8.犠牲と気付き
その少し前。
城を出たラディムは、眼前で繰り広げられる混乱劇に圧倒されていた。
国中の人間が集まった城下町。兵士たちが賢明に声を張り上げて落ち着かせようとしているが、焼け石に水だ。兵士たちは元より、人々は一体何が起こっているのか理解していない。大地を震わす振動と音に不安と恐怖を抱き、逃げ回るのみであった。
立ち尽くすラディムの複眼に、ある人影がふと写りこんだ。ラディムは思わず眉を寄せる。なにせその人間の男は、空を飛んでいたのだから。遙か上空を飛ぶ人間は、そのまま城へと真っ直ぐに向かっている。
(混蟲か――?)
しかし、翅が見当たらない。混蟲が空を飛ぶには、翅が絶対に必要である。魔法の力で飛ぶことなどできない。魔法の力で飛ぶには、全身に魔法を巡らせなければ不可能だからだ。魔法の発動媒体が、細かく体の部位別に別れている混蟲だからこその制限であった。
嫌な予感がした。
ラディムは来た道を駆け戻る。
一刻も早く城に――彼の元に向かわなければならない――。
根拠のない、ただの勘だ。しかし確信に似た不安が、ラディムの胸の内を支配していた。
ラディムが再び城内へ戻ると、酷く静まり返っていた。つい先ほどまでここに居たのに、まったく別の空間になってしまったような錯覚を覚える。
まずは謁見の間へ――。
きゅいん、と甲高い音がしたのは、その時であった。
まるで小動物が鳴いたかのような音の後に、爆発音が響いたのだ。悲鳴やガラスが割れる音も混ざっている。紛うことなき異常事態であった。
「なっ――!?」
ラディムは吹き抜けから階上を見上げる。
音の発信源は上だ。
躊躇している暇はない。翅を広げ、勢いよく地を蹴った。
瞬く間に三階へと到達したラディムは、思わず息を呑む。
見慣れた謁見の間が、白い光に包まれていたからだ。
いや、あれは光などではない。
眩しいほどの、白い炎だった。部屋を蹂躙する炎の動きは、まるで激しく蠢く蛇のようだった。
「――っ!?」
恐怖と驚愕に目を見開いたのは一瞬。次の瞬間には、ラディムは謁見の間に向かって駆けだしていた。
「水精よ! 嘆きの雨を我に与えよ!」
無我夢中に魔法の詠唱を叫んでいた。腕に集まる多量の水に、苦手意識を向ける時間さえなかった。
素早く腕を薙ぎ、渦を巻く水を放出する。水の行方を見届けぬまま、さらにラディムは魔法を発動させた。
「大気よ! 我が腕に宿りて荒れ狂う盾となれ!」
続けざま風纏う腕を振るう。既に放たれていた水の魔法に追随する風の魔法。そして風は水と合わさり、謁見の間は一瞬にして暴風雨の間と化した。
水に呑まれ、白い炎は徐々に姿を消していく。蒸発の際に発生した多量の煙が、しばしの間ラディムの視界を染めた。
自身の魔法の水で未知の炎を消火できたことに、ラディムは少しだけ安堵する。今ので消すことができなかった場合、現状ラディムに他の手はない。
しかし安堵したのもつかの間。白い炎と煙に隠されていた謁見の間の全容が露になった瞬間、ラディムはたまらず声を上げてしまっていた。
「くっ――! これは……!」
部屋の中に横たわる、複数の人間。それは役人たちの姿であった。
瓦礫やガラスの下敷きになり、血の海に沈むピクリとも動かない面々。
誰のかわからない四肢がそこらに転がっている。
全身が焦げた者もいた。頭がない者もいた。耐え難い光景と鼻をつくにおいに、思わず顔をしかめてしまう。
変わり果てた姿の彼らを見たラディムは、それでも歯を食い縛りながら謁見の間全体を見回す。
幸いと言って良いのかわからないが、王らしき姿はなかった。おそらく、別場所に移動したのだろう。一瞬だけ安堵するが、凄惨な状況に変わりはない。城の中での役割が違うのでラディムは役人たちと言葉は交わしたことはなかったが、それでもすれ違ったりは何度もしているのだ。
