28.テムスノー国の王女
空気が流れることがない場所であるのに、突然ふわりとした風が頬を撫で、ラディムは思わず顔をしかめる。そしてその発生源に驚愕した。
フライアの脚――。
彼女が詠唱をしていた様子はない。フライアの怒りに呼応して魔力が反応しているのだ。それは無言の威圧となり、この空間をさらに制圧する。
(フライア、お前――)
ラディムでも、詠唱なしで魔法を発動させることなどできない。もしや、体内で保管しているヴェリスの宝石が作用しているのか。ラディムの心を得体の知れない不安が蹂躙していく。
フライアは凛とした顔と声で告げる。
「王宮は今まで、地下に手を出すことができませんでした。私どもが不甲斐なかった――。それは否定致しません。でも、私は皆さんの力をお借りして、今日こうして地下に立つことができました。これからはこの地下も、テムスノー国の一部として対等に扱いたい――私はそう考えています」
「そ、そんな……。それでは我らは……」
女王蟻が震えながら声を絞り出す。
「今まで築き上げてきた地位を、いや、この地下そのものを我らから奪うというのか!」
絶叫に空気が震える。しかしフライアは静かに首を横に振った。
「私があなた方から奪うのは、地位ではありません。未来の、捻じ曲げられた命の形です」
フライアは抱えていた紅の宝石を見つめる。魔道士は事の成り行きを見守っているのか、何も声を発さない。
「仮に私があなた達を追い出したら……。そのようなことをしたら、地下はたちまち混乱してしまうでしょう。あなた達がこれまで地下を統率してくださったことについては、王宮としては感謝しております。これからは王宮も地下へ干渉する。私が言っているのはそういう意味です」
「我らは今まで上手くやってきていた。それを突然王宮がとなると――」
「地下での絶対的な地位を確保せんがため、あなた達は非常な掟を作る羽目になってしまいました。この国の王女として、やはりその掟を見過ごしたままにすることはできません」
「……」
強く、はっきりと言い切るフライアに、女王蟻も老婆も言葉を失った。
彼女らも自覚はしていたのだ。ただ、これが正しいことなのだとずっと心に言い聞かせてきた。過ちを認めることで環境が変わることを、恐れていた。
女王蟻の顔色は失われていた。唇も震えている。それは様々な怖れからくるものだった。
今まで祖先達が繋ぎ止めていた地位を失う怖れ。そして、目の前の小柄な少女から発せられる絶対的なオーラと言いようのない屈服感からくる、怖れ。
フライアは彼女の様子を見て、僅かに苦笑を洩らす。
「そんなに怯えないでください。別に断罪しようというわけではないのですから。これからあなた達には、王宮の指揮のもとで地下を統率して頂きたいと思っております」
「そ、それでは……」
「表面上は現状維持――ということになりますね。詳しい部分は、さらに父と相談して詰めていかなければならないでしょうし」
フライアの一言に、女王蟻と老婆が同時に小さく安堵の息を吐くのをラディムは視界の端で捉えた。
「しかし、これだけは約束してください。今後双子の妹さんの命を狙わないこと、セクレトさん達にも近付かないこと。そして――王宮に対し謀反を企まないこと。これだけは約束していただきます。それと」
そこでフライアは、抱えていた宝石を前に掲げた。
「この宝石は、今この場で処分致します」
「な――!」
フライアのその発言には、さすがに誰もが目を見開いた。
「あなた達は強引に混蟲になり続けてきた。命の形を捻じ曲げてきた。それを……今日で終わらせます」
そしてフライアはラディムに目配せをする。ラディムが口を半開きにしていたのは、しかし一瞬であった。
「……了解」
瞬時にフライアの視線の意図を読み取ったラディムは、右腕から蟷螂の鋭い突起をゆっくりと出した。
ヴェリスでさえ知る事のなかった『人間に戻る方法』をペルヴォが知っているはずがない、故にこの宝石を残しておく意味はない――。未練はなかった。
ラディムがこれから何をするつもりなのかわかったのだろう。宝石の中からペルヴォが声を張り上げた。
「穏やかじゃないですね!? その宝石を壊したら僕は魔力を補充できなくなる。そうしたら――」
