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第二話 噂のあの人

 夫の部下が用意してくれた馬車の中で、アンゼリカはエーダの入った袋を抱きながら、思案していた。

 あの部下の人、ずっと顔が赤かったし、妙に上ずった声で、あたふたしていたけれど、大丈夫なのかしら。

 アンゼリカが、心配するのも無理はなく、アンゼリカを馬車へ乗れるよう手配した兵士は、アンゼリカが声をかけると、ひどく緊張した面持ちで、変な敬語を使い、ぎくしゃくと動いていた。

 それもこれも、若くて美しいアンゼリカを前に緊張していただけなのだが、良くも悪くもアンゼリカは鈍かったので、そのことに気付かなかった。


 そんなことより、ブランってば、いつまでたっても私を子ども扱いして。それに、自分で誘っておいて、妻を置いて仕事へ行ってしまうなんて酷いわよね。新婚なのに!


 だんだんと、アンゼリカの思考は夫への不満となっていた。


 もともと、アンゼリカとブランは幼馴染である。アンゼリカの生まれ育ったソルベの領主はアンゼリカの父だ。ブランの父親が領主をしているマンジェはソルベの隣で、両家の親交も厚かった。アンゼリカとブランは、どちらも末っ子で、仲の良かった両家の父親たちが、勝手に二人の結婚を決めていたのである。

 幸いなことに、二人も互いを憎からず思っていたので、円満に婚姻は成立した。

 だが、幼いころから、知っているからか。ブランは、何かというと、アンゼリカを子ども扱いするのである。

 先ほどの、勝手に歩くとまた迷子になるぞ。というセリフがよい例といえよう。

 森へ行くのを止めたのも、アンゼリカをまだ子供だと思っている証拠だといえる。

 大方、森で迷うことを心配しているのだろう。

 小さい頃、家の近くにある森で何度も迷子になり、ブランに探し出してもらったことを思えば、仕方がないのかもしれないが。


 ふと、外に目を向けたアンゼリカの瞳に、緑がうつった。

 先ほど、ブランに示した森が、建物の間から見えたのだ。

「ねえ、ちょっと」

 アンゼリカの呼びかけは、走行する音に阻まれて、なかなか御者に届かなかった。

 三度目の声かけにようやく気付いた御者は、アンゼリカの言葉に困った顔をした。

「ですが、お嬢様。お嬢様をご自宅へお返しするように、兵士に言いつかっておりやす」

 渋る御者を説得というより、半ば脅して、向かったのはもちろん森だ。


 小さい頃は何度も森で遊んだ。

 木苺を摘むのに夢中になりすぎて、よく迷子になったものだが、アンゼリカはもう十八。立派なレディである。

 迷子になどなるはずがない。

 魔物がでるなどという子どもだましに、惑わされたりはしないのだ。

 見ていらっしゃいブラン。木苺をたっくさん摘んで、見せびらかしてやるんだから。

 アンゼリカは立派なレディにはあるまじきことに、鼻息を荒くし、夫を見返してやると、心に誓うのであった。

 森の入口で止まった馬車から降りると、御者から声がかけられた。

「いいですかい、お嬢様。ここいらの森はショコラの森と言って、とっても不吉なんでやす」

「ショコラの森? 可愛らしい名前じゃないの」

 笑って答えたアンゼリカに、神妙な顔つきで首を振り、御者は言った。

「知らないんでやすか? ショコラ嬢といえば、かのオランジェット公爵の妹御でごぜえやすよ」

 恐ろしい告白でもするように、身を縮めて手綱を握りしめる御者に、ショコラは首をかしげて見せた。

 だから何? と思ったのが顔にでたのだろう。御者は呆れた声を出した。

「まさか、オランジェット公爵をご存じないんでやすか?」

 それくらい知っていると、アンゼリカは頬を膨らませた。とても、人妻とは思えない行為だが、彼女には似合う。

「オランジェット公爵といえば、ジャム・グラッセ宰相閣下でしょう」

「へえ。その閣下の妹御が、そのう、ショコラ様で、そのう……こちらの森に身を隠しているという噂なんでさあ」

「何で身を隠す必要があるのよ」

 御者は、森の方を恐ろし気に眺めやって、声を小さくした。

「ショコラ嬢は、魔物に憑かれているという噂で。何とも醜いお顔立ちなんでやす。いえ、実際に見たわけではごぜえやせん。そういう噂なんでさあ。年頃になったショコラ嬢は、幾度も見合いをし、そのたびに断られたとか。ショコラ嬢の姿を見た相手が、倒れたり、寝込んだりで。その理由がショコラ嬢のお顔立ちのせいという話でさあ。なんでも、顔は人の顔でなく、魔物の顔になってしまわれているとか。恐ろしいことでやす。見ただけで、倒れるというのでやすから。そんなわけで、醜聞を気にしたオランジェット公爵がこの森にショコラ嬢を隠してしまわれたらしいんでさあ」

