朝一夕でできるものではない、我流で身に就くものだとはとても思えなかった。
読みも鋭く、そして早い。
中盤以降の戦い方を見ても、弟子と、いや、自分と比べても遜色のない力を持っている。
私は彼に俄然興味がわいてきた。
大切に書斎の机にしまってある因碩の印を持ち出し、そっと懐に忍ばせる。
命より大切な、井上家の印。彼は、自分の名を賭けるに値する相手だった。
実際に戦って、その気持ちは変わらないどころかますます強くなった。
ツギやナラビなどしっかり守りつつ、遅れていない。右辺でのフリカワリも、しっかり計算できている。形勢判断がしっかりしている証拠だ。
本当に、正体は誰なのだ。誰がこんな男を育て、今まで隠していたんだ。
戦いは終わり、大きなヨセもあらかた終わりかけている。このままだと一目、いや二目は黒がいいか。
その時、視界の端に知った顔が映った。
太田雄蔵、なぜここに。
まさか、いや、確かに彼の碁は奴の打ち方に似ている。まさか安井家と関係があるのか。
偶然にしては出来過ぎており、疑念はどんどん私の中で大きくなる。
やがてヨセも終わりだ。先手が回ってきた私は、あえてコスミツケずに一子をツナグ。
相手が一瞬眉を寄せるのがわかった。これほどの打ち手だ、通じるはず。
――終局。
「ありがとうございました、整地はもう、よろしいでしょう」
「はい、どうもありがとうございます」
彼は深々と頭を下げた。
素晴らしい打ち手だった。彼が最初から勝ちに来ていたら、どんな戦いが待っていたのか。
それを考えると、ほとほと残念で仕方がなかった。