5.故郷との別れ
いっそ憎らしささえ感じてしまうほど、晴れやかな空だった。自身の気持ちを代弁するかのような曇天だったのなら、まだ慰めにもなっただろうに。
オデルは細い路地裏から空を見上げていた。そして視界を浸食するシアンを眺めながら、重い息を吐き出すことを懸命に堪える。上に向けてため息を吐いたら、重い気持ちが倍になって自分に降りかかってしまう気がして。
エニーナズがオデルに婚約の件を伝えてからの一ヶ月はとても早く過ぎ、同時に苦痛だった。いつかヴェリスが言っていた『凍てつく時の魔法』を自分に掛けて欲しい――と考えてしまうほどには。
レクブリックの港では、これから盛大なセレモニーが開かれる。オデルがカエルの姿になってから数ヶ月間は民衆の前に姿を現していなかったからか、久々にその姿を見ようと夥しい数の人間が港には集まっていた。
異国の地に赴く、レクブリックの三人目の王子。兄弟たちの中でも一番整った容貌の王子との別れとあってか、港には男性より女性の姿のほうが多く見受けられた。
白と赤の正装に身を包んだファンファーレ隊が、空に向けて晴れやかな曲を鳴らす。音に驚いたカモメの大群が、まるで意図された演出のように港の上空に舞った。
続けて、王エニーナズが本日の主役であるオデルと共に路地裏から姿を現すと、港で待ち構えていた群衆が一斉に声を上げた。興奮で二人に波のように押し寄せんとする群衆を、警備の者たちが必死で押さえている。
レクブリックの新たな歴史を作ることを労う声、婚姻を祝う声、黄色い声、そして決して手の届かない場所に行ってしまうという女性たちの悲痛な悲鳴。
様々な感情と声が合わさった港は、まさに喧噪の坩堝と化していた。砂糖菓子に群がる蟻の方が静かな分、まだ上品かもしれない。
鼓膜を激しく震わせるその声らを振り払うかの如く、二人に続き兵士が先導する人物が四人いた。オデルの『家族』である。
セレモニーで『家族の離別』を演出し、ここでさらに国民の心を得る――ということだ。とんだ茶番だなとオデルは心の中で苦笑するが、そう思っているのは他の『家族』たちも同様であろう。
エニーナズがタラップの前に立ち群衆に向けて片手を上げると、場は瞬時に静まり返った。まるで火事場から一気に海の底へ移動したかのようだ、とオデルはぼんやりと思った。
形式的な挨拶を簡単に済ませたエニーナズは、オデルの後ろへと下がる。オデルは小さく深呼吸をして、改めて群衆の前に立った。見送りに来てくれた人々に、言葉を伝えなければならない。
「皆さん。今日はわざわざ見送りに来てくれてありがとうございます」
オデルの言葉に応え、港には再び歓声が上がる。何秒か待ったのち、オデルは再び口を開いた。
「今日で、僕はレクブリック国とお別れです」
次々と上がる女性たちの悲鳴。他の兄弟達が鬱陶しそうに眉を顰める。
「でも、僕は決してレクブリック国のことを忘れない。今まで、本当にありがとう」
港を三度喧噪が支配した。オデルはそれ以上言葉を発しなかった。用意していた言葉はもっとあったはずなのだが、自分との別れを惜しんでくれる国民がこれほどいるのだと、彼らの顔を見て満足してしまったのだ。
万感の思いを胸に宿したまま、オデルは群衆に向かってしばらく手を振り続ける。その彼に『家族』たちが近付いた。オデルは手を下ろし、彼らと向かい合うようにして立つ。その光景に、群衆の声がいっそう増した。『演出』はこの時点で成功したと言って良いだろう。
「精々、捨てられんように上手くやるんだな」
話したのは屈強な顔つきの一番上の兄だ。生まれながらにレクブリックの次期国王として決定している自信からか、常にその態度は高慢だった。それは別れの今であっても変わらない。
「……兄上も、民衆の心に捨てられないようにしてください」
オデルはにこやかに笑って応える。ただ、その目は笑っていなかったが。港を席巻する喧噪のおかげで、彼らのやり取りは民の耳には入らない。ギリ……と歯ぎしりを洩らし、兄は下がった。
「相手は可愛い『蟲の』お姫様なんだって? 良かったな」
二番目の兄は、言葉の一部を強調しながら笑みを浮かべ、長い前髪をかき分ける。彼は「島流し」だと茶化したかったのだろうと、オデルは兄の言葉の裏の感情を瞬時に読み取った。
「ええ。兄上もお会いしたら驚きますよ。本当に可愛らしいお方でして。さらに品もあり、美しい」
