第一話 お菓子の国
シュトレン王国のほぼ中心に位置する場所に、王都はあった。
温暖な気候はシュトレン王国の東端、ソルベと変わることはない。
ソルベとの違いといえば、ただ、建物が多く、人が多く、木々が少ないだけだ。
それだけの違いだったら、まだよかったんだけど。
アンゼリカは、大きくため息をついた。
何より違うのは、町中が甘い匂いに満ちていること。
少しならまだ許せる。だが、大通り全体が甘い匂いに満ちているのは不快でしかたがない。
「胸焼けしそうよ。まだ何も食べていないのに」
アンゼリカは歩みを止めて、胸の下辺りを押さえた。
甘い匂いをのせた風が通り過ぎ、アンゼリカの赤く長い髪が揺れる。
後ろから追い越してきた女がわざわざ振り返って、迷惑そうに顔をしかめたことに気づき、慌てて歩みを再開した。
道行く人の手には、必ずと言っていいほど、菓子が握られていた。
男も女も、老いも若きも、皆おいしそうに菓子を食べ歩いている。行儀が悪いとは誰も言わない。ソルベでは眉を顰められる行いだが、王都では当たり前のことらしい。
中でも、一番多く食べられているのが、ふっくらと焼き上がった棒状の生地に、たっぷりの砂糖と、炒ったトリンの実を細かく砕いてまぶしたエーダという名の菓子だ。
どうやら首都名物の菓子らしいが、アンゼリカはまだ食べたことがない。本当は、これを食べに出て来たのだが、食べる気がすっかり失せてしまった。
シュトレン王国の大通りと呼ばれるこの道は、国民憩いの場、プレッツェル広場へと続いている。
大通りの両端に建ち並ぶ屋台は、どこもかしこも、菓子の店。エーダの他にも、四角く切った果物を焼いて、溶かしたチョコレートにつけて食べるチェイを売る店や、小さく丸い生地の中にクリームを入れたマルイッテの店など、これでもかと色々な種類の菓子の屋台が並んでいる。
甘い匂いが充満しているのも当たり前の話だ。
「ああ、どうしてこう、どこを見ても、菓子、菓子、菓子。菓子の店ばかりなのかしら。たまには、クラセンの串焼きとかあってもよさそうなのに」
クラセン鳥の串焼きはソルベではよく食べられている。塩をかけて焼いたあの香ばしい味を思い出して、涎を垂らしそうになったところで、彼女の背に声がかかった。
「アンゼ! なぜ一人で先に行くんだ。また迷子になるぞ」
アンゼリカは声の主を振り返った。雑踏の中、吸い込まれるように彼女の青い瞳が焦点を合わせたのは、長身の男性。
一見細身に見えるが、こちらに歩み寄る動作はきびきびとして力強さを感じる。
短く刈り込まれた黒髪と合わせたような、黒い制服を身にまとった姿は颯爽としており、周りにいるご婦人方の注目の的となっている。
切れ長の目元が涼しげな彼は、何を隠そう、アンゼリカの夫だ。
アンゼリカは今年の春、目の前に立ったこの男、ブランの妻として、東の端ソルベからこの王都へ嫁いできたのである。
今日は、こちらへ嫁いできて初めて、夫に付き添ってもらい、街へと出てきたのである。
「またって何よ。あなたが、勝手にいなくなったのでしょう」
彼女はつんとそっぽを向いた。美しい横顔は、勝気な性格をよく表している。
「エーダを買ってくるから待っていろと言っただろう」
呆れた声音が耳を打ち、アンゼリカは顔を夫の方へ向けた。
「だって、早く通り抜けたかったのよ。ここ、どこもかしこも甘い匂いで充満しているじゃない。私の体まで甘くなりそうよ」
「抜ける? 王都はどこへ行っても、たいてい菓子の匂いがするが……」
どことなく困惑したような彼の言葉に、アンゼリカは眉を寄せる。
「ええ? 冗談でしょう」
「冗談なわけがないだろう。我が国が別名お菓子の国と呼ばれているのを知らないわけではないだろう」
立ち止まっていることで、通行人の邪魔になっていることに気付いたのだろう。ブランは妻の細い腰に腕を回し、路肩へ足を向けた。
屋台と屋台の隙間に、二人で身を寄せ立ち止まる。
「知っているわよ。だからって、大通りの端から端まで、菓子の店が並んでいるなんてこと、ないわよね」
ブランはアンゼリカから目を逸らした。
アンゼリカは息を飲む。
「まさか……」
「そのまさかだ。ソルベの街にも菓子の店はたくさんあっただろう」
確かに、ソルベにある店の数は、菓子の店が一番多いが、だからといって、どこまで行っても菓子の店ということはなかった。
「これが、観光客の売りになっているんだ。ブリオッシュ王の御代に起こった第一次菓子革命以来、我が国一番の産業だからな」
ブリオッシュ王の御代は、今からおよそ百五十年前。
