10.遭遇と攻防
アルージェは、位置的にはテムスノーの遙か北側にある国だ。
アルージェの兵たちがやって来たのは、当然北の方角からである。そして港があるのは東側だ。そういうわけで、テムスノーの島を囲む戦艦は、北側と東側に集中している。
その港より、少し南側。
東領に近い崖を登る、小さな団体があった。命綱はない。ロッククライミングの要領で、文字通りよじ登っていたのである。
団体の先頭にいるのは、細身のウォーハンマーを背負った女だ。短い茶色の髪。額に巻かれた鉢金が日の光を受け、鈍く輝いている。
「隊長……。やっぱり港から入ったほうが良かったんじゃ……」
「うるさい。ここまで登っておいて今さら戻れるか。弱音を吐くな」
『隊長』と呼ばれた女は、足下から声をかけてくる兵士に一喝した。
港では現在、多くのアルージェ兵らが上陸を果たしているところであった。上から見ると、まさに芋を洗うような光景である。あの中の一員になった自分を想像した女は、「うぇ」と苦い顔をしてすぐに視線を逸らした。
「確かにこちらはがら空きですが……。正直、もう限界な奴らもいるみたいで――あ」
言葉の途中で、彼らよりも下にいた一人の兵士が、悲鳴を上げながら海へと落下していった。この高さから落ちたら、まず助からないだろう。
「もうゴール寸前じゃないか。情けないね。ほら、お先」
消えた命に憐憫の言葉さえかけることなく、女は疲れなど感じさせない身のこなしで、崖を登りきった。
「隊長と違って、俺らは装備がちょっと重いんですよ……。そもそも人間は重力に逆らえない生き物なんです。それなのに、目的地に垂直に向かう隊長がどうかしてます……」
ぶつぶつと文句を言いながらも、兵士も彼女の後に続いた。ようやく落下の恐怖から解放された兵士は、地面との再会を堪能するかのようにうつ伏せに倒れ込む。
「ガラズチと違うルートで行かなきゃ意味がないんだ。あいつの通った道のあとには、ネズミ一匹すら残りゃしないからね」
「いい加減、ガラズチさんと張り合うのはやめてくださいよ……」
「やだ」
うつ伏せ状態のままダルそうに兵士は言うが、女は一蹴した。
「そもそも、この国の連中って魔法を使うんでしょ? いくらガラズチさんでも全員は狩ることは難しいんじゃないんですかねえ」
「うるさい。アタシがこれまで、何度あいつに敗北を喫したと思ってるんだ。今回こそ首を取った数、あいつよりも稼いでやるんだからな!」
二人が話している間に、他の兵士もぞくぞくと登頂を果たしていた。疲れきっているのか、誰も二人の会話に口を挟んでこない。死んだ魚のような目をしたまま、呆然とその場に座っているだけだ。
戦う前から、命の危機と直面してしまったのだ。彼らの反応も理解できた兵士は、彼らのことはもうしばらく置いておく事にした。代わりに、女へと話しかけた。
「ガラズチさんのほうは別に競っていないでしょうから、そもそも勝負にすらなってないんじゃないんですかね」
「……おい。今勝負になってないって言ったな? アタシを馬鹿にしたな? 落とすぞ」
「いや、違いますって! そういう意味ではなくて――」
兵士はそこで言葉を途切れさせる。言い訳の言葉が浮かんでこないのかと女は一瞬思ったが、兵士の様子がどうもおかしい。口を開けたまま上を見上げる兵士の視線を、女もすぐさま追った。途端、女は弾けんばかりの笑みを浮かべた。
「ほら。やっぱりこのルートで来て正解だろ。さっそく大きそうな獲物がやって来たじゃんか」
上空から彼女らを見下ろしていたのは、翅の生えた黒髪の男――。
蜂の混蟲、ガティスであった。
ウォーハンマーを背負った女が、ガティスと遭遇したその下方。
港では、激しい争乱が繰り広げられていた。
フェンを中心に、半円状に陣形を組んでいる兵士たち。武器を槍に持ち替えた彼らは、地下の入り口に向かって突進してくるアルージェ兵らを次々と倒していく。
