16.縮めたくない距離
キャシーの店を出たラディムとフライアは、元来た道を戻り、分かれ道を目指していた。キャシーの描いてくれた地図は簡潔ではあったのだが、それでも分岐の数がかなり多い。しかも、ここよりさらに下の階層まであるようだ。これを自力で行くのは無理だなと、ラディムは口の中だけで呟いた。
「しかし深海に咲く翅、ねぇ。そんな二つ名なんかつけられてたんだな、お前」
「…………」
ラディムが何も考えず軽く吐いた言葉に、フライアは少し寂しそうな顔をして俯いてしまった。
傷つけるつもりは毛頭無かったのだが、軽率だったとラディムは深く後悔をする。
「あっ、いや。そ、その……。俺はその翅、言葉通り澄んだ海みたいな色をしているし、き……綺麗だと、思ってるんだけど」
今のは紛れもなく、ラディムの偽らざる本心であった。しかし淀みなく言葉を滑らせることができなかったので、逆に胡散臭く聞こえてしまったのではないだろうか――と急激に不安になる。
「……ありがとう」
やはりフライアはラディムが気を使ったのだと思ったのだろうか。その礼に、どこか自嘲めいたものが混ざっているようにラディムは感じてしまった。
「違うんだ、俺は本当に――」
「私、ラディムには感謝しているの」
「へ?」
彼の言葉を遮って紡がれたフライアの言葉にラディムは戸惑った。フライアは静かに微笑みながら続ける。
「最近、夢でよく見るんだ。私が混蟲になってしまった時のこと」
小さく息を飲むラディム。エドヴァルドの家で見たあの涙は、やはりそれのせいだったのか。
「あの日を境に、たくさんの侍女さんがお城から離れていっちゃった。そしてお城のみんなの私に対する態度も、ぎこちないものに変わってしまった」
後ろで手を組みながら、フライアは側に転がっていた小石をこつん、と軽く蹴とばした。
今まで一度たりとも、フライアが混蟲になった時の心情について話したことはなかった。数年越しに綴られる彼女の想い。ラディムは静かに、そして真剣に聞き届ける。
「悲しかったけど、それでも私、寂しくはなかったんだ。それはね、混蟲のラディムがお城に来てくれて、そして傍にいてくれたからなの。いつも隣にいてくれたから、私は一人じゃないんだって思えたから。だから……」
フライアはそこで立ち止まると、ラディムに対し頭を深く下げた。艶やかな紫紺の髪が垂れ、彼女の小さな顔を覆い隠す。
「本当にありがとう、ラディム。私の護衛になってくれて」
「…………」
フライアの透明な声が、ラディムの鼓膜を、そして心を大きく震わせた。
ラディムは、初めて自分が混蟲で良かったと思えた。
混蟲であるせいで傷付いていた彼の心は、フライアの言葉に救われた。そして自身の存在がまた、知らぬ内にフライアを救っていたなんて。
こういう時、どういう反応をすれば良いのだろうか。ラディムにはまったくわからなかった。
ラディムがもっと軽い性格だったのなら迷わず彼女を抱き締めていたのだろうが、生憎とそんな度胸は持ち合わせていない。
とりあえず気恥ずかしいのと赤くなった顔を見られるのが嫌だったので、ラディムはふいっと顔を横に背けた。しかしこの行動は正解じゃないなとすぐに思い直す。ここは何か、フライアに言葉を掛けないとならないだろう。
何と言うべきか。
掛けるべき言葉を必死で選んでいたラディムだったが、複眼に映るフライアの表情がいつものものに戻っているのを見て驚愕した。
……早い。もの凄く切り替えが、早い。
おそらく、ラディムが照れ隠しで顔を逸らしたのを容易に見抜かれていたのだろう。だからといって、ここまでアッサリと話題を終わらされるのも寂しい。
まぁそういうマイペースなところもフライアがフライアたる所以ではあるのだろうが。でも、もう少しだけ余韻に浸らせてくれても……とラディムは思わずにはいられないのだった。
そんなラディムの心情など知る由もなく、フライアは瞼を閉じながら静かに呟いた。
「私、エドヴァルドとお友達になりたい。王女と護衛じゃなくて、ラディムみたいにもっとエドヴァルドと近付きたい」
「友達? 何でまた……」
「えっとね、友達になれたら、ラディムみたいに私のことを名前で呼んでくれるでしょ?」
不意打ちすぎる彼女の台詞にラディムの思考が停止すること、約五秒。
「それって、俺はフライアにとってただの友達ということか?」
ラディムは顔を引き攣らせないために、相当の努力を要しながら言った。
「えっ?」
ラディムの言葉の真意が咄嗟にわからなかったのだろう。フライアは目を見開いたまま彼を見つめる。
が、数秒を置いてその意味を理解したのか、頬を苺のように真っ赤に染めながら俯いてしまった。
「あっ、その、ちがっ、ちがわない……けど、やっぱりちが……う?」
終いには顔を両手で覆い隠しながら「うー……」と可愛い唸り声まで上げ始めてしまった。その様子にラディムは安堵し、そしてとんでもない自爆もしてしまったことに気付いた。
フライアもまた、ラディムと同じ心でいたのだ。
気持ちは間違いなくある。だが、今の心地良い距離感を壊したくないのだと。もう少し、このままでいたいのだと。
……恥ずかしい。とても嬉しいが、同時にとても恥ずかしい。
まだ互いに、はっきりと気持ちは伝え合っていない。何となくお互いにわかってはいるものの、どうしても最後の一歩が踏み出せていなかった。しかしこの流れは、これまでの境界線のない関係に終止符を打てる空気だ。
