8.二人の王
オデルはこれから一週間をかけ、テムスノー国中を巡行する。オデルにこの国を一通り見てもらうことと、国民達に対し彼の顔見せを兼ねたものだ。その準備もあり、オデルはラディムらと長時間共にいることができない。一時的にオデルは彼らから離れることとなった。
式が終わるまでは、双方の城の関係者は休む間もなくなるだろう。
オデルから提案した『婚約破棄』の話ではあるが、彼と顔を合わせてゆっくり作戦会議を練る時間はない。エドヴァルドと一時的に一緒になる事を快諾したオデルは、「細かい部分は考えておいてね」と彼らに投げ、ひとまずは別れたのであった。
オデルに頼まれた時のラディムの顔がこの上もなく厭そうに歪んだのは、言うまでもない。
「しかしどうすればいいんだ、本当に」
フライアの私室まで戻った二人。ラディムはテーブルに突っ伏し、溜め息と共に言葉を吐き出した。
「あの王子もなかなかに肝が座っているというか……。なんにせよ、オレ達が引っかき回せば良いってことだろう」
「簡単に言うけどさぁ。俺らもどうなるかわかったもんじゃねえだろ? 最悪、この国に住めなくなるかもしれない」
「それはそれでいいんじゃないか? これまでも外の世界に出て行った混蟲はいるわけだし。いざとなれば、まぁ何とか生きていけるだろ」
「楽観的にもほどがあるぞお前……」
片手で頭を抱えながら、ラディムは降参と言った様子で手を振った。常識に少し疎いエドヴァルドとの会話は、ラディムに疲労感を積もらせるばかりだ。
彼らは『外の国』に出て行った混蟲達が、どのような扱いを受け、暮らしたのかまでは知らない。少し考えれば二人には想像できることではあったが、オデルから伝えられた言葉で頭がいっぱいで、今はそこまで考えが及ばなかった。
「ていうかさぁ。お前、本当にいいいのか?」
「何が?」
「その……だから、オデルと……」
明言を避けたラディムだったが、エドヴァルドは彼の言いたいことを瞬時に察知したらしい。深く頷きながら彼女は続けた。
「問題ない。顔は申し分ないほどだ。性格も難ありというわけでもなさそうだしな」
「そういう問題じゃなくて」
「なんだ、もしかして嫉妬か? お前にはフライア様がいるだろう。フラフラするのは良くないぞ」
「違うっつーの! 何で俺がお前に嫉妬しねえといけねぇんだ! ……いや、お前のことが嫌いとかそういう意味じゃなくてだな」
もちろん、エドヴァルドはラディムの気持ちは充分に承知している。冗談に対し、それでもエドヴァルドを傷つけまいと不器用にフォローしようとするラディムに、エドヴァルドは思わず小さな笑みをこぼす。
「わかっている。本当にお前はお人好しだな」
「うるせーよ……」
顔を逸らすその仕草は随分と雑で、照れ隠しだと容易にわかるものだった。
「まぁ心配するな。結婚したら一生そのままでいなければならないわけじゃないだろう?」
結婚があれば離婚もあるのだと、暗にエドヴァルドはほのめかす。オデルが聞いたらどんな顔をするであろうか。
確かにエドヴァルドが言うことはもっともではあるが、夫婦になった者達が――それも王族が――そんなに簡単に離れることができるものだろうかとラディムは考える。が、今はそれ以前の話だ。
目の前にある選択肢は少ない。その中から最良だと思う道を選び、進んで行かなければならない。人生とは意外と自由というものが少ないのかもしれないな――と、ラディムは目の前に立ちはだかる問題に対し、溜め息と交えながら漠然と思うのだった。
「今さら何を言っても、お前の決意は変わらないみたいだな……」
「オレは一度、死んだも同然の身だ。テムスノー国の――陛下やフライア様の役に立てるのなら、この程度のこと苦でも何でもない」
「エドヴァルド……」
地下から逃れるようにやって来たエドヴァルドは、一時的でも匿ってくれたフライアやノルベルトに対する恩義を強く持ち続けている。
彼女の決意の固さをまざまざと思い知らされながらも、それでもラディムは、エドヴァルドが幸せに生きてくれることを密かに願っていた。
親と子であることに血の繋がりは関係ないのだと、目の前で実証してみせてくれた彼女だからこそ、未来は縮れぬ花のようであってほしい。
