15.彼らと彼女の事情
キャシー……本名アウダークスは、元々は女王蟻一族に仕える兵士の一人だった。
人間ながら屈強な体と強靭な力を持つ彼は、兵士たちの中でもかなり優秀な者であった。そして彼と対をなすような細い体型ながらも兵士たちから一目置かれていたのが、セクレトだ。
タイプの異なる二人だったが、気は良く合っていた。
互いに切磋琢磨し、日々鍛錬をおこなう日々が続いていた、ある日のことだった。
『緊急の指令がある』と二人が呼び出されたのは、女王蟻の居住の一角にある、小さな倉庫だった。
埃っぽく湿った倉庫の中で待っていたのは、腕に赤子を抱いた老婆。彼女こそ前任の女王蟻を担っていた、その本人であった。頭部から伸びる短く黒い二本の触角が、混蟲であることを如実に物語っている。
老婆の隣には、木製の小さな木箱と銀製のナイフが置かれてあった。
二人は老婆に膝を付き頭を垂れたまま、信じられない言葉を聞いた。
「お前たちに命ずる。この赤子の命を直ちに消せ。殺したらこの木箱に入れて埋めておけ。これは極秘命令じゃ。絶対に他言無用である。もし今後ひと言でもこの件について言葉を発しようものなら――そなたらの命はない」
老婆は呆然としたままのセクレトに赤子を、そしてアウダークスにナイフを押し付け、倉庫を出て行った。
押し付けられた赤子とナイフを前に、二人はただ立ち尽くした。
なぜ、殺さねばならぬのか。
なぜ、自分たちがやらねばならぬのか。
しばらくの間、二人は顔を見合わせることもできず、安らかに眠り続ける赤子をぼんやりと見つめることしかできなかった。
やがて、赤子を抱いたセクレトがぽつり、と呟く。
「この子は、双子の片割れではないのだろうか」
双子、という単語にアウダークスは肩を震わせた。
女王蟻が懐妊し、出産の期が迫っているのは知っていた。だが、産まれたという報せはまだ届いていない。否、公表できなかったのではなかろうか。
産まれたのが、双子だったから。
セクレトは感情を込めず、淡々と言った。
おそらく自分たちがこの赤子を殺した暁に、女王蟻一族に新たな命が加わったと改めて発表されるのであろう。
アウダークスは頭を振る。どうしても納得がいかなかった。無垢な寝顔を晒すこの赤子が、どうして殺されねばならぬのか。
女王蟻一族の双子の掟は知っている。その原因も知っている。それでも、何の罪も犯していないのに存在自体が罪だと決め付けられてしまった赤子の境遇が、納得できなかった。
なにより、自分たちの手を汚したくないという女王蟻一族のやり方が納得できなかった。
一人でなく二人で秘密の共有をすることにより、互いの命を握らせ合って逃げ道を塞ぐ。片方が口を割れば、もう片方の命もなくなる。
ただの兵士だから使い捨てられた。そのことが、アウダークスの心を激しくかき乱す。
「……この子を、生かそう」
言ったのは果たしてどちらだったか。だがアウダークスとセクレトの心は同じだった。
これから一生、秘密を抱え合って生きていくのならば、この小さな命を守る方を二人は選択したのだ。
命令に背いた二人は、赤子の死体を入れる予定だった木箱の中に、倉庫内に転がる木屑やガラクタなどを入れた。腐敗の臭いを演出するため、携帯食料も少量詰める。そして外から釘で打ち付け、容易に開けることができないようにした後、言いつけられたとおりに木箱を埋めた。
二人は木箱の中を確認されることを恐れたが、その後も木箱が掘り返され、開かれることはなかった。直視したくなかったのか、それとも多少の罪悪感があったからなのか、理由は定かではなかったが。おかげですり替えがばれることはなかった。
倉庫からこっそりと連れ出した赤子は、セクレトの家に連れ帰ることとなった。セクレトは既婚者であったが、子どもはいなかった。いきなり赤子を連れ帰ってきたセクレトの妻も最初は驚いていたが、事情を聞くと「子供がいないからちょうど良かったわ」と笑って赤子を出迎えた。
強い人たちだとアウダークスは思った。
殺される運命の子を引き取り、そして密かに育てていくという覚悟を、彼らは瞬時の内に決めたのだ。
でも自分もその内の一員だよなと、アウダークスは自嘲気味に口の端を上げた。
