29.蟷螂蜻蛉と蟻
フライア達が城に帰還してから二日後。深夜の人気のない兵士用の食堂に在るのは、二つの人影。他でもない、ラディムとエドヴァルドだった。
「飲め」
ラディムはエドヴァルドの前に、大きなタンブラーを乱暴に置いた。そのまま背もたれのない、木製の椅子に腰掛ける。
少しひんやりとした空気の中、ラディムとエドヴァルドはテーブルの前に二人並んで座っていた。ラディムが料理長に頼んで、特別にこの時間に開けてもらったのだ。常時であれば混蟲のラディムの頼みなど一蹴されて聞き入れてもらえなかっただろうが、現在彼は地下との交流の一歩を支えた重要人物として一目置かれるようになっていたので、割とすんなりと了承してもらえたのだ。
もっとも、この扱いがいつまでも続くわけではないだろうが。
ラディムとエドヴァルドが何をしているのかというと、端的に言えば歓迎会だった。ラディムなりに自身の気持ちにけじめをつけるため、改めて『新人』を迎えようという……そういうものだ。
「これは?」
エドヴァルドは目の前に出されたタンブラーの中の液体が何であるのか、ラディムに尋ねる。
「蜂蜜ミルク」
「オレは子供じゃないんだが……」
エドヴァルドの目がほんの少しだけ細くなるが、ラディムはどこ吹く風といった様相で答える。
「仕方がねぇだろ。お前、まだ酒が飲める年齢じゃないんだし。俺もお前に付き合って酒じゃなくて蜂蜜ミルクをわざわざ選んでやってんだから、文句は言うな」
他にめぼしい物がなかったから、というのも理由であったが、ラディムはそれは言わずにおいた。
ラディムがそれとなくエドヴァルドに年齢を聞いたところ、十六という答えが返ってきて彼は驚いた。アウダークスが双子が誕生したのは十六年前と説明していたのだが、ラディムはすっかり忘れていたのだ。
年下なのに、自分に対してあのような尊大な態度を取っていたのかと思うと少し腹が立つ。が、今は歓迎会だ。無礼講である。それについては明日以降に指導しよう――とラディムは心の中で決心した。
ちなみに、テムスノー国で酒が飲めるようになるのは十八からだ。実はラディムもつい先日十八になったばかりなのだが、少しでも先輩としての尊厳を保つため、それはエドヴァルドには言わないでおいた。
エドヴァルドはしばらく無言で蜂蜜ミルクを眺めていたが、やがて静かに口を付ける。それを見てラディムもタンブラーを手に取り――。
「お前、いつ王女様に告白をするんだ?」
ぶほぅっ!
エドヴァルドの言葉に、ラディムは口に含んだ蜂蜜ミルクを盛大に噴き出してしまった。
「い、いきなり何言いだすんだ!? いや、それよりお前、今飲む振りをしやがったな!?」
「……もったいないぞ」
机に派手に撒かれたミルクを見ながら、エドヴァルドがやれやれと呆れて言う。
「お前が噴き出させたんだろうが!」
ラディムは机に常備してあった布巾で慌ててミルクを片付けながら抗議する。だがエドヴァルドはラディムの抗議を無視し、目線だけで質問の返答を求めてきた。
「いや、その、言うつもりはないんだが……」
「ふむ……」
ラディムの返答に、エドヴァルドは手を顎にやり何やら思案顔を浮かべる。
フライアとは兄妹のようで、それでいてもっと特別な感情があって、さらには一度キスまでやってしまった仲ではある。
……が、やはり身分の差があることが、どうしても彼は気になっていた。だからフライアから何かしらの反応があっても、ラディムはそこからもう一歩踏み込めないでいたのだ。
しかしそこでラディムはちょっと待て――と硬直する。
そもそもなぜ、エドヴァルドはラディムの気持ちを知っているのか。これまでにエドヴァルドはおろか、ラディムは自身のこの感情に関することは誰にも言った覚えはないというのに。
「実は最初に会った時から、お前の気持ちは知っていた」
エドヴァルドのタイミングが良すぎる返答に、ラディムは顔を引きつらせる。まさか彼女はラディムの心を読んだとでもいうのか。
(それにしても最初に会った時って、ばれるの早すぎないか? 俺ってばそんなに好き好きオーラ出してたってこと!? 何か凄く恥ずかしくなってきたじゃねーか!)
