3.異変
ラディムが掌を上に向けると、すぐにうっすらと粉が降り積もった。軽く触れてみると粉は潰れ、指先が水色に染まった。匂いはない。
フライアもそれに気付いたのか、怪訝な顔で辺りをキョロキョロと見渡している。
「何なんだこれ。この色、もしかしてフライアの翅の鱗粉じゃないのか? いくら何でもお前、飛ばしすぎだろ」
「ちっ、違うよ。私のじゃないよ」
フライアは背中の翅と声を震わせながら否定した。その目にまた涙が溜まる。もちろん今のは冗談のつもりだったのだが、思いがけないフライアの反応にラディムの中の罪悪感が急激に肥大する。
気持ちを誤魔化すように大げさに首を回して周囲を見渡すが、粉の出所源となりそうな怪しい物は何一つ見つからない。それどころか木の下のベンチでいちゃついているカップルを視界に捉えてしまい、ラディムの中のイライラゲージが上がっただけだった。
「すごく気になるが、別に毒でもなさそうだし。とりあえず今は無視して進むか」
あくまで目的は花の採取だ。もしかしたらこれも、ただの花粉なのかもしれない。眼前に広がる花畑を前に、改めて決意を固めたところで――。
「――ってよくよく考えたら俺、そのハラビナって花見たことねーじゃん!」
ラディムは頭を抱えて絶叫した。
世話になっているイアラの頼みとあり軽いノリで安請け合いをしていたのだが、かなり肝心なことを彼は失念していた。
ちなみにイアラからは『赤くて大きな花』としか聞いていなかった。しかし花畑には、その条件に該当する花が結構な数で存在している。思わずラディムは、眉間に深い皺を刻んでしまうのだった。
「なぁフライア。ハラビナって見たことあるか?」
とりあえず僅かな希望を込めて、フライアに訊いてみることにした。だが、返事がない。それどころか、隣に居たはずのその姿が彼の視界から消えていた。
「あれ?」
一瞬、嫌な予感がラディムの中に過ぎる。こんな短時間ではぐれてしまったのか、いや、まさか誘拐されたのでは――と考えた直後、ふにょっとした仄かに柔らかい感触が、彼の背中に広がった。
「――!?」
驚愕する彼の腹に、今度は細い腕が二本、優しく絡みつく。そこで初めて、ラディムは何が起きたのか理解した。
フライアが、後ろからラディムを抱き締めたのだ。
「な、なっ!? えぇっ?」
いきなりすぎる展開にラディムはパニックに陥り、意味のある言葉を発することができなかった。そんな彼の身体を、フライアの細い腕がさらにぎゅっと締め付ける。
薄い材質の服一枚に身を包むフライア。先ほどより鮮明に、背中に伝わってくる温もりは増す。『小さくとも胸は胸です』と主張してくる感触が、ラディムの理性をざくざくと削っていく。
「ちょっ? なっ、何で?」
頭の先から出したのかと疑うほど、ラディムの声は上擦っていた。今の彼の心には、余裕なんてものは爪の垢ほども存在していなかった。
だが正直なところ、ラディムは内心、嬉しさでいっぱいであった。長年待ち焦がれた、正に夢のような瞬間だと言ってしまっても過言ではない。
フライアに告白こそしていないが、その気持ちは互いに同じものであるとラディムは確信していた。でなければ、異性の唇にキスなどしてくるはずがない。
この一ヶ月、フライアと今まで通りに接することが非常にもどかしく、辛くもあった。今をおいて、フライアとの距離をぐっと縮める機会はないだろう。
ところがあまりにも突然訪れたこの状況に、ラディムはどう対処すればよいのかわからないでいた。これまでに恋愛という恋愛を経験していなかったラディムには、次にかけるべき言葉が見つからなかったのだ。
沈黙を保ったままのラディム。先に声を上げたのは、フライアだった。
「……いや?」
絹糸のように細く澄んだ声で呟く。切ない声がラディムの鼓膜を震わせた瞬間、彼の脳が、そして心が揺さぶられた。
「いや、じゃない」
もう、色々と限界だった。
(さようなら理性。待たせたな欲望、俺はお前に従う!)
ラディムは勢い良く振り返り、フライアの肩を強く両手で掴んだ。彼女の髪から漂ってくる甘い香りが鼻を擽り、心に渦巻く欲望を加速させる。フライアの柔らかそうな桃色の唇は、熟れた果実が早く食してくれと言わんばかりに誘っている。ラディムはその誘惑に逆らうことなく、顔を近付け――。
次の瞬間、ラディムはフライアから勢い良く身体を離し、後ろへと大きく跳躍した。
彼の全身からは汗がどっと噴き出ている。血の気が引き、顔は青白い。ラディムの心に呼応するかのように、腕からは蟷螂の突起が生えてきていた。
「ラディム……。どうしたの?」
フライアが今にも泣きだしそうな顔でラディムを見る。だが彼は、何も答えることができない。ラディムの視線は、フライアのある一点に集中していた。
それは彼女の、目。
美しい薄紅色のいつもの瞳は、そこにはなかった。身の毛もよだつほど、血のようなどす黒い赤の瞳に変わっていたのだ。既に早鐘を打っていたラディムの心臓が、一層早く鳴り響く。
「う、うわあああ!」
「なっ、何だ!?」
「お前どうしたんだその目!?」
時を同じくして、公園内から次々と男の悲鳴が上がった。どうやら変化があったのはフライアだけではないらしい。どういうわけか、男の声しか聞こえなかった。変化があったのは女性だけの可能性が高い。
ラディムはフライアと距離を保ちながら、この不気味な目の変色は何なのか考える。
誰かが張った大規模な罠だろうか? はたまたこの場所で何かの実験でもしたのだろうか? あのまま自分の欲望に従うまま抱き締めていたら、誰かに背中からざっくりとやられていたのだろうか?
