19.同胞
結局、着替え終えたフライアに最初に気付いたのは、ガティスだった。
彼の視線だけの誘導のままに、フライアはおずおずと部屋の中央まで進み出る。言葉の応酬を続けていたラディムとスィネルも、そこでようやく彼女の存在に気付いたのだった。ラディムの複眼も、常に周囲を把握できるものではない。普通の人間のように『視野が狭く』なることもある。
「おお、よく似合っておいでですフライア王女! 素晴らしいです! 私が選んだ甲斐がありました! 我が屋敷に天使が舞い降りたようです!」
抱きつかんばかりにフライアに急接近するスィネル。ラディムは慌てて彼の服の裾を後ろから引っ張った。まるで人懐こい犬のようであるが、愛嬌があるうえに下心がない分、当然ながら犬の方が何倍もマシである。
しかしスィネルの言うとおり、フライアの衣服はなかなかに似合っていた。
新芽を彷彿とさせる、淡いグリーン色のドレス。翅を出すために背の部分は大きく開いているが、肩から二の腕が隠れているので、いつもと違い清楚な雰囲気だ。
地下で何度も男たちから声をかけられたことを思い出したラディムは、妙な色っぽさが消えたことに少し安堵していた。なるほど、肩を隠せば良かったのか……と一人納得する。
「どれも素敵でしたので、迷ってしまいました」
はにかむフライアの顔は眩しい。
「お気に召されたようで光栄です。あそこにあった服は、全てフライア王女に差し上げますよ」
「え、でも――」
「全てあなた様のために用意したのですから」
フライアの顔がさらに明るくなった。やはり彼女も年相応の女の子なのだ――と、ラディムは少々複雑な気持ちを抱いてしまった。そんな彼女に、これからさらに大きなものを背負わせなければならないのだから。
「じゃあ、全てが終わったら遠慮なく貰いに来るか」
「君のはないよ」
「わかってるって!」
素なのか冗談なのかわからないスィネルに反論したあと、ラディムは気が削がれたように肩を落とした。おそらく、素なのだろうが。
「……そろそろ行こう」
フライアに促すラディムの声は小さく、低かった。スィネルの言動で緊張感が適度に抜けたせいか、不安でいっぱいだった心も、霧が晴れたかのようにスッキリしている。その意味では、ラディムは茶髪の領主に感謝していた。ほんの少しだけ。
「御武運を――」
スィネルは恭しくフライアの手を取り、甲に口付けを落とす。
――まぁ、それくらいなら許してやる。
スィネルの挙動を見て見ぬ振りをしたラディムは、いち早く隠し通路の扉を開けた。
「ガティス、王女様の案内を。できる限り安全そうなルートを、ね」
スィネルの言葉に、黒髪の混蟲は無言で頷いたのだった。
スィネルの屋敷を出たラディムとガティスは、すぐに背から翅を出した。
翅が背から突き出る時の感覚が、何度やっても慣れない。ラディムは歯を食い縛り、声を出すのを何とか堪えたのだった。
体の骨格が変形するのだから仕方がないのかもしれないが、もう少し体に優しい痛みにして欲しい――と何度思ったかわからない。
その彼の複眼には、自分と似たような顔をするガティスの姿が映っていた。
ガティスの翅もラディム同様に透明だが、全体的に若干丸みを帯びている。蜂の混蟲ということが伺えるものだった。
「あんたも翅を出す時、痛かったりするんだ?」
「痛いな。これさえなければ、もっと気軽に空を飛べるのだが」
「良かった。俺だけかと思ってた」
本物の昆虫は翅を広げる度に激痛が襲う、なんてことはないはずだよな――と二人は苦笑する。この痛みを共有できる者ができたことに、ラディムは小さな喜びを感じていた。
フェンもエドヴァルドも、そしてイアラも飛ぶことはできない。混蟲と一言でいっても、それぞれできる事は大きく異なる。
フェンは口周りを隠すことができる。ラディムも腕の突起は隠せるが、複眼は無理だ。エドヴァルドは触覚を隠すことができない。
それらは魔道士の実験が影響しているのか、それとも長い年月がそうさせたのかは、誰も知る由もない。
「私も引っ込めたいなぁ……」
二人を眺めながら洩らしたフライアの言葉は、紛れもなく本心だろう。この目立つ翅がせめて自分の意思でなんとかできるものだったのなら、彼女の人生は大きく変わっていたはずだ。
「いや、本気で痛いからおすすめはしない。それにフライアってすぐ泣くしな?」
「あっ、酷い。私だってきっと我慢できるもん」
「どうだか。『痛いよぅ』と目を赤くする姿が簡単に想像できる」
「な、泣かないもん」
「とか言っている今もちょっと涙目じゃねえか。本当に昔から涙腺が緩いな。ちょっとはダムに溜める努力をしろ。源泉はこの辺か?」
フライアの頭に手を当て、ぐりぐりと回すラディム。フライアは「髪が乱れちゃうよ」と文句を言いながらも、口の端は少し上がっている。
