7.大胆な策
テムスノー城、『胴体』の三階にある客室。オデルとラディム、そしてエドヴァルドは、無言のまま丸テーブルに着いていた。
三人が無言なのは、部屋の中に一人の侍女がいたからだった。侍女はオデルの前に、紅茶の入ったカップを丁寧に置く。軽くオデルが一礼した後、水入りのポットと数個のグラスをトレーごとテーブルの端に置いた侍女は、ラディムとエドヴァルドの方をチラリと見た。
彼女の仕事は『王子』に対してだけであり、自国の人間――とりわけ混蟲の二人には――飲みたかったら自分で何とかしろと、暗黙のまま彼女は告げたのだ。元より、仕事中に王子と同じ物を頂こうなどとは考えていない二人であったので、侍女の視線も特に感情をささくれ立たせるものではなく、静かに受け流すだけだった。
整ったオデルの容姿にはやはり惹かれるものがあるのか、チラチラと熱い視線を送りながら、名残惜しそうに侍女は部屋を後にした。
フライアとエニーナズは現在ノルベルトの部屋におり、様々な書類の手続きをしている最中だ。式典に望む前に、取り交わしておかねばならぬ約束事はそれこそ山のようにある。オデルとラディムらは、彼らの帰りを待っているところだったのだ。
当事者であるオデルが追い出されたのは、当然ながらエニーナズの意向だった。その場で「婚約破棄」の言葉をオデルが言いかねないと危惧したからだ。エニーナズは巧みに、オデルを追い出しても不自然でない言葉を重ねたのだ。
オデルが去り際に「ラディムと会いたい」と言ったところ、ノルベルトは二つ返事で了承した。エニーナズもそれに対しては口出しはしなかった。行動を制限し過ぎると、ノルベルトらに不審に思われてしまうとの考えだろう。そしてすぐに、オデルの居る客室にラディムらが呼ばれたというわけだった。
ふうと、小さく息を吐いたのは誰だったか。
空気が幾分か和らいだ中、オデルは金の頭をキョロキョロと動かした。
「どうしたんだ?」
「誰にも、聞かれていないかなって」
「この部屋の周囲には誰もいない。さっきの侍女も既に離れている」
オデルに答えたのはエドヴァルドだ。初対面の彼らだったが、ラディムとオデルが知り合いということもあり、エドヴァルドもすぐにオデルと打ち解けたのだった。
オデルの欲している答えをすぐさま出したエドヴァルドに、金髪の王子は目を丸くしながら彼女を見つめる。
「……わかるのかい?」
「何となく」
あくまで簡潔に、かつ淡々と答えるエドヴァルド。オデルは小さく感嘆の吐息を洩らしたあと、改めて椅子の上で姿勢を正した。
「僕から、君たちにお願いがあるんだ」
質の良い金管楽器のような低音の声は、いつもより硬い。
「お願い?」
「この婚約を、解消するために」
オデルの口から出てきた言葉に、ラディムもエドヴァルドも瞠目し、息を呑んだ。
「オデル……何を言って……?」
「裏も何もない。そのままの意味だ。僕は、フライア王女と結婚はしない」
部屋を支配するのは、痛いほどの静寂だった。
ラディムとエドヴァルドは互いに顔を見合わせるが、何一つ声を出すことができない。
「もちろん、フライア王女のことが嫌いだからとか、そういう理由ではない。むしろその逆で、彼女には良い感情しか抱いていないよ」
「じゃあ、どうして――」
ラディムは掠れた声でオデルにその言葉の真意を問う。オデルが言ったことがどれほど現実味のないことなのか、ラディムが何よりも理解していたからこそ。
オデルは憂いを帯びた碧眼を床に向け、喉から小石を吐き出すかのように告げる。
「君たちを、戦争の道具になどさせたくないんだ」
「――!?」
突然出てきた想像すらしていなかった単語に、二人はただ目を丸くし、驚愕する。
オデルは話した。
レクブリック国が隣国のアルージェ国に攻められようとしていること。
テムスノー国の魔法のことを、エニーナズが知ってしまったこと。
今回の婚約でテムスノー国を『同盟国』にし、混蟲達の魔法の力でアルージェ国を退けようとしていること。
それらは今まで外の国と交流をしてこなかったテムスノー国に住む二人にとって、まるで夢物語のような――非常に現実味のない内容であった。それでも、テムスノー国がこれから扮するであろう危機は漠然とながらも感じる。
「レクブリック国が攻め入られるなんて、僕だって嫌だ。でもそれ以上に、君たちに傷ついてほしくないんだ……」
「だからって……。それじゃあ仮に婚約を破棄したとして――オデルはどうなるんだよ?」
「そうだね。海に捨てられてしまうかもね」
ラディムを見据え、苦笑しながら軽くオデルは言ったが、その言葉は冗談などではないとラディムもエドヴァルドも瞬時に感じ取る。
レクブリック国民総出で見送られたオデル。さらには式を見届けようと、このような遠い島国に国王まで着いて来ているのだ。今回の婚約にエニーナズがどれほど心血を注いでいるのか、オデルも充分すぎるほどに理解していた。