だがオデルの自信に溢れた返答に、兄の眉間に皺が寄った。オデルの反応が、彼が見たいものではなかったからだろう。舌打ちを洩らし、二番目の兄はそっぽを向いた。
「くれぐれも、レクブリックの品位を下げるようなことだけはしないで頂戴ね」
腕を組みながら、紅一点の姉が高慢に告げる。
「姉上もさっさと相手を見つけてくださいね」
羞恥と怒りからか、瞬時に姉の顔は赤くなった。オデルより九つ上の彼女は、既に良い年齢である。オデルは暗に「売れ残り」と指摘したのだ。ささやかな仕返しをすることができて、オデルの溜飲も少し下がる。
継母はオデルに言葉をかけることなく、ただ涼しい顔で佇むばかりだった。血の繋がりのない息子がどこに行こうが、彼女にはどうでも良いのだろう。国民の前で取り繕うことさえしない継母に、オデルは少しだけ寂しさを覚えたのだった。
それにしても、どうしてこうも居丈高な者ばかりなのだろうか。身内とはいえなんだか滑稽で、オデルは思わず乾いた笑いを洩らしてしまいそうになるのだった。
「では乗るぞ」
促したのはオデルの父、エニーナズだ。エニーナズはオデルの式に出席するため、今回のテムスノー行きに同行する。
陸路より航路はその危険度が増す。レクブリック国とテムスノー国との間に渡る海は比較的穏やかだが、嵐が全く発生しないわけではない。王が船に乗ることは、レクブリック国にとって大変に重要な要件であることを意味していた。
エニーナズの促しに、オデルは無言で頷く。そしてオデルは兄弟たちに背を向け、船のタラップに足をかけた。
様々な因縁がある地ではあるが、それでもオデルを育ててくれた地であることに変わりない。名残惜しい気持ちはやはりあった。
もしかしたら、自分がレクブリックの土を踏むことはもう一生ないのかもしれない。
いや……とオデルは小さく頭を振る。未来のことを憂うはやめようと。
(今度会う時は、お互いに丸くなっていたら良いですね。兄上、姉上)
オデルは胸中で呟く。彼の口は、小さな笑みの形になっていた。
船に揺られること、丸十五日。オデルたちを乗せた船は、嵐に見舞われることもなく無事テムスノー国へと到着した。
一度は見たことがあるとはいえ、下から来る者を全て拒むかのようなテムスノー国の断崖絶壁には、やはり圧倒される。前回はよくあれをよじ登れたなと、甲板に立っていたオデルは思わず苦笑を洩らした。あの時に着いてきてくれた従者たちに、オデルは改めて感謝の念を送る。
その断崖絶壁の下のほう、海に面した一部に、前回にはなかったものがあった。
「これは驚いたな……」
オデルは新たに造られた港を眺めながら、感嘆の声を洩らした。
真っ直ぐと伸びた灰色の船着き場。岩を綺麗に断ち、それを並べて造られていた。
銛のように海に突き出た船着き場は、大型の船が四隻は停めることができるほど余裕のある造りだ。
話には聞いていたが、まさか短期間でここまでの整備をするとは。レクブリック国内にある港町でも、ここまでの大きさではない。オデルは混蟲の魔法の力というものを、改めて実感するのであった。
船員達が慌ただしく駆け回り、船は無事港に着いた。
再び降り立ったテムスノーの地。崖を見上げるオデルの胸に、様々な想いが駆け巡っていく。たった数日しか滞在したことのない地ではあったが、既に郷愁が湧き上がってくるほど、テムスノー国はオデルにとって深い存在になっていた。
上陸して、さほど経過していない時だった。オデルが非道く驚き、動揺したのは。
今、降りてきた船が――オデルをここまで連れてきた船が、碇を引き上げたのだ。
港には自分とエニーナズと、数人の従者だけが立っている状態だ。船は彼らを置いて、また大海原へと繰り出して行った。
呆然と、それを見送ることしかできなかったオデル。溶けた鉄を体内に流し込まれたかのような熱を孕んだ焦りが、オデルの全身を支配する。
「船にはまた来てもらう。私を迎えにな。式が終わり、お前が正式にこの国の一員として迎え入れられたのを確認したのちに、私は帰るつもりだ」
エニーナズは出航する船を見据えながら、淡々と呟いた。
オデルは理解した。この措置は、オデルが式から逃げ出さないためのものだと――。エニーナズは、オデルが未だ婚姻に乗り気ではないことに勘付いている。
オデルは血が滲みそうなほど、拳を強く握りしめるのだった。