しばらく経ったのち、二人は女王蟻の兵士の職を辞めた。怪しまれぬよう、時期をずらして。そしてセクレトは妻と共にハラビナを管理する仕事に就き、アウダークスは酒場を始めたのだった。
※ ※ ※
換気が追いつかないのか、葉巻の煙が室内に充満してきた。だがその臭いを感じないほど、ラディムとフライアは呆然としていた。
「セクレトたちが捕まった、か……。となると、何らかの理由で赤子を殺していなかったことがばれてしまったのね。いずれ私の所にも女王蟻の手の者がやって来そうだわ。まったく、ようやく店が軌道に乗ってきたってところなのに」
「キャシーさん……」
「そんな顔をしないで王女様。私たちは過去の行動を全く悔いていないのよ。それに、私は簡単に捕まるようなタマじゃなくってよ」
キャシーは葉巻を咥えたまま、ニヤリと不適な笑みを浮かべた。
もしかしてキャシーは身元を隠すためにわざとこんな格好をしているのでは――とラディムはふと思った。このピンク色の部屋も、『なりきる』為のものではないのかと。しかし先ほどの自分に対する目線は本気で身震いをしたので、元々そういう素質はあったのかもしれないが。いや、今はキャシーが元々オカマだったのかそうでなかったのかは、心底どうでも良い……とラディムは心の中で頭を振る。
「あの、キャシーさん。もしかしてその双子の片割れがエドヴァルド……なの?」
フライアの問いかけに、キャシーは諦観したような笑みを浮かべた。
「そのとおりよ。セクレトが連れ帰った赤ん坊が、エドヴァルドなの」
「…………」
話の途中で薄々感付いてとはいえ、はっきりと断言されると、やはり言葉を失ってしまう。
「それにしてもこの話を聞いてもエドヴァルドの性別に驚かないとなると、あなたたちは知っていたわけね」
「……はい」
「やはり、年齢が進むにつれて誤魔化せなくなってきた、か……。セクレトたちが彼女を強引に地上に送り出したのは、正解だったみたいね」
ラディムこそハラビナの件で初めて気付いたものの、フライアに至っては初見で見抜いていた。フライアのように勘の鋭い人間とこの先地下で出会った場合、エドヴァルドの立場が危うくなるかもしれない――そう懸念したエドヴァルドの両親が、彼女を地上へと向かわせたのだ。
「あなた達にこのことを話して良かったのか、正直なところまだわからない。あなた達まで女王蟻の一族から狙われる可能性が高いもの。それでも私は――。あの子を追ってわざわざ地下にまで追いかけて来てくれたあなた達に、何よりこの国の王女であるあなたにこそ、伝えるべき話だと思った」
フライアの目を見据えるキャシーの視線を、彼女は真摯に受け止め、頷いてみせた。
地下に来る前から、危険な場所だという認識はあった。それでも、ここもテムスノー国であることに変わりはないのだ。フライアはノルベルトに「頼む」と言われた。地下世界を牛耳る女王蟻との接触を果たすためにも、キャシーの話してくれた内容は大きな情報だ。
「セクレト達は、エドヴァルドを男として育て始めた。女としてそのまま育てていたら、顔立ちでいずればれてしまうかもしれない。そうなったら即、彼女は殺されてしまう。でも男として生きていたら、双子と顔は似ていても正体がばれる可能性を少しでも低くできる。そう考えてのことだった。そこまでして彼女を生きながらえさせる必要があるのか、最初は自問自答したわ。でも、私達は彼女に生きて欲しかった……」
ラディムはエドヴァルドに「女ではないのか」と尋ねた時のことを思い出す。あの時の彼女の顔は、本当に鬼気迫るものがあった。それは女だということが女王蟻の一族の耳に入るようなことになってしまったら、そこから正体がばれ、殺されてしまう可能性があったから。だから彼女は絶対に口外するな、と脅しまでかけてきたのだ。
いや。真に脅されていたのは、実は彼女のほうであったのだ。
「男として育てるって口では一言ですむけれど、それはかなり大変なことだったわ。実際の性別と違う生き方――周囲に同年代の男の子という手本がいないのに『らしい』振る舞いを教えないとならなかったもの。その点を彼女に教え込んだセクレトと奥さんには頭が下がる思いよ。そして私とセクレトは、体術や槍操術などを徹底的にエドヴァルドに叩き込んだ。でもあの子は弱音一つ吐かなかったわ。本当に大した子よ……」