様々な憶測がラディムの頭を過ぎるが、どれも決定的でない。何しろ目の色が変わったという事実以外、今のところ害という害は起きていないのだ。左右の複眼もフルに使って公園内を確認するが、どこも流血沙汰は起きていないようだ。
どうするべきか。いや、とにかくまずは原因を突き止めないと――。そう考えた直後だった。
「ラディム。私のこと、きらいなの……?」
フライアが顔を歪ませて涙を零す。ラディムはその表情や仕草に動揺した。その様子は普段と全く変わらない、いつものフライアのものだったからだ。
――目の色以外は。
次の行動をどうするべきか悩んでいると、突然上から怒気の篭った声が降ってきた。
「ラディム・イルギナ。貴様、王女様に涙を流させるとは……」
名を呼ぶ声にラディムは視線を跳ね上げる。聞き間違うはずがない、この声はエドヴァルドだ。ラディムは首を回して彼を探す。そして背後の木の上にその姿を捉えた。
エドヴァルドはラディムの身長ほどはある長さの槍を持ち、木の枝に佇んでいた。相変わらずの無表情だったが、怒りのオーラを纏っているのはラディムにもよくわかった。
わざわざ自分達を追って来たのだろうか。そこはもう少し気を使ってもらいたかったのだが――。そんなことよりもこの状況の誤解を早く解いてしまわないとさらに面倒なことになりそうだと、ラディムは言い知れぬ不安に襲われていた。
「いや、違うんだ。これには理由があって――」
「問答無用。その罪、命を以て償え」
エドヴァルドは木から飛び降り、槍を真っ直ぐとラディムに向け、構えた。
「ちょっと待て。何でそうなる」
鬼気迫る雰囲気のエドヴァルドに、思わず後退りするラディム。もしかしなくとも彼は、フライアに対して忠誠心以上の感情を抱いているのか。
しかし後ろには、依然真っ赤な目をしたフライアがいる。前門の虎、後門の狼なこの状況に、ラディムは狼狽えることしかできない。
水色の粉が再び彼らの視界を覆ったのは、その時だった。
先ほどよりもずっと量が多い。まるで濃い霧が発生したのかと錯覚してしまうほどだ。
「……霧?」
何も知らないエドヴァルドが疑問の声を上げる。これを好機だと見たラディムは、今のうちに説明をすることにした。
「エドヴァルド、よく聞け。今フライアの目の色が突然変わるっていう、変なことが起こった。そしておそらく、公園内にいる他の女性たちにも同様の変化が起きている。体や精神にどういう影響があるのかはまだ不明だ。とにかく一緒に調べてくれ」
「…………」
ラディムの説明にエドヴァルドは何も言わなかったが、構えていた槍の先は下に向く。良かった、と小さく安堵の息を吐くラディム。とりあえず納得はしてもらえたか。
だがラディムの見解は甘かった。エドヴァルドは槍を放り捨てると、疾風の如き速さでラディムの懐に潜り込んできたのだ。
「くっ――!?」
エドヴァルドの想定外の動きに慌てて身を捻るラディムだったが、反応が僅かに遅れた。瞬きした次の瞬間には、彼の身体は正面からエドヴァルドの両腕にがっちりと捕まれてしまっていたのだ。
ラディムは、頭から地に放り投げられるのを覚悟する。
しかしその覚悟をよそに、エドヴァルドは何も仕掛けてこない。両腕でラディムの身体をきつく縛ったままだ。
この状況、何だかさっきも体験したような。そうラディムが考えた直後。
「ぐえっ!?」
身体に回されたエドヴァルドの腕に、強烈な力が込められた。思わずカエルのような声を出してしまったラディム。みしっ、みしっと骨の軋む嫌な音が聞こえる。
(いや、ちょっと待て! こいつ本気で俺を殺しに掛かってきてるのか!? ってかマジで骨折れる! 痛い! 何を考えているんだこいつは!?)
「かッ――」
声を出そうとしても力いっぱい締め付けられているせいか、喉からは空気が漏れるだけで意味のある集合体になろうとしない。
何とかして抜け出さなければ――。
ラディムはエドヴァルドの腕を引き剥がそうと強引に引っ張ってみるが、びくともしない。
細い腕なのになんという力を持っているのか、彼は。
こうなれば仕方がない――。
ラディムは蟷螂の突起の生えた腕を捻り、向きを変える。当たれば縫うほどの傷になってしまうだろうが、このまま殺されるわけにはいかない。
いざ突起をエドヴァルドの腕に向け――。
ラディムが本日二度目の血の気が引く体験をしたのは、その時だった。
エドヴァルドが顔を上げ、ラディムを見つめる。漆黒の色なはずの目が、真っ赤に染まっていたのだ。そう、フライアと全く同じ色に。