――とは思ってはいるものの。
同時に『今は恋愛に現を抜かしている状況ではない』と、頭の隅の方から別の自分が叫んでいるのも聞こえる。
顔を合わせられぬまま、顔を赤くした混蟲たちは歩き続ける。嬉しくて苦しくてくすぐったいこの心を、早く何とかしなければ。別の話題でも出さねば心臓が持ちそうにない。
ラディムの横を歩き続けるフライアの翅に、坑道内のランプの光が降り注ぐ。瞬間、その青に一瞬オレンジが混じった。それはまるで日が落ちた直後の空ような、美しいグラデーションだった。
瞬きする間に終わってしまった翅の変化だったが、ラディムはその刹那に心を奪われていた。同時に、先ほどまでのむず痒い気持ちがサラサラと粉になり、引いていく。
この翅を地上の人間が「綺麗」だと、いつか堂々と言ってくれる日がきてほしい。きっと皆、心の中ではそう感じている。でもそれを口に出してはならないという雰囲気が、国中に蔓延してしまっている。
人間達から心無い態度や言葉を受け続けながら、それでもフライアは人間のことを嫌いになどなっていない。彼女の優しい心にいつか人間達が気付き、応えてくれる日がきてほしい――。
ラディムは歩きながら、そう切に願うのだった。
しばらく進み続けると分岐に訪れた。フライアはようやくラディムに顔を向ける。その頬からは既に赤みは引いていた。ラディムはキャシーから貰った地図に目を落とすと、無言のまま右を指差した。
フライアがぽつりと声を零したのは、この時だった。
「私ね……エドヴァルドに教えてあげたいの。エドヴァルドには素敵なお父さんとお母さん、そしてキャシーさんがいるみたいから、一人じゃないっていうのはわかっていると思うけれど。でも、他人に助けを求めるようなことは今までになかったんじゃないかな。だからね、人に助けを求めてもいいんだよって、私たちを頼ってもいいんだよって、そう教えてあげたいの」
「フライア……」
本当にこの蝶の少女は、どこまでも優しく、そしてお節介らしい。ラディムはエドヴァルドに対して変な嫉妬心を持っていた自分が、本気で馬鹿らしくなった。
「それじゃ、その意地っ張りな蟻さんの手助けをしに行くとしますか」
ラディムはキャシーから貰った地図を持ち直し、呟く。
「目指すは牢獄だ」
時間は少し、巻き戻る。
昏睡したラディムとフライアを眺めるエドヴァルド。何の疑いもなく睡眠薬入りの紅茶を飲んだ彼らに、彼女の胸の奥がツキリと痛む。
彼らに出した紅茶に、ハラビナの花弁など入れてはいない。あれはその場凌ぎの嘘だった。ハラビナの花弁が持つ本来の効能は、精神を落ち着かせるというものである。
彼らがわざわざ自分を追いかけて来てくれるとは、微塵も思わなかった。たった一ヶ月の間、時間を共にしただけなのに。純粋な彼らの優しさに、エドヴァルドは素直に感謝した。
だからこそ、巻き込めない。
長きに渡って地下を支配している女王蟻の一族は、地下への入り口に結界を張るほど地上の介入を頑なに拒んでいる。その地上の――この国の正式な王女が地下に入ってきたと知られたら、最悪フライアの命が危険に晒されてしまうかもしれない。
これ以上自分と関わった人たちに、迷惑はかけたくない。何としても、ここで諦めて引き返してもらわねばならない。
エドヴァルドはその場を離れ、部屋の奥に移動する。そして紙と羽ペンを用意し、不器用な彼女の願いを文字に込めた。
家を後にしたエドヴァルドは、入り組んだ坑道内を低い姿勢で走り続けていた。
巨大な蟻の巣のように、幾重にも別れた複雑な道。だがエドヴァルドは分岐に迷うことなく、スピードを落とさずに進み続ける。
地下はその構造上、新たな道を作ることが難しい。テムスノー国の地下に張り巡らされた女王蟻の縄張りは、遥か昔に開拓され尽くしていると言っても過言ではない。故に、何十年も――何百年も、同じ構造なのだ。どんなに入り組んだ構造をしていてもそこにずっと住み続けていれば、自然と地理は頭の中に入ってくる。
彼女が目指すのは、地中深くにある女王蟻の居住区、その一角にあるはずの牢獄だ。両親は間違いなくそこにいるだろうと踏んでいた。女王蟻の居住区に近付いたことはなかったが、セクレトとアウダークスから兵士だった頃の話を聞いていたので、場所はほぼ把握している。居住区内を探し回れば、牢獄はすぐに見つけることができるだろう。
エドヴァルドの、両親――。
確かに血は繋がっていない。でも、あの二人は間違いなく自分の両親だった。
物心ついた時には、エドヴァルドは既に自分の境遇を聞かされていた。彼女の命を守るため、酷だと知りながらもセクレトは幼い彼女に告げたのだ。
「お前は本当は私たちの子供ではない。女王蟻の一族、その双子の片割れである」と。
エドヴァルドは幼いながらもその衝撃の事実を受け入れ、そして自身の境遇を理解した。
なぜ自分は男の名前をつけられたのか。
なぜ男が着るような服ばかり着せられるのか。
そしてなぜ、ほとんど外に出してもらえないのか――。
それらの疑問が瞬く間に氷解したからだ。
同時に、両親やアウダークスがどれほど自分に愛情を注ぎ、必死に守ろうとしてくれているのかも知った。だからエドヴァルドは、彼らの心に応えた。
男として生き長らえることが、彼らの、そして自身の幸せに繋がるのなら。
――絶対に、助けに行くから――。
エドヴァルドの漆黒の瞳の奥では、燃え滾る炎のような感情が渦巻いていた。