立っている者は、ラディム以外にいなかった。足元にはただただ、絶望が広がるのみ。ここに白い炎を放ったであろう、先ほど空を飛んでいた人間の姿は見えない。壁際の大窓が割れている。あそこから逃げたのか。
「くそっ! 何だってだよ一体!? どうしてこんな酷い――」
「ラディ……ム……」
聞こえてきた細い声に、思わず勢いよく振り返る。
視界から送られてくる情報に、ラディムの頭の中が追いつかなかった。名を呼ばれたというのに、声を出すことができない。
その人物の背面の服は大きく裂かれ、血にまみれていた。肌に張り付いた白色のローブが、元からそうであったかのように赤黒く染まっている。それでも彼は――大臣は、うつ伏せのまま何とか頭を持ち上げていたのだ。
生きている。おそらく、この場で唯一の生き残りであろう。
だが、生存を素直に喜べる状態ではないことは一目瞭然であった。
「奴は……窓から……下に……」
「喋るな!」
ラディムは大臣の元に走り寄る。焼けただれた背から、まだ血が溢れてきていた。流れ出た血がローブのみならず、焦げた絨毯を赤く染め上げていく。ラディムは血の水溜まりに膝を付き、大臣の体を下から支えた。
「あんたには言いたいことが山ほどあるんだ。フライアの婚約の件とか! 今までの恨み辛みとか! 本当に色々とな!」
大臣は何も言い返すことなく口の端を上げる。それがまた、全てを受け入れたかのように――諦めたかのように見えて、ラディムはさらに声を張り上げていた。
「だから、死ぬな。後でうんざりするほど耳元で騒いでやるから。だから、絶対に死ぬんじゃねえ!」
ラディムは翅を体の中に引くと、大臣を背負い、駆けだした。
目指すは一階。イアラの元へ。
彼女ならきっと救ってくれる。まだ、間に合うはずだ。腹に穴が空いた自分が助かったくらいだ。絶対に大丈夫だ――。
自分に言い聞かせるように、ラディムは「大丈夫だ」と胸中で繰り返す。
同時に、第二の家とも呼べる城の中で、このような惨事を起こした人物に激しい怒りも灯していた。
「イアラ先生!」
医務室に飛び込んできたラディムに、複数の視線が一斉に突き刺さる。しかしラディムの背中の人物の負傷具合を見た面々は、悲痛な面もちですぐに目を背けるのだった。
イアラは何も聞かなかった。大臣をベッドに運ぶよう、淡々と指示するのみであった。いつも以上に――まるで全てを把握しているかのような落ち着きぶりにラディムは少しだけ違和感を覚えたが、それを問うところまで頭は回らない。イアラはラディムに小さく微笑んでみせた。
「全力を尽くすわ」
ふわふわとした普段の喋り方とは一変。その言葉には力が込められていた。
イアラは目を閉じ、両手を合わせ、口の中でぷつぷつと詠唱を始める。
医務室内にいた他の人間たちは目を見張る。
イアラが治療のために魔法を使うことは滅多にない。彼女が混蟲だと知っている者は、この場では渦中のラディムと大臣だけであったのだ。だが、それを咎めるような視線は誰ひとりとして送っていない。事のなりゆきを、ただ固唾を呑んで見守っている。
イアラの手に光が纏う。就寝前のランプのように柔らかな光を放つ手を、イアラは大臣にそっと添えた。繊細なガラスの小物に触れるかの如く、慎重に。
イアラの手を離れた光は瞬く間に大臣の全身に広がり、傷口を埋めていく。
ラディムはその光景を身ながら、大臣が混蟲を――魔法の力を忌み嫌っていた理由が、今本当の意味でわかった気がした。
このように、いとも容易く命の破壊・再生を可能にする力。
魔法――。
レクブリックもアルージェも、彼らの狙いは混蟲の扱う魔法である。
事の発端は、全て混蟲にあるのだ。
その事実に、ラディムは胸を掻き毟りたくなるほどの苦しみを覚えた。
魔法とは、とても危険な力。
わかっていたようで、真の意味ではわかっていなかったのかもしれない。あのヴェリスとの死闘を経た時でさえ、そのような考えには至っていなかったのだから。