だが、オデルにはどうしても耐えられなかったのだ。遥か昔、この島に移住してからも苦難の道を歩んできた混蟲達。これ以上、彼らを傷付けるようなことをしたくはなかったのだ。
ラディムらと出会ったことで、オデルは混蟲達が平穏に暮らせる生活を心から願っていたのだ。
「確かに戦争なんて嫌だし、俺たちの力を都合よく使われるのも嫌だけどさ……。俺はオデルが悲惨な目に遭うのも嫌だぞ」
「……君って男女見境なく口説くタイプだったっけ?」
「何でそうなるんだよ!?」
「ちょっと心が動かされてしまったんだ」
本心を口にしただけなのに、なぜ口説き文句と間違われてしまうのか。ラディムが釈然としない気持ちを顔に乗せたところで、オデルは至極真面目な顔で告げる。
「仮にこのまま婚約の話が進んだとして――君は僕とフライア王女が結婚して――耐えられる?」
「それは……」
無理やり考えないようにしていたことを直球で聞かれ、ラディムは口ごもる。
「僕とフライア王女が『夫婦』として会話するのを、見ていられるのか。僕が彼女の肩や腰に手を回しても、君には咎めることはできない。あぁ、世継ぎの問題もあるよね。つまり……そういう、アレだ。それでも、君は耐えることができるかい?」
まるで挑発するような物言いだったが、オデルはラディムを怒らせるために聞いているわけではない。それがわかっていたからこそ、ラディムは何も言い返すことができなかった。
二人が結婚するということは、そういうことなのだ。大切な人が幸せに笑っているのを、自身の心を押し殺してでも見守り続けなければならない。
「すまない。意地悪な言い方になってしまったね。でも、こう言ったほうが危機感が募るだろう?」
正直に言えば、結婚などして欲しくないとラディムは思っている。だが、仮に二人の結婚がなくなったからといって、ラディムにはどうする事もできないのが実情だった。
確かにこの国に混蟲達が移住してきた時は、皆が平等で身分など存在していなかった。だが長い年月の果てに、今は超えたくても超えられない壁ができてしまっているのだ。
「俺はただの護衛で――」
「王子様じゃない、と」
ラディムは頷く。自分にはどうしようもないことなのだと。それでも、オデルは爽やかに笑った。
「僕は、フライア王女の『王子様』になれるのは君しかいないと思っているよ」
「……無理だよ」
吐き捨てるようにラディムは答え、視線を下に落とす。彼を見据えたまま、オデルは糸のような声で続けた。
「本当は、式に出る前に姿を消すつもりだったんだ。式が正常に進行できなくなるまで船に隠れるつもりだった。でも父に勘付かれてしまったのか、その船が帰ってしまってね」
「帰った!?」
「ああ。全てが終わった頃に父を迎えにくるそうだ」
「あなたは、この国に閉じ込められたというわけか」
エドヴァルドの言葉に、オデルは無言で頷いて肯定した。
追い詰められているのは、オデルも同じ。レクブリック国と混蟲を天秤にかけ、混蟲を選んでくれた彼の決意に応えてあげたいと思う。
だがどのようにすれば良いのか、ラディムには全くわからない。自分達もオデルもレクブリックも、皆が幸せになる方法を期限ギリギリまで探したいという思いが強かった。無茶だと理屈ではわかってはいる。しかし心が納得しないのだ。
苦悩する二人の男の間に割って入ったのは、この状況でも無表情を崩さないエドヴァルドだった。
「では、こういうのはどうだ。フライア様とオデル王子は結婚はしない。でもオレたちはレクブリック国には協力する」
ラディムとオデルは首を捻る。エドヴァルドが言っていることは理解できるが、それをどのようにするのかが理解できない。
「要は、そのアルージェ国とやらがレクブリック国から手を引けば良いのだろう? 混蟲がさっと行ってちゃちゃっとそいつらを片付けてくればいい」
「…………」
エドヴァルドの大雑把すぎる発言に、オデルはしばし石像のように固まってしまった。
「あぁ……。こいつ、いつもこんなんだから気にするな」
眉間を揉みしだきながら、ラディムがオデルに告げる。気にするなと言われても、オデルにしてみればそれは無理な話ではあるのだが。我に返ったオデルの顔は難しいままだ。
「その申し出はとてもありがたいが、やはり君たちをそんな危険に晒すわけには……。それに僕がフライア王女と結婚しなければ、この国はただの第三国としてアルージェ国に攻撃することになってしまう。それは益々まずい」
テムスノー国とレクブリック国は、確かに文書で交流はやってきた。だが、正式な『同盟国』の締結はまだ行われていないのだ。
「同盟国になるには、どうしても婚約しなければならないのか?」
「それは、君たちテムスノー国側の都合だね。『交流があるから』という理由だけで同盟国を締結してしまったら、これから次々と他の国とも同盟を結ばなくてはならないだろう? だから『婚約』という強い理由付けが必要なんだ」
「そうなのか……」