槍が本領を発揮するのは、集団戦においてである。前方に向けて構えられた槍が壁のように並べば、リーチの短い武器を手にした歩兵は近付くことすらままならない。そこに、『盾』になるフェンの魔法障壁も加わっているのだ。まさに鉄壁の守りであった。
勇ましく(この場合は無謀とも言えるが)剣を片手に『壁』に突進してくる者も絶えないが、槍の集中攻撃を受けて呆気なく沈んでいくばかりである。
しかしアルージェ兵の進入は防いでいるものの、倒しても倒しても次々とアルージェ兵は上陸してくる。
港から見える限り、アルージェ国の船が海上を埋め尽くしている。一隻に何人のアルージェ兵が乗っているのかはわからないが、兵の総数は数百人どころではないであろう。
一見して完璧に見えるフェン達の守りは、耐久力があるシャボン玉と同じであることは、彼らが何よりも理解していた。
体力が尽きた時、槍が使い物にならなくなった時、精神が持たない者が出てきた時、そして敵側に弓兵が増えた時――この場は一気に崩壊してしまうことだろう。
先ほど兵を負傷に追いやった弓の使い手は、今のところ攻撃を仕掛けてくる様子はない。恐らくフェンの魔法障壁が消える機会を、虎視眈々と狙っているのだろう。
何が何でも、この魔法は維持しなければならない。フェンは奥歯を強く噛み、少しずつ減っていく魔法力から無理やり意識を逸らした。
あくまで冷静に、戦況を見つめるフェン。
今まで、槍で本当に人を刺したことがない部下の兵たち。これは彼らにとって初めての『戦争』なのだ。フェンが見たところ今は何とか平静を保っているようだが、いつ興奮に支配されるかわからない。それにこの武器が、いつまで人の肉、血に絶えうるのか。それも想像がつかないところであった。
「くそっ。次から次にわらわらと湧いてきやがって――!」
フェンは舌打ちをもらしながら、再度光の壁の魔法をかけ直す。
その時だった。
兵士たちの合間を縫って、矢が飛んできたのは。
フェンが張り直した魔法障壁が、矢を弾き返す。だが、瞬き一つの時間でも遅れていたら、今の矢はフェンの目に刺さっていたであろう。
「機会を伺ってたってか」
フェンは思わず苦笑してしまった。自分の行動パターンを、おそらく既に把握されている。
魔法障壁は、フェンがいる限り永遠に続くものではない。少しずつ強度が落ちてくるので、都度魔法をかけ直さなければならない。
フェンは矢を射った人物を探すが、剣の兵士たちの後ろに隠れているのか、見つけることができない。
緊張が高まる。
次にフェンが魔法障壁を貼り直した瞬間、また狙ってくるだろう。その前に対処しておかなければ、形勢は一気に崩れてしまう。
フェンの後方から一人の兵士が飛び出したのは、その時であった。
フェンは何も指示をだしていない。いきなりの単独行動。フェンだけでなく、誰もが声を出すことを失っていた。
飛び出した兵士は、アルージェ兵の波を縫いながら短剣を構え――迷いのない動きで、一人のアルージェ兵の首に短剣を突き立てた。その兵士の手には、弓が握られている。フェン目がけて弓を射ったアルージェ兵だった。
噴き出した血が空を染める。
返り血に身を汚した兵士は、一瞬フェンに振り返り――そして、笑みを浮かべた。
後は頼みます――と口だけを動かして。
周囲のアルージェ兵たちが、一斉にその兵士に向けて剣を繰り出した。
複数の剣が、兵士に容赦なく突き立てられる。
声もなく、その兵士は絶命した。
テムスノー側の守りの要はフェンだ。彼を守るために、兵士は一人飛び出したのだ。
なんて無謀なことを――と、攻める者は誰もいなかった。
フェンは顔を歪ませ、歯を食い縛る。
できることなら、犠牲は出したくなかった。自分の魔法で耐えられるところまでやってやろうと。だが、そんな生易しい状況ではないことはわかっている。
(お前が繋いでくれた命、無駄にしてなるものか。絶対に、ここを守りきる)
フェンの心に呼応するかのように、魔法障壁がさらに大きさを増した。