「一生、出てこなくていいぜ。そこで朽ちていけ」
無機質な声で言い放ち――そしてラディムは右腕を横に振り、宝石を真っ二つに斬った。紅色のいびつな形の宝石は、その鈍い輝きを保ったままあっさりと地に転がる。宝石から、もう声は聞こえない。
これがこの国を二分していた元凶の――あっけない、本当にあっけない終わりだった。
地に転がる宝石を一瞥した後、フライアは静かに口を開く。
「私は、信じています。あなた達なら混蟲としての力を振りかざさなくても、大丈夫なはずだと」
「…………」
「何か、私に伝えておきたい言葉はありますか?」
「いえ……。姫君の寛大な処置、誠に感謝致します」
冷や汗を滲ませながら、女王蟻と老婆はその場に傅き、頭を下げるのが精一杯だったようだ。
何とか終わったか――。
ラディムも緊張で固まった身体をほぐすように、小さく息を吐いた。
「では、私は一度地上に戻ります。連絡はまた後日改めていたします。詳しいお話はそれからですね」
フライアの言葉に、女王蟻は黙したまま頷いた。
「……帰ろう」
そのままくるりと向きを変え、黙って部屋を出るラディム達をフォルミカが見つめていた。
「いいのか?」
ラディムは肘でエドヴァルドを軽く小突く。
生き別れになった、エドヴァルドの双子の姉。しかし彼女は一言もフォルミカと口をきいていない。このまま何も言葉を交わすことなく別れても良いのか――そういう意味を込めてのラディムの言葉だった。
しかしエドヴァルドは口の端に小さな笑みを作っただけで、もう振り返ろうとはしなかった。
「いいんだ。元気そうな姿を見ることができたから……。それだけで、充分だ」
「そうか……」
エドヴァルドの漆黒の目が僅かに揺らめいているように見えたが、ラディムはそれに気付かない振りをした。
部屋を出た途端、フライアはへなへなとその場にへたり込んでしまった。
「おい、大丈夫か?」
「ラディム、ど、どうしよう……。私、大変なことを言っちゃったかも。お父様に怒られちゃうかなぁ?」
フライアは目に涙を溜め、声を震わせる。産まれ立ての小鹿のように身体もプルプルと震えていた。その姿に少し庇護欲をそそられてしまったラディムだったが……。
それにしてもさっきまでの威厳は一体どこへ行ってしまったのだろうか、とラディムは心の中で苦笑した。まるで別の人物が憑依していたかのようだ。
仮にフェンがあの場にいたら、フライアの母ソレイユの再来だと語っていただろうが、それはラディムが知るところではない。
「たぶん大丈夫だろ。陛下ならワインとつまみを片手に『よくやったな』とか笑いながら言いそうだし」
ラディムは適当に言いながらフライアの頭をわしゃわしゃと撫でた。
まぁ冗談めいてそうは言ったが、ノルベルトの度量の広さは本物だから問題ないだろうとラディムは思っていた。なにせ外から来た得体の知れない混蟲の少年を、フライアの護衛に任命したくらいだ。
「そ、そうかな……?」
「そんなに心配すんなって。仮に突っ込まれたら俺も一緒に弁解してやるから」
ラディムのその一言でようやくフライアは安堵したのか、ゆっくりと立ち上がる。そして服の裾を軽くはたきながらエドヴァルドへと向きを変えた。
「あのね……。私、エドヴァルドにお願いがあるの」
「お願い、ですか?」
「うん。私、エドヴァルドとお友達になりたくて……。その、名前で呼んでもらいたいなぁって思っているのだけど……。だ、だめかな?」
両手を胸の前で組み、もじもじとしながら上目遣いでエドヴァルドに告げるフライア。ラディムが言われたわけではないのに、全力で『いいぜ!』と彼は答えそうになってしまうほど、今の仕草は彼の心を直撃していた。
エドヴァルドはフライアの唐突なお願いに目を点にしている。そして頬を指で掻きながら、戸惑いがちに口を開いた。
「えっと、フライア様……。これでよろしいですか?」
「――!」
フライアはエドヴァルドの反応に薄紅色の目を見開いた後――。
「やったぁ! エドヴァルドに名前で呼んでもらった!」
まるで兎のように、小さな体をぴょんぴょんと飛び跳ねさせて喜んだ。
「お前、本当にさっきまでの威厳はどこいった……」
ラディムは思わず脱力してしまった。
