13.赤髪の主人の部屋で
何のことはない、ただの飲み屋だ。なぜか『☆』マークに禍々しいオーラを感じてしまったが、たぶん気のせいだろうとラディムは首を横に振る。
「このまま右の壁伝いに進みながら戻ろっか」
「いや、ここに入ろう」
「え? ラディム、お酒を飲みたいの?」
「いや、そういうわけじゃくて。とにかく入るぞ」
疑問を顔に浮かべたままのフライアには構わず、ラディムは酒場のドアに手を伸ばす。
ラディムがここに入ろうと言ったのにはちゃんと理由があった。酔った者というのは饒舌になりやすい。その饒舌な者の相手をしている酒場の主人というのは、必然的に様々な情報を得ることになる。故に酒場の主人は色々と情報通だったりするのだ。
――と、以前フェンから聞いたことがあったのだ。
子供の頃に家を飛び出したラディムは、世間というものを知る前にフライアの元で働くことになってしまった。その彼の事情を深く知るフェンは、できうる限りラディムに様々な知識を授けていたのだ。
とはいっても授業のようなことをしていたわけではなく、顔を合わせた時やたまに一緒に取る食事の時間に、あくまで雑談としてではあったが。内容も他愛のない事が大半だ。それでもラディムにとって、フェンとの会話は大きな知識となっていたのだ。
その辺をぶらついているならず者に話を聞くより、ここの酒場の主人から情報を引き出した方が早いと踏んだラディムの判断をフェンが知ったら、フケた顔にさらに皺を刻んで、彼の頭をワシワシと撫でていたことだろう。そしてこうも付け足していただろう。「あとは経験だな」と。
ドアにぶら下げられた、来客を知らせる乾いた鐘の音が鳴り響くと、店内の客達が一斉にラディムらへ視線を向けてきた。ラディムはそれらの視線に怯むことなく、複眼も駆使して店内の様子を把握する。
テーブル席が二つとカウンター席が五つという小さな店だったが、昼間なのに席はほぼ埋まっていた。全員が男性客だ。
さて、肝心の酒場の主人は――。
ラディムが確認しようとする前に、大きな声が二人にかけられた。
「あらぁ~! 可愛いお客さんが二人も! ようこそいらっしゃあい!」
「………………」
カウンターの奥から聞こえてきた野太くも高い声に、思わずラディムの思考は停止する。
奇異の視線を向けられることなど、これまで幾度となく経験してきた。目の前であからさまな嫌悪の態度をとられることも、とっくに慣れてしまった。だが、ここまで好意的な視線を向けられたのは初めてだ。
男性と呼んで良いのか、女性と呼んで良いのかわからない人種と相対することも――。
声の持ち主を見てフライアも思うところがあったのだろう。サッとラディムの後ろに隠れてしまった。
声の主の人物は、筋肉のついた逞しい体つきの上に、なぜかピンク色のフリフリしたレースのエプロンを身に着けていた。サイズが合っていないらしく、エプロンが上下左右に引っ張られてかなり可哀相なことになっている。
精錬な顔つきを彩る赤い長髪は、絶望的に似合っていなかった。おまけに分厚い唇は、薔薇のような真っ赤な紅が塗られている。
思わず昨日の巨大ハラビナの花弁を思い出し、火の魔法で燃やしてしまいたい衝動に駆られてしまったラディムを、非難することは酷というものだ。
カウンターの内側にいるのは、この赤髪の逞しい女性(?)だけだ。必然的に、この人物が酒場の主人ということになる。
これは、完全に入る店を間違えてしまったか――。
顔の色素を失いながらも、ラディムは必死でこの場から離れる方法を考える。
(まだ間に合う。「間違えました。すみません」とただちに店を出れば大丈夫なはず)
「あっ、あの……」
だが思っていた以上に彼は動揺していたらしい。それ以上、口から言葉が出てこない。
こうなればもう、なりふり構わず逃げるしかない。酒場の主人から目を離さぬまま、ラディムは今入ってきたドアに手を伸ばす。しかし、先ほどよりも感触が柔らかい。
「――?」
控え目にすっぽりと手に収まるこのサイズといい、心地良い手触りといい――。
(いや、ちょっと待て。俺の後ろには確かフライアが……)
錆びた歯車を無理矢理回すかの如く、おそるおそる首を捻る。でも両の目で見る勇気がなかったので、右の複眼だけでその光景を映し出す。