キャシーの目の端に、小さな水滴が浮かんだ。キャシーがエドヴァルドの家に近い場所に店を構えたのも、彼女をすぐ近くで見守りたかったからではないのかと、ラディムは漠然と思った。
数奇な運命に巻き込まれ、生き方を捻じ曲げられたエドヴァルド。それでもこの人たちは本当に彼女のことを想い、なにより愛しているのだと、ラディムはキャシーの言葉の節から感じ取っていた。
結局のところ、親子であることに血の繋がりは関係がないのだ。自身の境遇を思いだしながら、ラディムは静かに目を閉じる。少しだけ、彼女が羨ましかった。
「さて、さすがにかなり長くなってしまったわね。あまり店を放ってはおけないわ。セクレトたちは間違いなく女王蟻一族の管理する牢にいるでしょうから、簡単に地図を描いてあげるわね。ちょっと待ってて」
キャシーは立ち上がると、テーブルの前に移動して紙に羽ペンを走らせた。しばらくはペンの走る音だけが部屋に小さく響き渡る。キャシーは描き終えるとその紙を小さくたたみ、ラディムの懐へ無理やり突っ込んだ。
「おい! どさくさに紛れて胸をさわさわすんな!」
ラディムの全身に凄い勢いで鳥肌が広がった。
「えへへ。これくらいは情報料としてサービスしてもらわないと」
そう言われては何も言い返すことができない。ラディムもフライアも手持ちなどない。ツケてもらうように頼むと、再度この店に来なければならない。それは出きる限り避けたかったので、ラディムは歯を食いしばって耐えたのだった。キャシーの『情報料の請求』はすぐに終わったのだが、ラディムには途方もなく長く感じられた時間だった。
ラディムは今のキャシーの手の感触を一刻も早く忘れるべく、フライアを見つめることにした。すっかり見慣れてしまったが、改めて意識すると彼女の青い翅は見ていると心が落ち着く。
「本当は、私もすぐにセクレト達を助けに行ってあげたいのだけれど……」
「いや、せっかく今まで逃げ延びてたんだから、わざわざ自分から捕まりに行かなくていいだろ。セクレトさん達は絶対に助けてくるから。もちろん、エドヴァルドも。だからあんたは安心して待っていてくれ」
「あらまぁ。頼もしいこと言ってくれるわねぇ。それじゃあ帰ってきたら、あなたのためだけにお店を開けちゃうから、楽しみにしててね」
頬に手を当てて喜ぶキャシーにラディムは頬を引き攣らせた。
「それはお断りします……」
「あら、どうして?」
「ほら、俺ってまだ酒が飲めないし……」
「ミルクでもオレンジジュースでも用意してあげるのに」
口を尖らせてわざとらしく拗ねてみせるキャシー。彼らの本気と冗談の入り混じったやり取りを横から見ていたフライアが、おずおずと挙手をした。
「あ、あの、すみません。キャシーさんはどうして私が王女だと……?」
言われてみれば、確かになぜフライアのことを知っていたのかはラディムも気になっていた。
「地上から流れてきたお客さんから何回か聞いたことがあってね。数百年以上も混蟲の者が誕生しなかった王宮に、久々に現れた混蟲だって。こっちでは『深海に咲く翅』とか『海色の翅』だなんて呼ばれているわよ。翅以外の容姿の情報はなかったのだけれど、それでもひと目見てピンときたの」
「そう、だったんですか……」
翅のことしか地下に情報が広まっていないのは、フライアが滅多に人前に姿を現さないからだろう。年に一度の創立際の時でさえ、彼女は翅が生えてから民衆の前に姿を見せてはいないのだ。
「だからあまり目立たないようにね。とは言っても、なかなか難しいでしょうけど」
キャシーは苦笑しながら、大きく無骨な手でフライアの頭を優しく撫でた。
「……はい。あの、コーヒーご馳走様でした」
フライアはそう言いながら、両手で持っていたピンクのカップをそっとキャシーに手渡した。ラディムもカップをキャシーに返す。まだ半分ほど中身は残っていたが、すっかり冷め切ってしまっていた。
「最後に伝え忘れていたことを。女王蟻の一族は、一族が代々混蟲で居続けているという珍しい血筋よ。そして今もなお、その血筋は途切れていないの。くれぐれも気をつけるのよ」
ラディムは一瞬だけ眉間に皺を寄せたが、キャシーの言葉に無言のまま頷くのだった。