だがフライアのこれまでの生い立ちを考えると、彼女の反応も納得できるものだった。彼女には歳の近い、同性の友達は一人もいない。本当に嬉しかったのだろう。
「本当に、変わったお方だ」
全身で喜びを表現するフライアを見て、エドヴァルドの顔から零れたのは溢れんばかりの笑顔だった。ラディムは思わず目を見張る。
『私ね、エドヴァルドは笑ったら可愛いと思うんだ』
不意に、フライアの言葉が彼の中で甦る。
まぁ、確かにフライアの言う通りかもしれないが――。
不覚にも可愛いと思ってしまった自分の心に戸惑い、思わずラディムは眉間に皺を寄せてしまったのだった。
複雑な気持ちを誤魔化すかのように、ラディムはエドヴァルドに話しかける。
「そういや女王蟻の一族って女ばかりなのか? その……男は?」
ラディムは暗に父親のことを聞いたのだが、エドヴァルドは彼の質問の意図をすぐに汲み取った。
「オレも良く知らんが……おそらく、その辺にいるんじゃないのか?」
あっさりと、適当に言い放ったエドヴァルド。彼女にとって、それは今さら疑問に思う事でも、重要な事でもないのだろう。
「……そうか」
ラディムは小さく呟き、それ以上言葉を発することはしなかった。
「それじゃあ、元気でね」
茜色に染まった空の下、地下の入り口でラディム達三人と向かい合っていたアウダークスが、白い歯を覗かせた。
先に地上に出ていたアウダークス達は、地下の入り口手前でエドヴァルドらが出て来るのを待っていたのだ。
「アウダークス。やはり上で暮らす気はないのか」
エドヴァルドが静かに問うと、アウダークスは頷きながら答えた。
「軌道に乗った店を捨てるのはやっぱり未練があるもの。それに何かあったら、今度は姫様が何とかしてくれるでしょうし、ね?」
「が、がんばります」
ウインクしながら振られたフライアは、たじろぎながら答えた。
「……父さん、母さん」
二人を呼んだ後、少し俯いたエドヴァルドをトレノが優しく抱き締めた。
「あなたも元気でね。何があっても、あなたは私達の子供に変わりはないのだから」
「……はい」
答えるエドヴァルドの声は少し震えていた。
エドヴァルドの両親も、結局地下に戻ることになったのだ。ハラビナの管理という仕事がある以上、それは仕方のないことだった。
そしてエドヴァルドは、地上に残ることを選んだ。もう彼女の命が狙われることはなくなったが、フライアの側で恩返しがしたいとエドヴァルド自ら申し出たのだ。
「姫様、そしてラディム君。どうかエドヴァルドをよろしくお願いいたします」
セクレトがフライア達に深く頭を下げる。こういう雰囲気に不慣れなラディムは、視線を忙しなく動かしながら鼻の頭を掻いた。
「はい。エドヴァルドは王宮が責任を持ってお預かりいたします」
フライアの返答に安堵した顔を見せるセクレト。エドヴァルドを抱き締めていたトレノも、名残惜しそうにゆっくりと彼女から身体を離した。
そして大人達三人は、再び地下へと姿を消した。地下の入り口に結界はもう張られなかった。フライアが結界を解除するよう、女王蟻に言っていたのだ。結界は魔法道具の力によるものだった。
「帰るか……」
三人の背中が完全に見えなくなったところで、ラディムはぽつりと呟く。
「うん、そうだね。エドヴァルド」
フライアは尚も地下の入り口を見つめたままのエドヴァルドの名を呼ぶと――。その白く小さな手で、エドヴァルドの右手をきゅっと握った。
「――!? お、王女様!?」
頬を赤く染め、狼狽えるエドヴァルド。ラディムもフライアの行動に目を点にしていた。
「あっ。名前で呼んでって言ったでしょ?」
「も、申し訳ございません……フライア様。その、何を……」
「えへへ。このまま帰ろう?」
「このまま……手を繋いだまま、ですか?」
「うん。ダメ……?」
「だめではないですが……」
そんな女性二人のやり取りに疎外感を覚えつつ、ラディムは一人向きをクルリと変え、とぼとぼと歩き始める。複眼から入り込んでくる夕日がやけに眩しかった。
複雑な気持ちはまだ少しあるけれど、二人の距離が縮まったということでは喜ばしい結果だ。エドヴァルドは女性だから、フライアと恋仲になる心配もない。
(…………ならないよな?)