案の定というか、ドアの取っ手を求めていたはずのラディムの手は、フライアの胸を鷲掴みにしていた。フライアは顔から湯気を出さんばかりに真っ赤になりながら、涙目で口をパクパクとさせている。
「……違う、違うんだ」
わざとではない。決して故意ではない。これは事故だ。
ラディムは首をぶんぶんと振りながら必死で否定の意思をフライアに示そうとするが、そこで頭が真っ白になってしまい、弁解の言葉は一つとして出てこなかった。
「おおっ! 兄ちゃんやるなぁ」
「こんなところで見せつけんなよぉ!」
「――――!」
沸き立つ酒場の客の声で、ラディムはようやく見えない呪縛から解放され、手を離すことができた。
フライアは相変わらず真っ赤な顔で石像のように固まったまま、ただ立ち尽くすばかり。羞恥に耐えられなくなったのか、目の端に透明な小さい玉が滲みでていた。
……泣かせてしまった。
激しい罪悪感がラディムの心を蹂躙するが、謝罪の言葉を口にする前に酒場の主人がカウンターから飛び出てきた。
「あらあらあら! いきなりそんなに見せ付けなくてもいいのに、大胆なお兄さんねぇ!でも女の子を泣かせるようじゃまだまだダメね。もっと優しくしなきゃ。何なら私で練習してみない?」
「……は?」
猛牛のような勢いで主人に詰め寄られたラディムは、未知の存在と理解不能な言葉にただ恐怖するばかりであった。
「うん、そうね。それがいいわね。じゃあ早速奥の部屋に――」
赤髪の主人は、ウンウンと何か勝手に納得し――次の瞬間片手でひょいっとラディムの身体を持ち上げ、肩に担いだ。
「なっ!? えっ!?」
「たっぷり指導してあげるから覚悟しなさぁい」
そしてラディムに向けて、ばちんと効果音が鳴りそうな大きなウインクを一回。
――これほどまでにおぞましいウインクが、今後この世に誕生することがあるだろうか? いや、ない。
思わず反語で現実逃避しかけたラディムだったが、状況がそれを許してくれなかった。
主人はもう片方の手で、今度はフライアを担ぎ上げる。フライアの顔も戸惑いと困惑に染まっていた。ラディムと同じく、どういう言葉を発すればわからないようだ。
「それじゃあ二名様、ご案なーいっ!」
嬉々とした声で狭い店内を突き進み、店の奥に向かう赤髪の主人。
「いや。ちょっと。おい! 放せええええ!」
ようやく拒否の声を上げたラディムだったが、時既に遅し。この程度の抵抗など折り込み済みだと言わんばかりに、主人は笑顔でズンズンと歩いていく。
「おーい。手加減するんだぞキャシーさん」
「早く戻ってきてくれよなぁ」
嬉しそうに騒ぎ立てる酒場の客たちの声が、ラディムには鎮魂歌にしか聞こえなかったのだった。
ラディムらが無理矢理連れて行かれた場所は、赤髪の主人の部屋だった。その内装に、ラディムの全身に得体の知れない恐怖が湧き起こる。これでもかと言わんばかりの、少女趣味な部屋だったのだ。
ピンクのソファー、ピンクのハートのクッション、天蓋付きのピンクのベッド、ピンクの棚に皿にマグカップ、等々。そういえば、身に付けているエプロンもピンク色だ。
フライアは担がれながらも、興味深そうに目を動かして部屋の中を見回していた。思えば、フライアの部屋には王族らしい落ち着いた家具や調度品が並んではいるが、こういう趣の物は一切ない。フライアも女の子だ。心の琴線に触れるものがあるのだろう。
目に写る世界がピンク色に占領されたまま、ラディムとフライアは天蓋付きベッドの上に下ろされた。
「ちょっとそのままおとなしく待っていなさい。いいわね?」
有無を言わさぬ雰囲気の主人の言葉に、二人は無言のまま頷くしかなかったのだった。
ピンクの部屋に訪れた静寂。
二人は顔を合わせることなく、ただ沈黙の中に身を沈めていた。それでも、ラディムには複眼で強制的にフライアの様子が見えてしまうのだが。
目の端に溜まっていた雫は一連の出来事で引っ込んでしまったのか、既になくなっていた。それでも彼女の頬は赤く染まったままである。経緯はどうあれ、ベッドの上で二人きりな状況なのに変わりはない。平常心でいろというほうが難しいだろう。