まるで本当の兄妹のようにじゃれ合う二人を見つめながら、ガティスは声を抑えるように笑う。初めて聞く彼の声にハッとした二人は、頬を紅潮させながらばつが悪そうに視線を落とした。
「いや、気にするな。微笑ましいものを見せてもらって嬉しいんだ。……きっと、あんた達なら上手くやれる」
この『計画』も、そしてこれからのテムスノー国のことも――。
ガティスはそこまでは声に出すことはなかったが、何となく彼の言いたいことを察したラディムは、照れを誤魔化すために頭を掻くことしかできない。
「さぁ、行くぞ。町の端を通って街道に出る」
微笑を浮かべたまま、空に浮くガティス。再びフライアを抱えたラディムも、その後に続いた。
城下町での混乱が嘘のように、雲一つない穏やかな空が彼らの上に広がっていた。
東領へと続く街道には、既に多くの兵士がいた。
城下町から続く街道はしばらく一本道が続き、東領へ入る手前で、ようやく西領と南領に分かれる分岐が表れる。既に西と南に向かっている兵士の姿も見えた。
ラディムとガティスは彼らの姿を確認した瞬間、一度地上へと降り立つ。距離は離れていたが、街道の周辺は平原だ。視界を遮るものはまばらに自生している木しかない。もしかしたら、既に見つかってしまったかもしれない。
「思ったよりも早くこっちに来ているな……」
咄嗟に木の陰に姿を隠す三人だが、注意深く見られたら見つかるのは確実だった。その木の幹の幅は、人間一人分ほどの太さしかないのだ。
「ガティス。あんたはこのままスィネルの所へ戻れ」
「だが――」
「一時的に匿ってもらえたし着替えもできた。もう充分だ。それに見つかっても、人間相手なら本気で飛んだら余裕で振り切れる」
「ここは振り切れても、城の方はわからないだろう。囲まれたらどうする」
「……何とかするさ。それより、スィネルの方が心配だ」
東領へ顔を向けるラディムの眉間には、深い皺が刻まれていた。
「あいつの口は普段はいらんことばかりを喋るが、自分の信念に関してだけは非常に堅くなる。心配ない」
同じく東領を見ながら言うガティスの顔には、不安の類は一切浮かんでいない。あのような性格であるが、それでもガティスはスィネルのことを信頼している事が容易に伺えた。
「だから余計に心配なんだ。今は国を揺るがす非常事態だからな。スィネルがこの計画に関わっていることを既に知られていた場合、口を割らせるために何をされるかわかったもんじゃない」
ラディムの言葉を聞いた瞬間、ガティスの瞳に少し翳りがさした。
テムスノー国の兵士は、決して血気盛んとは言えない。それでも『人間と混蟲』という問題を内包し続けてきた国なのだ。他国との接触がないというのに兵士達が日々鍛錬を積んできたのは、秩序を守るためでもあるが、混蟲の魔法に少しでも対抗するためだと言いきっていい。
そしてスィネルは、混蟲がもっと住みよい国にする――という願望を持っている。混蟲のことを快く思っていない人間に知られたら、間違いなく良い印象は持たれない。
「わかった……。とりあえず俺は戻る」
「仮にあいつらが屋敷に来ても、知らぬ存ぜぬを貫いてくれ」
「元よりそのつもりだ。しかし、もうこんな所まで来ているとは――なかなか城の兵士は優秀なようだな。ただ一つ言わせてもらうと、城の警備だけはもう少し厳重にした方が良い。俺が侵入できたくらいだしな」
「貴重な意見をどうも。進言しておくわ。全て無事に終わったら、だけどな」
「……お気をつけて」
案じるフライアに対し、ガティスは深く頭を下げた。
「今さらですが……無礼な行動の数々、申し訳ございませんでした……」
フライアは首を横に振る。気を失っていたので、攫われかけた時のことはフライアは覚えていない。後で状況を聞いたのだが、目の前の青年の殊勝な態度を見ると、怒りや戸惑いも湧いてはこなかった。
「それのおかげで今この状況だ。こっちも計画に巻き込んじまってすまないな」
「お前は本当に悪いとは思っていないだろ」
「……よくわかったな」
正直に答えるラディムに、ガティスは思わず苦笑を洩らしてしまった。
「スィネルとは違う意味で、お前も変な奴だ」
「どうとでも言ってくれ……」
以前エドヴァルドにも言われたことがあるが、そこまで自分は変なのだろうか。いや、周りの方がもっと変だろ――とラディムは自分に言い聞かせる。
「全てが終わったら、一緒に美味いもんでも食おうぜ」
「『美味いもん』なら俺が作ってやる。お前の口に合うかはわからないがな」
「そういえばあんた料理人だったっけ……。じゃあお言葉に甘えて期待しておくわ」
言い終えると同時に、ラディムはフライアを抱えたまま再び空に舞う。
ガティスはしばらくラディムの後ろ姿を眺めたあと、彼らとは反対の方向に飛び立つのだった。