頭を抱えたくなるほどの羞恥心に襲われるラディム。エドヴァルドはさらに続ける。
「お前、オレが自己紹介した時、せっかくの二人きりの時間がこいつのせいで無くなってしまう――って顔をしていたぞ」
「…………」
ラディムは天を仰ぎ、必死で記憶の糸を手繰り寄せる。
あの時そんなことを思っただろうか、と。
(気に入らない奴だと思ったのは覚えているんだが。でもそう言われれば、確かにそんなことも思ったような気がしてきた)
「それほどまでに顔に出てたのか。俺、顔に出やすいタイプじゃないと思っていたんだが……」
「――というのは嘘だ。本当は地下で捕らえられた時に話をしていて気付いたのだが。……お前、オレの言葉に翻弄されすぎだろ」
がたっ!
ラディムは椅子から勢い良く立ち上がると、腕から蟷螂の突起を出して構える。
もちろん、本気で斬りかかるつもりはない。これは単なる威嚇だ。
「くそっ、おちょくりやがって!」
キシャーッと、蟷螂みたいなポーズもついでに取ってみたりする。
「まぁ怒るなラディム・イルギナ。オレはお前を応援してやりたいと思っているんだ」
「散々人をおちょくっておきながらそんなこと言われても、信用できるか」
「お前のような馬鹿みたいに一途な奴は嫌いじゃない」
「馬鹿って! 今俺のこと馬鹿って言いやがったな! 腕力馬鹿のお前には言われたくないわ!」
エドヴァルドは無言のままラディムの手首を握り、少し捻った。
「痛い痛い痛い痛いって! 悪かったって!」
ラディムの叫びに、エドヴァルドは眉一つ動かすことなく彼の手を離した。自分のほうが先輩であるのに何だか既に立場が逆転している気がして、ラディムは歯軋りをしたい衝動を必死で抑えるのだった。彼女が男なら、頭をスパーンとはたいていたであろうに。
「ラディム・イルギナ。オレは身分の差など気にすることはないと思うぞ? そこで一つアドバイスだ」
「アドバイス?」
エドヴァルドの口から出た単語に、腕を擦っていたラディムは呆けたような声を出す。彼女の言葉を本気にしたわけではないが、身分差があることは本当に問題がないのだろうか。
まぁエドヴァルドも一応女性ではあるので、その視点でのアドバイスなら聞いても良いかもしれない――。
いや、期待はしていない。ただ、無視をするのも悪いかなと思っただけである。
ラディムは心の中で必至に誰かに言い訳をしながら、彼女の言葉を待った。
エドヴァルドはラディムをビシリと指差した。ただし、顔は無表情。
「お前は蜻蛉と蟷螂。つまり肉食+肉食の言わば肉食のエリート、超肉食系だ。対する王女様は蝶、つまり儚く捕食される側だ。お前に足りないのはズバリ、肉食の獰猛さだ。もっとガッツリいけ。そして食え、大胆に」
「いきなり饒舌になったかと思えば、何淡々と物騒なことを言ってんだお前は! 無表情で言うから余計怖いわ! そもそも超肉食系って何だ!?」
そこでラディムはある言葉が気になった。『食え』とは、そのままの方の意味で良いのだろうか。
「ちなみに性的な方だ」
「だから俺の心を読むなっての! っつーかそんなことできるわけねーだろ! 却下だ!」
「ふむ。今まで誰とも付き合ったことのないお前にはレベルが高すぎるアドバイスだったか」
「やかましーわッ!」
「本当に、誰とも付き合ったことがないのか。何ならオレで練習してみるか?」
「いや、お前……自分が何を言ってるのかわかってんのか?」
「確かに正直なところ、オレにはそういう男女の心の機微は理解できない。経験したことがないからな。でも、お前なら別に良いかなと思っている」
「ナチュラルにとんでもねえ事言ってんじゃねーよ!?」
「冗談だ。……半分はな」
「…………」
あとの半分が気になるが、ラディムはもう言い返す気力が残っていなかった。これ以上続けると、変な事態になりそうだという危機感があったからだ。ここは強引に流してしまおう。
それにしても、何だかどっと疲れてしまった。少し期待をしていたのに、時間を無駄にした気分だった。
(いや、別に期待はしてなかった。うん、そうだった)
「お前……絶対応援する気がねぇだろ」
「いや、本気で応援してやるつもりだぞ? 面白そうだからな」
無表情のまま言う彼女に、ラディムは堪らず机に突っ伏した。
「面白そうって、俺はおもちゃか」
人の繊細な気持ちを何だと思っているのだろうか、この蟻の少女は。
明日からエドヴァルドにからかわれる毎日が容易に想像できてしまい、深い溜息が勝手にラディムの口から洩れた。
まったく、面倒な奴が同僚になったものだ、本当に。
(面倒だけど……)
そういう騒がしい日々も悪くないかもしれないなと、ラディムは複眼でエドヴァルドの横顔を見ながら思ったのだった。
第2章 密謀の地下編・完