一抹の不安がラディム頭を過ぎったその時、彼の左手に柔らかな感触が走った。
「え――?」
「もう、ラディム。先に行かないでよ。三人で帰るんだよ」
太陽に負けない眩しい笑顔で言うフライアの右手は、ラディムの左手を優しく握っていた。彼女の頬が少し赤く見えるのは、果たして夕日のせいだろうか。
ラディムは浮つく気持ちを必死で抑える羽目になってしまったので、その後どうやって城まで帰ったのか、よく覚えていない。
「あーあ。閉じ込められてしまいましたね」
掌に乗せた小さな水晶を見つめながら、藍髪の青年――ペルヴォは嘆息した。先ほどまで水晶に映し出されていた『向こう側』の映像は、完全に見えなくなってしまっていた。水晶の中に広がるのは、彼の気持ちを代弁するかのような陰鬱な黒のみだ。
ペルヴォは眼鏡を軽く指で上げ、虚空を見つめる。
ここに閉じ込められてから、数えるのも面倒な月日が経ってしまった。
退屈で死にそうだったが、それでも彼は本当に死にたいとは微塵も思っていなかった。
身体に張り巡らせた魔力を止めれば、たちまち老いが彼を襲うだろう。誇張でも何でもなく、一瞬で骨になってしまう。そのような時間を彼は過ごしてきたのだ。
それでもヴェリスのように眠りにつかなかったのは、水晶の『向こう側』に視える映像が彼に希望を与えていたからだ。
最初に視たのは、蟲の姿が混ざった人間。
一目見て、ペルヴォは確信した。これはヴェリスが作った者達だと。
彼らがムー大陸の崩壊から難を逃れたのなら、きっとヴェリスも無事であるとペルヴォは考えた。そしてヴェリスのことだ。必ずや彼らを探し、この水晶の『向こう側』まで辿り着くだろう。ならばその時まで待とうと、ペルヴォは決心したのだ。
『向こう側』の人間はペルヴォの存在を知ると「混蟲にし続けてくれ」と懇願してきた。ペルヴォはヴェリスの研究を覗いた時の事を思い出し、その望みを叶えてきた。
ただその時、ペルヴォは彼らに『ある暗示』も同時に掛けていた。
――支配せよ。統率せよ。
ペルヴォが彼女らと同化させたのは、支配欲とは無縁の普通の蟻。頂点の『女王蟻』がそこらにいるはずがない。
その彼女らに支配欲を植え付けたのは、自身の退屈を凌ぐためであった。
『向こう側』の世界がペルヴォの暗示の力で少しずつ発展していく様子を、彼は混蟲達から聞く事で、悠久の時を乗り切る糧としていたのだ。
そして今日、ようやく待ち焦がれていたヴェリスの気配を察知したのだが――。彼が千五百年待っていた人物は、既に少年の手によって存在を抹消されていたという。それも、ごく最近。
怒り、失望、憎悪――。
少年の言葉を聞いた瞬間、どれとも言い切れない複雑な感情がペルヴォの全身に駆け巡った。感情に任せて魔力を無駄に放出させない、ギリギリの冷静さは何とか残っていたが。
しかし黄の髪の少年は誤魔化していたが、ヴェリスが遺した物は間違いなくあの蝶の少女の中にある。
少女が宝石を抱え、間近にヴェリスの魔力を感じることができたからこそペルヴォは確信できた。
あそこに、あの国に、彼女を迎えにいってやらねば――。
かつてたくさんの言葉を交わした同僚として。なにより、彼女に淡い想いを抱いていた、一人の男として。例えこの身が朽ちようとも。
彼女と最期に交わした言葉は、もう何度思い返したのかもわからない。自身が研究していた薬の『締め』を彼女に託したのは戯れの意味もあったが、淡い期待もあったからだ。
『その中で選ぶなら、愛情、かな』
あの時いつもの口調で素っ気なく返された言葉に、しかしペルヴォは驚いた。彼女の口から愛情、などという単語が紡がれるとは思ってもいなかったから。
何度思い出しても擦り切れる事のない思い出に浸っていた、その時だった。土を掘り返すような音がペルヴォの鼓膜を叩いたのは。
それは非常に小さな音だったが、無音の空間にいる彼にしてみれば、その音を捕えるのは非常に容易いことだった。
続けて、人の声と気配。
ペルヴォは笑みをこぼさずにはいられなかった。
ああ、ついに。
ついに、ここから連れ出してくれる人間が現れた。ずっと――ずっと待っていた甲斐があるというものだ。
「長かった。本当に長かったですよ。ようやく、運が僕に向いてきたようですね」
ペルヴォは音のするほうへと歩みよる。
さて、まずは彼らにどんな言葉をかけようか――。
鼓動が速度を増していく。このような期待感を抱いたのは、およそ千五百年振りだった。