気恥ずかしいので、その本心は絶対に彼女に伝えるつもりはなかったが。
「とりあえず、まずはフライアに話を伝えてからだな」
当事者不在のまま話を進めるわけにもいかない。ラディムは複眼で扉を見つめたまま、未だ帰らぬ部屋の主を待つのだった。
ノルベルトの私室は、二間続きになっている。片側は、彼の個人的な客をもてなすための空間だ。滅多に使われることのないU字方をしたブラウンのソファーの上に、ノルベルトに促されたエニーナズが腰を下ろした。
ノルベルトはエニーナズと向かい合うようにして座り、フライアはノルベルトの隣に少し離れて座った。
しばらくの間ノルベルトやエニーナズに混じり、他愛もない会話を交わしたフライア。オデルだけ別場所に案内した意図は最初こそ不明であったが、会話をしている内にノルベルトがエニーナズと二人だけで会話を進めたいのだと察知したフライアは、不自然にならない頃合いを見計らって、父の部屋をあとにした。
エニーナズやオデルを城まで案内する――という本日最大の行事を終えた城の中は、既に静けさを取り戻していた。特に最上階であるこの場所は、下よりもさらに静まり返っている。
静寂を全身で受けていると何となく音を出してはならない気分になり、フライアは息を殺しながら廊下を歩く。厚い絨毯のおかげで、歩く音も足音と呼ぶには優しすぎるものにしかならない。
何となくこの無音の空間を一人で堪能してみたくなり、ゆっくりとした足取りで階段まで来たフライア。が、突如弾かれたように視線を跳ね上げ、立ち止まった。
「――?」
周囲を見回すが、誰もいない。
視線を感じた気がしたのだが、気のせいだったか――。
混蟲になってからというもの、フライアは人から注がれる視線に敏感になっていた。いつもは気にしない素振りをしていたのだが、今のは無視できないような……体に絡みつくような、粘りのある視線に感じたのだ。
注意深く再度周囲を見回すが、やはり誰もいない。もしかしたら混蟲に対して激しい嫌悪感を持つ侍女が、通り過ぎざま廊下の奥から注視していたのかもしれない。
いつものことか――。
そう結論付け小さく息を吐いた瞬間、『それ』は彼女の背後に飛び降りてきた。そして階段を下りようとするフライアの口元に、白い布を当てたのだった。
ノルベルトの私室では、依然として二人の王が顔を合わせて座っているところだった。
片や、木の幹のような茶色に、幾つかの白い筋が混ざった髪を持つ王。
片や、陽の光に照らされていないというのに、見事な輝きを放つ金髪の髪を持つ王。
ノルベルト厚みのある白っぽい肌色に対し、エニーナズの肌は小麦色に近い健康的な艶を放っている。
一見して対照的な二人の王だが、共通点もあった。それは、品のある静かな低音の声。
フライアが部屋から去ったあとも、他愛のない話は続いていた。家族のことや食べ物の話は、国境など関係なくどのような人間にも通ずる話である。
ふと、雪が降り積もったかのような沈黙が下りた。次の瞬間、エニーナズの目はまるで鳥類のような力強いものに変わっていた。そしてノルベルトを見据えながら、その低音を発した。
「今、我々は双方の国の歴史が変わる瞬間――その中心に身を置いているわけでありますが」
エニーナズが纏う空気の変化を敏感に察知したノルベルトの眉が、小さく跳ねる。
「なぜ、貴殿は今回の件を受け入れてくださったのか。その真意を問いたい」
フライアの婚約の話を進めていたのは、ノルベルトではなく大臣だ。エニーナズがそのことを知っているとばかり思っていたノルベルトは、僅かに瞼をピクリと痙攣させた。
いや。この王は全て承知のうえで訊いているのかもしれない。
ノルベルトは今回の婚約の件について、複雑な気持ちを抱いていた。
フライアは、大事な一人娘。まだまだ手元に置いておきたい気持ちは強い。
そのフライアは、ラディムによく懐いている。元はノルベルトが、彼をフライアと引き合わせたのだ。
異性を娘の側に置くということ。
当時のノルベルトは、その意味を深く考えていなかった。ただ、混蟲になった直後――あまりにも悲痛な顔を向けてきたフライアの顔が脳裏から離れなくて。とにかく、娘の側に混蟲を――できれば同年代のを――置いてあげたかったのだ。だからフェンからラディムを保護したという報せを受けた時は、かの少年が天からの使いではないかと思ったほどだ。