ラディムは好きな子とベッドの上で二人きりというこの状況から、意図的に思考を逸らした。もちろんそんなつもりはさらさらないのだが、意識すると心臓がもたない。
それより彼は、すぐにやってくるであろう未来に不安を抱いていた。
(俺たち、今からあの変なおっさんに何をされるってんだ……)
主人が放った言葉を思い返してみるが、不吉な未来しか想像することができない。子供の頃に溺れかけた時とはまた別の絶望が、彼の心を覆い始める。
主人におとなしく待っていろとは言われたが、逃げるなら今しかないだろう。ラディムは複眼を駆使して、改めて部屋を見回す。
地下ということもあってか、部屋に窓はない。換気用の小さな穴が空いているだけだ。穴の奥からは常に空気を送り出している音が聞こえる。おそらく、中に魔法道具が仕掛られているのだろう。この換気用の穴からは、体どころか頭を入れることもできなさそうだ。
外に出るには、先ほどの酒場の中を突っ切って行くしかなさそうだった。
ラディムにはエドヴァルドみたいな馬鹿力はない。彼女のように壁を壊して脱出するというのは無理だ。実質、ここから逃げ出すのは不可能ということだ。
ちなみにラディムの使える魔法は属性魔法だ。対象を破壊するような魔法は彼には使えない。火の魔法を放って混乱した隙に――とも一瞬だけ考えるが、ラディムは浮かびかけた案に即座に自身で首を振った。自分のために一般人の家を放火するほど、ラディムは非常識でも非情でもない。
このまま、あの主人が戻ってくるのを待つしかなさそうだ。
肩を落としたラディムは、複眼でフライアの様子をそっと見る。フライアの視線は下に固定されているが、先ほどよりは落ち着いているように見えた。
――今のうちに、フライアに謝っておこう……。
先ほどの痴漢行為で、これまでに築き上げてきた心地良い距離感が崩壊してしまうことだけは、ラディムとしては何としてでも避けたかった。もしかしたら既に手遅れかもしれない……という恐怖はあったが、それでも伝えておかねばならない気持ちがある。
謝るタイミングを伺うラディムの視線に気付いたのか、フライアが顔を上げた。警戒心を微塵も感じることのできない、きょとんとした顔。その顔が、ラディムの罪悪感をより肥大させた。
(信頼、してくれてるんだよな、俺のこと。なのに、俺ってばそれを裏切るような――――)
「うっがああああ!」
罪悪感に耐え切れなくなったラディムは、ベッドに頭を激しくぶつけ始めた。突然の彼の奇怪な行動にさすがにフライアも怯えたのか、ベッドの端までずささっと後ずさる。
「えっ、ど、どうしたの……? だ、大丈夫?」
ラディムは半ばヤケクソ気味に、フライアに対して頭をシーツにめり込ませた。
「その、本当に、すまなかった!」
「あっ? えっ? な、何?」
しかしフライアはおどおどしたまま、突然のラディムの謝罪に戸惑うばかりだった。この様子ではラディムの真意を確実に理解していないだろう。
「あの、だからその……さっき店に入った時……」
そこまで言ってやっとフライアは理解したのか、ラディムが見ていて可哀想になるほど顔が真っ赤に染まった。
「あ、あれは……。わ、わざとじゃないんだし……。その、私こそ後ろにいたりして、ごめんね……」
確かに触れたのはわざとではなかった。しかし嫌われても仕方がない事案であっただけに、フライアの返答にラディムは目を見開いた。
「許してくれるのか?」
「うん……。だから、えっと……この話は、その、もう終わり。ね?」
ラディムは彼女の言葉に頷き、ゆっくりと頭を上げる。フライアの海のように広い心にただ感謝した。
(お前の胸もそのうち海のように大きく――って違う! もうこの話題は終わりだっての!)
ラディムが心の中で自分にツッコミを入れた瞬間、部屋のドアが開いた。現れたのは、やはり赤髪の主人。今のやりとりをこの主人に見られずに済んで良かったと、ラディムは心の底から安堵した。
「お待たせぇ」
なよっとした声を出した主人は、小さなカップを二つ持っていた。これもピンク色だ。何だかこのピンク色尽くしにもそろそろ慣れてきた。これでカップの中身がピンク色でも驚かない自信がある、とラディムはぼんやりと思った。