 へえ、と相槌を打ったアンゼリカに、御者はなおも続ける。

「それからというもの、この森に追いやられたことを恨んだショコラ嬢が、森に迷い込んだ娘っ子をさらって食べてしまわれるとか」

 真剣な顔で言い募る御者を見ていると、アンゼリカは可笑しくなってしまった。

 本気で魔物に憑かれたと思っているのか。

 魔物など、王都にいるわけがない。

 もしも魔物がいたとして、アンゼリカの夫は、王都を守護している王立国軍の将校なのだ。

 王都に魔物の居場所などあるわけがない。

「大丈夫よ。私は平気。ほら、これ、お礼よ」

 差し出したのは、今日出かける際に、ブランからもらったお小遣いだ。御者は戸惑ったように、銅貨を三枚受け取った。

「あなたが言いつけどおりに私を屋敷に送らなかったことは内緒にしておくわ。しばらく散歩したら満足するから。さあ、もう帰っていいわよ」

 やはり、屋敷へ送り届けると言う御者を説き伏せ、アンゼリカは、森の中を分け入った。


 森の中で、土と草木の匂いに包まれ、アンゼリカは久しぶりの解放感を味わった。

 葉擦れの音。揺れる木漏れ日。遠くに聞こえる鳥の声。

 何もかもが久しく、慕わしかった。

 途中、木苺が群生している場所を見つけた。

 一口齧ると甘酸っぱい味が口いっぱいに広がる。二つ程摘まんで食べ、改めてブランのために野苺を摘む。片手いっぱいまで積んだ野苺を、服の隠しから取り出したハンカチーフに包んだ。まだ、もう少し摘んでも大丈夫そうだ。

 野苺はブランの好物なのだ。

 幼いころ、野苺を摘むのに夢中になったのも、遊びにきたブランに食べさせたかったが故である。

 夢中になりすぎて、迷子になり、結局ブランに迷惑をかけてしまうのだが、迎えに来てくれたブランがアンゼリカの差し出した野苺をおいしそうに食べてくれるのが、たまらなく嬉しかった。


 最近いつも、難しい顔をしているもの。

 たまには、笑わせてみたいわよね。

 仕事が大変な夫を自分なりに気遣っているつもりのアンゼリカである。

 若い女性が一人、人気のない物騒な森の中にいることをブランが知ったらどうなるか、ということには頭の回らないアンゼリカであった。


 不意に彼女の背後から音があがった。

 驚いて振り返ったアンゼリカの目に入ったのは、揺れる繁み。風で揺れたわけではなさそうだ。その証拠に、今も繁みは大きな音を立てている。

 何かが来る。

 アンゼリカは立ちあがって、いつでも逃げ出せる体勢を整えた。

 揺れる繁みがより一層大きな音を立てた。

 そして、アンゼリカは見た。

 見てしまった。

 アンゼリカの見たそれは、緑色の皮膚をしていた。触ると硬そうだ。いや、そんなことは問題ではなく、いや、問題ではあるのだが……。

 混乱する頭を押さえたアンゼリカと、繁みから現れた者の視線があった。

 あった気がした。

 気がしたというのは、その者の目が空虚な黒い穴のように見えたからだ。

 アンゼリカは、不意に気が遠くなる。

 美しい緑の葉とその奥に青空を見たと思った瞬間、アンゼリカの視界は暗くなった。

 遠くで、驚いたような若い女性の声がした気がしたが、それを確かめるすべもなく、土の上に倒れた。

 持っていたハンカチーフから野苺が零れ落ちる。

 アンゼリカは生まれて初めて気絶したのであった。




ここまでご覧いただきありがとうございました。

お菓子の国シュトレン王国が舞台の今作、少しでもお楽しみいただけていればよいのですが。

更新は不定期になってしまうと思いますが、気長にお付き合いいただければ幸いです。


とりあえず、次回第三話は明日更新できたらいいなと思っております。


それでは、またお会いできることを願って。

愛田美月でした。

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