国同士の話は、正直なところラディムにはよく理解できなかった。オデルの言葉も、半分も頭に入ってこない。
よくわからないが、面倒なことに代わりはないよな……と考えながら水差しからカップに水を注ぎ、口に持っていく。
エドヴァルドがしれっと言葉を発したのは、その時だった。
「では、貴方とオレが結婚をすれば万事解決というわけだ」
これにはラディムも口に含んだばかりの水を噴き出してしまった。オデルも目を点にしている。
「何言ってんだよお前!? いよいよ頭が壊れたか!?」
「いや。本気で提案しているのだが、そんなに変な話か? 要は彼がこの国に籍を置けば『同盟国』になれて万事解決なのだろう? で、オレたち混蟲がさっと行ってアルージェ国を退ける」
「だからってなあ……!」
「なら他に方法があるのか?」
真っ直ぐと問われ、ラディムは視線を逸らす。
自分と全く関係のない外の国がどうなろうと、正直なところ知ったことではない。しかしオデルの国だ。
レクブリック国を救うべく、父親に差し出されたオデル。だが彼は混蟲達のことを本気で案じ、婚約破棄という無謀なことをしようとしている。この話が土壇場で頓挫すれば、間違いなく彼は無事ではすまないだろう。
オデルを救うためには、根本の問題である『レクブリック国をアルージェ国から救う』以外にない――。
ラディムは諦めたように長い息を吐いた。
「それでもさ……オデルはそこらの人間とは違うんだぞ。王子様だからな?」
エドヴァルドに力なく言ってみるが、やはり単なる悪あがきでしかなかった。エドヴァルドは表情一つ変えない。
「知っている。立場的なもので言えば、お前よりはまだ有利だと思うのだが?」
「ぐ……!」
確かにエドヴァルドは、この国の第二の支配者とも呼べる女王蟻の子供である。地下の掟の事もあり今まで正体を公にしてこなかったが、その掟が無力化した今、それは今後明かしたとしても特に大きな問題にならない事項であろう。
「ていうかそれを差し置いても、自分の人生に関わることをそんな簡単に――」
「そこは問題ない。まあ、オレは王子の好みのタイプではないだろうし、そこは我慢してもらわなければならないが……」
「いや、あの、申し訳ないけれど、僕もさすがに同性とは、その……」
会話に動揺しながら割って入ってきたオデルを、きょとん、と見つめる二人。
どうやらオデルは、エドヴァルドのことを男性だと思っているらしい。まぁそれが普通の反応だよな、とラディムは心の中で呟いた。エドヴァルドは、一見して男性にしか見えない。初見で見抜いたフライアが鋭すぎたのだ。
ラディムはエドヴァルドに視線で問いかける。「言ってもいいのか?」と。だがエドヴァルドはラディムの問いに答える前に、自ら行動で答えた。
「安心しろ。オレは女だ」
「……え?」
惚けているオデルの手を取ったエドヴァルドは、あろうことかその手を自分の胸に当てさせたのだ。
「なっ、えっ、なぁっ――!?」
控えめではあるが、それでも確実に柔らかい感触がオデルの掌いっぱいに広がる。
「信じたか? ということで問題ないな」
あくまで淡々とした態度を取り続けるエドヴァルドとは対照的に、男二人は体の芯に銅を注ぎ込まれたかのように固まっていた。
オデルはその容姿もあり、今までに幾度となく女性達から熱い眼差しや黄色い声を向けられてきた。しかし、女性の大事な部分に触れたのは初めてである。オデルの顔は林檎かと見紛うほど赤く染まり、今にも頭から湯気を出さんばかりだ。
ラディムはそんなオデルを複眼で見つめながら、エドヴァルドのペースに完全にやられてしまった彼が少し気の毒になってしまうのだった。
「エドヴァルド。今後そのやり方は封印しろ」
「なかなか信じそうにない奴には、口で説明するよりこっちのほうが手っ取り早いだろう」
「男として生きてきた年数が長いからって、自分の性を安売りすんじゃねえよ……」
娘を持つ父親とはこんな気持ちなのだろうかと、ラディムは脱力しながらそんなことをつい思ってしまうのだった。
「それは、オレのことを心配してくれているのか?」
感情の読めない顔のまま、エドヴァルドは首を傾げる。
なぜこの同僚は、いちいち言いにくいことをズバリ聞いてくるのか。人より多少常識が欠落しているのは理解できるとはいえ、そこはもう少し察して欲しいとラディムは思わずにいられない。
「あーもう……そうだよ! あとな、見ている周囲の心臓にも悪いからやめろよな!」
「ラディム・イルギナ。やっぱりお前、変な奴だな」
「変で悪かったな! あといい加減フルネームで呼ぶのやめろ!」
「そして、良い奴だ」
春の空を思わせる笑顔を見せたエドヴァルドに、ラディムはぐっと言葉を詰まらせる。そして「そこでその顔は卑怯だろ……」と、口の中だけでモゴモゴと呟いた。
「僕、やっぱりフライア王女と結婚しちゃおうかな……」
傍目から見たら仲が良いとしか形容できない二人に、オデルは思わず本音を吐露してしまうのだった。