周辺諸国との戦が鮮烈を極めた折、ちょっとばかりおかしくなった――と、アンゼリカは思っている――甘党で有名なブリオッシュ王は、遠征に行く際に持っていける菓子を作れと命じた。
しかし、これがなかなかうまくいかない。遠征に持っていくということは、長期保存のきく菓子でなければならない。なかなか長期保存のできる菓子ができないことに焦れた王は、一家一菓子職人法を発布。これはそのままの意で、例外はあるものの、各家は、身分関係なく、必ず一人菓子職人を出すことという無茶な法律である。
このため、シュトレン王国の菓子職人の数は一気に増えた。
増えた菓子職人たちは、生き残りをかけ、様々な菓子を生み出した。それに伴い、菓子に合う作物の栽培が盛んになり、菓子に合う食器、菓子作りの道具も独自の進化を見せることとなった。
これが世にいう菓子革命である。
一時は菓子用の食材ばかりが栽培されたため、主食が菓子になっていたという笑い話もある。
今では、シュトレン王国といえば、菓子である。他国へ輸出しているものも、菓子や、菓子の食材が多い。シュトレンへ行けば、どこでもおいしいお菓子が食べられるということで、近年他国からの観光客も増えていた。
「ねえ、ブラン。もう、ここはいいわ。私、あっちにある森へ行ってみたい」
アンゼリカは北の方向を指さした。ブランは妻の指さした方角を見て、渋い表情を浮かべた。
「あそこはだめだ」
あっさりと切り捨てられ、アンゼリカは眉を跳ね上げた。勝気な瞳が細められる。
「どうしてよ! 王都へ来てから、毎日毎日、屋敷の中に閉じ込められて、行儀作法ばっかり。私にだって憩いは必要よ!」
自らの正当性を主張したつもりのアンゼリカに、夫は断固として首を縦に振らなかった。
それには、相応の理由がある。ブランとて、可愛い妻の意に沿うようにしてやりたい。だが、あの森は忌むべき噂のある場所なのだ。
「あの森には、魔物が住むといわれている。絶対に近づくな」
しばらくの間、アンゼリカとブランはにらみ合った。新婚夫婦の甘い雰囲気など微塵もない。
「マンジェ中尉!」
二人の険悪な雰囲気を破ったのは、ブランとよく似た服を着た若い男だった。その後ろにもう一人同じ制服を着た男がいる。
男達は大通りを横切って、ブランの前に立つと敬礼する。
それに頷いたブランを見て、敬礼をといた二人のうちの一人が、声を上げた。
「大尉がお呼びです」
「それで、わざわざ出迎えを寄越したのか、あの人は」
呆れ声だったが部下の二人は気づいていないのか、どこまでも真面目に答える。
「はっ、一つ向こうの通りに馬車を用意しております」
アンゼリカは、慇懃な二人の男達を、目を白黒させながら見ていた。
そのため、男達からこちらへと振り返ったブランの声が耳に届くまでに、しばらく時間がかかった。
「アンゼ、おい、聞いているか」
「え? 何かしら」
ブランはあからさまに溜息をついてみせ、アンゼリカの頭に手を置いた。腰を曲げ、彼女の目線に合わせる。
「もう行かなきゃならない。馬車を手配してやるから、家に帰れ」
頭をぽんぽんと軽くたたいて促したブランに、拗ねた目を向ける。いつまでも、子ども扱いしてと、思ったのだ。
「中尉、こちらのご婦人は……」
二人のうちのひとり、赤茶色の髪の男がアンゼリカを手で示した。
彼はアンゼリカと目が合うと、顔を赤くして、視線を逸らす。風邪でもひいているのだろうか。と、アンゼリカが考えている間に、ブランが部下に答える。
「妻のアンゼリカだ。すまんが、一つ馬車を用意してやってくれ」
「はっ!」
ブランはかしこまる二人の部下に頷いて、アンゼリカを置いて歩き出す。
数歩進んでから、不意に足を止め、振り返った。小走りにアンゼリカのもとへ戻ると、持っていた袋から、棒状の菓子を一本取り出し、半分ほど食べて袋に戻した。
何をしているのかしら。と、不審をあらわにするアンゼリカに、食べかけの菓子を戻した袋を押し付ける。
「エーダだ。帰って食べろ。一つも残さずにだ。いいな、全部自分で食べるんだぞ」
「全部? あなたの食べ残しも?」
「もちろんだ!」
妙な気迫を発する夫に、不機嫌だったことも忘れ、アンゼリカは頷いた。
「分かったわ。行ってらっしゃい、ブラン」
「ああ、行ってくる」
颯爽と踵を返したブランの瞳に、妙に生暖かい目で二人を見守る部下の顔が一瞬見えた。
一瞬だったのは、ブランが振り返ってすぐに、部下たちがにやにや笑いから、真面目な表情に切り替えたからだが、少し遅かったようだ。
ブランは眉根を寄せ、不機嫌さを隠そうともせず部下の一人に声をかけた。
「行くぞ」
慌ててあとを追う部下を振り返らず、ブランは脇道へとつながる小道へその姿を消した。