ラディムと出会ったあの日から、フライアの表情は見違えたように明るさを取り戻した。おそらく、自分ではあの笑顔を取り戻すことは無理だっただろう。
ノルベルトはフライアの心を救ってくれたラディムに対し、深い感謝の念を抱いている。その想いはずっと変わることはない。その二人が互いに抱いている感情に、ノルベルトも気付いていないわけではない。
王として、父として、どのような判断を下すのが正解なのか。ノルベルトは決断できぬままこの日を迎えていたのだ。
だがノルベルトはそれらの感情を一切顔には出さず、エニーナズを真っ直ぐと見つめ返し口を開いた。
「混蟲と人間。双方が協力し合える関係を築きたい。だが、数百年に渡り築き上げられてきた両者の溝は深い。そういう意識的な部分に働きかけるには、我が国だけでは限界があると思い知った」
ノルベルトは言葉を選びながら慎重に告げた。これもまた、彼の偽らざる本心であった。
地下との交流という大きな流れはあったものの、混蟲と人間の間に流れる感情は、それほど劇的には変わっていなかった。
確かに、以前よりは混蟲を受け入れる人間は増えた。それでも、ノルベルトが抱く理想とは程遠い。もっと時が経てば変わっていくかもしれない。だが、このまま変わらないかもしれない。
「なるほど。要は我が国をカンフル剤にしたいと」
エニーナズは気分を害するわけでもなく、ノルベルトが考えていることを淡々と言い当てた。頷き、ノルベルトは続ける。
「もう一つ。我々は混蟲が人間の姿に戻る方法を探している。外の国の者の視点でわかる事があるかもしれぬ――」
それまで動じなかったエニーナズの目元が、初めてピクリと動いた。人間の姿に戻る方法を彼らが探しているとは、考えてすらいなかったのだ。大臣との手紙のやり取りの中では、そのような話は一切出てきていなかった。フライア達が行っている『紅の宝石』の封印の解除は、この時点ではまだ極秘であったのだ。
レクブリック国と繋がることで、フライアの――いや、祖先達の願いでもある『人間の姿に戻る』研究が進むかもしれない――という希望もノルベルトは抱いていたのだった。
「今のままでは、おそらくいつまで経ってもその方法が見つかることはないだろう。千五百年もかけてもわからなかったのだ。どうか、学問の国と呼ばれているレクブリック国――あなた方の知恵をお貸しいただきたい」
「無論。我々がお手伝いできることがあれば、何なりと」
ノルベルトの切なる願いに、エニーナズは躊躇することなく答えた。しかし、その言葉は本心ではない。彼が欲しているのは混蟲の魔法だ。混蟲が人間に戻ってしまうことで、魔法の力も失うことになってしまったら――。
その考えが瞬時に浮かび、エニーナズの心に不安が染み渡る。しかしすぐさま、彼は気を持ち直した。例え混蟲が人間に戻る方法がわかったとしても、先にアルージェ国との問題を解決してしまえば何の問題もない。
「して、そちらのレクブリック国の目的は?」
今度はノルベルトが尋ねた。
今まで、他国と一切交流をしてこなかったテムスノー国。腹の探り合いはノルベルトの得意とするところではない。故に、彼は単刀直入に訊いたのだ。
――面白い。
ノルベルトはエニーナズが今までに見たことがないタイプの王だった。エニーナズは気付かれない程度に小さく口角を上げ、改めてノルベルトの目を見据える。
「テムスノー国は、これまで世界にとって未知の国であった。その未知の国に、最初に接触したのは我らです。正直に白状しますと……他の国に取られたくなかったのですよ」
ムー大陸を研究していた学者達に激震を与えた、テムスノー国。その存在はレクブリック国だけにとどまらず、世界にとっても大変に衝撃であった。世界地図に国が一つ追加されたのだ。これから船を擁する国が、次々と訪れてくるであろう。
ノルベルトの直球な問いに正直に答えたエニーナズだったが、伝えなかったこともある。
混蟲の魔法について既知であることだ。
二人の王は互いの目を見据えた。その奥に潜む感情と真意を見極めようとして。